あらすじ
「社会の役に立ちたいと思いました」
2016年7月、19人の障害者を殺した植松聖。
全16回の公判の果てに2020年3月、死刑が確定―――。
彼の目から見えていたこの「世界」とは?
残酷な「本音」が「建前」を打ち破り、
「命は大切だ」というような「正論」を口にする者が
「現実を何もわかっていない」と嘲笑される光景があちこちにある。
そんなこの国に溢れる「生産性」「迷惑」「1人で死ね」という言葉。(中略)
彼の悪意はどのように熟成されていったのだろう。
「死刑になりたかった」のではない。「誰でもよかった」のでもない。
彼は衆院議長への手紙で「日本国と世界平和のために」とまで書いている。
――「はじめに」より
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Posted by ブクログ
障害者福祉に携わる人は、ぜひ読んだ方がいいと思う。特に、最後の対談と後書きは読み応えがある。
犯行を犯した被告が、なぜそういうところに行き着いてしまったか、真相はわからないけれどもかなり近い所まで描いているのではないかと思う。
頑張らないと、しっかり考えないと、簡単に虐待につながる環境に傾いてしまいやすい現場が福祉のあちこちであると思う…。自戒をこめて、たくさんの人に手に取ってもらいたい本だと感じた。
Posted by ブクログ
とても衝撃な事件で社会的にも重大な影響を与えたこともあり、いつか関連書を読んでみたいと思っていた。読むにあたって猟奇的な事件でもあり、あとの読後感とかが心配で気持ちが引くところもあったが、やはり加害者の犯罪に至った心理状況に興味があったこともあり、読みだすとその興味に向かって一気に読んだ。
犯罪者の育った環境や学校や職場での交友関係にも大いに興味があったのだが、ここのところはもう少し記述が欲しかった。が、これは裁判傍聴記というタイトルでもあり、欲張りすぎか?
とてもすっきりと無駄を省き、読みやすい。裁判を傍聴してなくてもその様子がありありと垣間見ることができる。優れたドキュメントだと思った。また犯罪に巻き込まれた入所者や職員の詳述もおぞましくも印象的だった。
障碍者に対する支援、福祉施設、環境なども改めて考えさせられる本だった。
Posted by ブクログ
植松青年の犯行の原因は「 優生思想でも何でもない 単純な嫉妬ですよ」ってことです。 社会的に何もできないものが 優遇されて のうのうと生きているのに対する やっかみ だって それに引き換え 俺は生活保護 1つ取るのだって大変なのに という。
障害者が守られているように見えるのは おそらく 障害も 病名もない人たちが「死ぬまで 自己責任で競争し続けてください。 負けた場合は 野垂れ死にってことで」という 無理ゲー を この20年以上強いられているからだろう。 本当は苦しいけれど 弱音を吐いた瞬間に落第者とみなされてしまう。 だから「弱者」が「守られて」いるのが許せない 。おそらくそんな気分の同一線上にベビーカーで電車に乗る人を必要に避難する 子連れ ヘイトがあり 駅などで女性だけを狙ってぶつかってくる わざとぶつかる男がいる。
この20年以上 生産性が高く 役に立つ自分を 全方向にプレゼンし続けなければ生きる価値がないという強迫観念に 多くの人が苛まれている。 毎日 毎分 毎秒 。そんな中 「怠けて楽して得しているように見える 」ように見える「誰か」へのささやかの殺意が本人も無意識のまま胸の中でくすぶりながら 肥大し続けている。
Posted by ブクログ
注目された裁判、傍聴席は抽選で、直接傍聴できた回数はそれほど多くない中、数々の取材と情報収集で枚回分の内容をまとめた本書。全体を通して読みやすいものの、著者の感じるもやもやと戸惑いが随所に表され、読み流すような内容ではない。正直、我々が知りたかったような内容はほとんど明らかにはされていないが、それは裁判自体で明らかにならなかったためだということが分かる。本来はこのもやもやを社会全体で考えていかなければならないはずだが、できていないばかりか、ほとんど忘れられそうになっていることに危機感を感じた。
Posted by ブクログ
読んでいて気持ちが良いものではなかった。今年からノンフィクションの事件レポを読むようになり、自分がいかに狭い世界で生きてきたのかを痛感した。到底理解し得ない思考を持つ人たちが存在しているし、その人たちも行きにくさを感じている。
当時のこの事件のニュースを見た私は、ショックと同時に時代が変わってしまったなと感じた。重度障害者施設で働いた事があるからである。介護の理想と現実を少しは理解しているし、綺麗事だけではやっていけない。毎週面会にくる家族もいるし、苦渋の選択で施設入所を選択した人もいる。一方で全く面会に来ない家族もいるし、本人の暴力に苦しんで施設入所を望んだ人もいる。施設入所させて、本人の存在を無かった事にさせる人もいる。
「いない方がいい」と考えるまでは自由だ。でも、それを発言したり、ましてや行動に移すとなると話は違ってくる。植松死刑囚は、相手がどう感じるかを理解する能力が乏しい。ひとつ、尾野剛志さんとの会話が印象的だった。
植松死刑囚に謝罪を要求したら、「最初に会った記者にすでに謝罪はしている。記事になってると思います。」と。
自分の発言が相手にとってどのように捉えられるかの想像ができていない。これからの世界は、このような人がどんどん増えてくるんだと思う。
Posted by ブクログ
この事件について何冊か読んでいるけれど、やっぱりどうも腑に落ちない気持ち悪さがある。
こうだと決めつけてはいけない気がする。ずっとこの気持ち悪さと向き合って考え続けないといけない。思想が偏って凝り固まっていかないように、いろんな視点を得ることを忘れたくなくて、少しずつ関連本を読む。