あらすじ
還暦とはよく言ったもので、「人生100年時代」を迎えつつあるいまも、60歳は転機の年。仕事に区切りがつき、子どもは独立。そしていよいよ自分の人生の終わりも視野に入ってくる……。「50歳を境に人生をギヤチェンジしていこう」と勧めてきた著者が、いよいよ60歳を迎えるにあたり、いつかは訪れる死というものを、どのように受け入れればよいかを考えていく。「宗教家・哲学者・芸術家・文学者など古今東西の賢者たちから導きを受け、後半生をより良く過ごすために必要な「死生観」の養い方を学ぶ一冊。
第1章 自分で人生を作り出すということ
第2章 死といかに向き合うか――賢者達の死生観
第3章 この世とあの世の道理を学ぶ――宗教の教え
第4章 死の瞬間を表現する――文学と死生観
第5章 人はいかに生きて、いかに死ぬべきか――私の死生観
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Posted by ブクログ
ニンゲンは100%死ぬ。誰も逃れることができない。そして、生物の中で、ニンゲンだけが死ぬことを理解している。生は星の瞬きの時間であり、一瞬で死に至る。だから、命どぅ宝だ。
齋藤孝が、死生観について描いている。齋藤孝は「死生観とは、生と死に対する個人の考え方であり、生の意味を問い続けて死の不安に打ち克つことだ。自分なりの死生観を持つことによって、死をただ恐るのではなく、死を受け入れられるようになる」という。
人間は、死に対して「来世」を発明した。現在の生が失われても、次があるということで不安を解消した。
ハイデカー「いつか死ぬということを自覚的に受け入れるのが本来のことである」
孔子「曰、未知生、焉知死」未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
まだ生きているのがどういうことかもまだわかっていないのに、どうして死がどんなものかわかるはずがあろうか。この孔子の言葉は、うまい、孔子って、意外とおもしろい。
孔子「曰、朝聞道、夕死可矣」朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」
朝に正しく生きる道を聞けたなら、その日の晩に死んでもかなわない。
北斎は、90歳で亡くなった。その時「あと 5年生きていられたなら、真の絵描きになれる」といった。それは、途上の死である。常に挑戦し、前向きに生きる姿勢が浮き彫りになる。
『夜と霧』を書いたフランクルは、アウシュビッツのホローコーストのなかで、「生きるか死ぬかは自分の未来を信じられるかどうか」で左右されると気がついた。フランクルはいう「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験される」つまり、人生に期待するのではなく、人生の期待に応える必要があるのだ。そして、今できること、自分のできることに集中せよというのだ。
吉田松陰はいう「吾が生を善くするものは、すなわち吾が死を善くする所以なり」
荘子はいう「生は死の仲間であって、死は生の始まりだ。もし生と死が仲間なのなら、我々は何も悩むことはないはずだ。かくて万物は元々一つのものだ」
ドーキンスはいう「人間を含めた生物は遺伝子を残すための乗り物にすぎない」自分が死んだ後に遺伝子が受け継がれるとしたら、自分の命が限られていても、命が続くことになる。
老子はいう「死してしかも亡びざる者はいのちながし」「生にいでて死に入る」
ニーチェはいう「愛する対象の死に出会った場合は、この死の必然と和解し、死を受け入れることである」対象の喪失は現実の喪失につながり、失ったものは戻らないという断念が求められる。
死生観を持つことによって、平然と死を受け入れられる境地になり、不安に打ち克ち、自分の人生を作り出していくことだ。
柳田國男は「どうして東洋人は死を恐れないか」に対して、特に日本的なものとして、死んでも霊は遠くに行かず、身近にいる。そして盆にはその霊を迎え入れたりする。この世とあの世があり、霊は行ったり来たりする。「他界する」という言葉は、別の世界で生きていると考える。生きていた時の念願は、死後は必ず達成できると考えていた。そして、亡くなった人の孫が生まれると「生まれ変わりではないか」と感じたりする。死と霊は常に身近にある。死がなければ、誕生はない。すべての世代は、次の世代の到来を可能にするために死ぬ。
キャンベルはいう「私たちは死を理解できません。死を静かに受容することを学ぶだけです。キリストの十字架上の死は、死の受容ということの根本的な教えである」
市原悦子はいう「無用になって死んでいくわけじゃない。生きるだけ生きて死ぬ」
樹木希林はいう「私ね、自分の身体は自分のものだと考えていたんですよ。とんでもない。これ、借りものなんだっていうふうに思えるようになりました。親から生んでもらったこの身体をお借りしているんだ」「これだけたくさんのがんをもっていると、いつかは死ぬじゃなくて、いつでも死ぬという感覚なんですよ。ごくろうさま。お借りしていたものをお返しします」
イエスはいう「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」
ブッダは死の間際にいう「悲しむな。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか。すべての愛するもの、好むものから別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものである」自分の死を悲しむなということだけでなく、存在したもの全ては終わりがある。それは当然のことわりである。
江戸時代の佐藤一斎はいう「少にして学べば、すなわち壮にして為すことあり。壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。老いて学べば、すなわち死して朽ちず」
石川啄木はいう「こころよく 我にはたらく仕事あれ それをし遂げて 死なむと思ふ」
自分の心に素直に生きるということは、死を受け入れながら、生きるだけ生き抜くことだ。
なぜか、先人たちの残した言葉は、心を豊かにするものだ。生きていることが楽しい。
Posted by ブクログ
本来「死」は日本人にとっては身近な概念
でした。
祖父や祖母を家族で看取り、お盆には先祖
の霊が家に帰ってくると教えられました。
なのに、いつからこんなに「死」から目を
背けてしまったのか。
「ウンコの処理が分からない社会は危険」
と言われます。同様に人にとって最も恐れ
るべき「死」を遠ざけてしまっては、人生
の本質からも遠ざかってしまうと思います。
「キレイはキタナい」のです。
「死」を意識してこそ「生」があります。
まさに極上の死生観を学べるのに最適な一
冊です。
Posted by ブクログ
還暦は人生の中締め。自分の人生の意味をあらためて考え直す時間を作る。
今なら自信を持って言える。今日までの人生、上出来でございました。これにておいとま致します。by 樹木希林。
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昨年、斎藤孝の講演会を聞く機会があった。
物事を正しく理解していなければ、
人に正しく伝えられない。
正しい日本語を話せば、
通訳の人も正しく通訳ができる。
そこが強く印象に残っている。
本書も斎藤孝が、正しく理解している事を
アウトプットしている。
94〜95ページは、
信じる者は救われる
について書かれている。
求めよ、さらば与えられん
についても記述がある。
これは、故渡部昇一が、
知的生活の方法
で、生き方についてのヒントとして
紹介していた。
これは真理だと再認識した。
死ぬ事を前提に、正しく生きていく。
これは実践したい。
Posted by ブクログ
死の恐れが、生をどう捉えるかで大きく変わる事を学んだ。特にヴィクトールEフランクルが書いた夜と霧の紹介で、我々が人生の意味を問うのでなく、我々が問われてる、というのは腑に落ちた。懸命に答えを出していかなければならず、その使命を果たすのが人生。そこに答えを見出した先の死は、あまり重要なものにならなくなるのではと感じた。
Posted by ブクログ
齋藤孝(1960年~)氏は、東大法学部卒の教育学者、著述家。明治大学文学部教授。教育、コミュニケーション、自己啓発などに関わる一般向け書籍を多数執筆。
私はこれまで、広井良典『死生観を問いなおす』、遠藤周作『死について考える』、山折哲雄『わたしが死について語るなら』、鎌田東二『日本人は死んだらどこへ行くのか』、島田裕巳『人は死んだらどこに行くのか』、小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』等の「死(生観)」に関する数々の本や、本書にも出てくる、山本常朝『葉隠』、ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』、吉田松陰『留魂録』、エッカーマン『ゲーテとの対話』、深沢七郎『楢山節考』、『いしぶみ-広島二中一年生全滅の記録』、『きけ わだつみのこえ』、石光真人『ある明治人の記録』等を読んできたが、還暦を控え、「60歳からの「生きるヒント」」という副題のついた本書を新古書店で偶々目にし、読んでみた。
本書は、著者が、孔子、ヴィクトール・フランクル、荘子、老子、ハイデガー、フロイト、柳田国男ら古今東西の賢者の言葉から「いかに死と向き合えばいいのか」を考え、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教等の宗教による死生観を明らかにし、折口信夫、正岡子規、ゲーテ、太宰治、『楢山節考』、『万葉集』の歌人等は「死」をどのように表現したのかを綴ったものである。
読書家で知られる著者らしく、引用が盛り沢山であるため、少々散漫な印象が残るのだが、著者も書いているように、「人生の中締め」の時期である「還暦」を迎えるにあたって、自分の人生の意味をあらためて考え直すためには参考になるだろう。
因みに、著者は、「死を目前にしているときでも泰然自若としていられるような自然体」をつくり、「「死んでゆく日も本読んで」という心構え」で、「煙のように軽くなり、上機嫌で朗らかに笑って、すっと亡くなるというのが私の理想の死に方」だと書いている。
自らも、著者の理想とするような死に方(裏を返せば「生き方」だが)ができるよう、精進したいものである。
(2023年2月了)
Posted by ブクログ
古今東西の賢者に学ぶ死の不安に打ち克つ方法!
子供達が社会人になり、それぞれパートナーを見つけた今、「死」は怖いものではなくなりました。(多分?)
「私が死んだら、この子達はどうなるの?」
問題は、
まぁ~。どうにかなるわね、頑張って!
となり、
(もちろん、まだまだ教えたい、伝えたい事は山ほどあるけど。)
読みながら、うんうん、うなずいたり。
それは違うでしょ!
何も残さない。という潔い終わりかたも素敵じゃないの?
と突っ込んだり、古今東西の賢者達とやりあうのも楽しかったです。
Posted by ブクログ
令和2年第二波がやってくる前の9月頃に読み終わった本ですが、年末の部屋の大掃除で見つけた本です。今年は八月に目の手術をしたのと、在宅勤務で私の大切な読書タイムであった通勤時間が減ったので本を読んだ冊数は少なくなりましたが、その代わりに本当に読みたい本に絞って読書をするようになりました。
三色ボールペンで有名になった、この本の著者の斎藤氏によるもので、あと3年と少しで60歳を迎えることになる私にとって、ちょうど良い時期にこの本に巡り会えました。
60歳を超えても働いている可能性はありますが、今の会社で今と同じスタイルで働いているとは限りません。60歳以降は自分の人生を納得して生き抜いたな、と後悔しない生き方を決断していきたいと感じました。
以下は気になったポイントです。
・何かしらの目指すところがあり、それが叶えられたら死んでもいいという熱意を持てたら良い、例え達成できなかったとしても常に到達を目指して進んでいく姿勢を持つことが大切である(p22)
・自分なりに精一杯上を目指して「あと5年あれば」と思いを馳せながら息を引き取るのも理想の死に方の一つである(p25)
・我々が人生の意味を問うのではなく、我々が問われている。そうであるから懸命に答えを出していかなければならず、その使命を果たすのが人生である(p31)
・荘子のように、いま与えられている生は、借り物に過ぎないという考え方をしていれば執着心は捨てやすくなる(p48)命を守ることに執着しない方が、かえって危険にあうことは少なく、死地へいっても助かりやすい。死にたくないと身構えているよりも、むいしぜんでいたほうがいいという考え方がある(p56)
・常にリニューアルしようとしている人は、死の恐怖に襲われにくい(p78)
・正月のお年玉にしても、新しい年に変わるときに魂が新しいものになるという考えの「年魂(としだま)」から来ているという説がある(p168)
・若いうちに学んでおけば壮年になって役立ち、壮年期に学べば老いても気力は衰えない、老いてから学べば、死んでからも朽ちることはない、ということである(p178)
・跡形もなくこの世から消えるのではなく、何かしらのものを残しておく(p181)
・還暦は「人生の中締め」の時期である、意味としては「お開き」に近く、そこから残るも帰るもその人次第。すぐに帰る人もいれば、二次会、3次会といった具合にさらに何時間も過ごす人もいる、還暦を迎えるにあたって自分の人生の意味を改めて考え直し時間を作ってみると良い(p220)
2020年12月28日作成