あらすじ
2018年〈小説家50人が選ぶ“今年の小説”〉に選出、第51回韓国日報文学賞受賞作!
十六の夏に出会ったイギョンとスイ。
はじまりは小さなアクシデントからだった。
ふたりで過ごす時間のすべてが幸せだった。
でも、そう言葉にすると上辺だけ取り繕った噓のように……。
(「あの夏」)
二度と会えなくなった友人、傷つき傷つけた恋人との別れ、
弱きものにむけられた暴力……。
誰も傷つけたりしないと信じていた。
苦痛を与える人になりたくなかった。
……だけど、あの頃の私は、まだ何も分かっていなかった。
あのとき言葉にできなかった想いがさまざまにあふれ出る。
もし時間を戻せるなら、あの瞬間に……。
韓国文学の〈新しい魅力〉チェ・ウニョン、待望の最新短編集。
第8回若い作家賞受賞作「あの夏」を含む、珠玉の7作品を収録。
【目次】
・日本の読者のみなさんへ
・あの夏
・六〇一、六〇二
・過ぎゆく夜
・砂の家
・告白
・差しのべる手
・アーチディにて
・あとがき
・訳者あとがき
感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
それぞれの短編で語り手の立場は異なるものの、似たようなバックグラウンドが度々描かれている。みな何らかの暗い過去を背負っていて、心の傷に敏感な人たちだ。どちらかといえば傷付けられた痛みよりも、自分が誰かを傷付けた(または救えなかった)という罪の意識や、無力感をよく知っている人物の視点で話が語られる。
語り手が過去を回想し、自らの間違いを見つめる時、読者も同じように自身の過去を振り返ってしまう。誰にも話せない秘密や後悔を嫌でも思い出すことになる。まるで自分を罰するかのように、語り手が過去を見つめる視線には誤魔化しがない。
あとがきに書かれた著者の言葉を借りるまでもなく、どの作品にも著者の過去や記憶が色濃く反映されている。とてもパーソナルな物語だ。昔のアルバムに入ったフィルム写真を見ていくような手触りがある。だから読者の記憶と共鳴するのだと思う。 繰り返し出てくるのは、傷付けられたと思っていた自分が、無自覚に大切な人を傷付けていたというモチーフだ。心ならずも相手をひどく損なってしまった後悔。取り返しのつかない間違い。村上春樹が「人生においていちばん深く心の傷として残るのは、多くの場合、自分が誰かに傷つけられたことではなく、自分が誰かを傷つけたことです」と書いていたことを思い出す。
唯一の中編といえる「砂の家」では語り手の心理が特に詳細に描かれていて、収録されている中で一番心に響く作品だった。風景の一つ一つも強く印象に残る。読み終わった後はしばらく余韻に浸っていた。
「告白」は「砂の家」とよく似た要素のある物語で、どちらも3人の友達グループ間での人間関係をめぐって話が展開する。最大の違いは「傷付けられた側」が辿る結末だろう。安易な希望が描かれていない点は共通している。
「わたしに無害なひと」とは、自分に関係ない人というよりは、人を傷つけない(傷つけられない)人という意味だと解釈した。だが読んでいると、果たして人を傷つけない人なんているのだろうか、と思う。人間関係では誰かが傷つき、傷つけることは避けられないのかもしれない。でも、傷付ける側ではなくて、理解する側に行きたいという著者の思いを感じる。だからこそ、傷付ける側の心理を痛いほど鮮明に書くのだろう。きっと個人的な反省がこもっているはずだ。「自分は人を傷付ける」ということについて、徹底的に自覚的であろうとする姿勢がある。
いくつか心に刺さった部分を引用して終える。
「人が私を失望させるのだといつも思っていた。でももっと苦しいのは、自分の愛する人を失望させた自分自身だった。私のことを愛する準備ができていた人にまで背を向けさせた、自分自身の荒涼とした心だった」(「砂の家」)
「互いを傷つけながら愛するのだとも、完全だからじゃなくて、不完全だから相手を愛するのだともわかっているのに、体がそう反応した」(「砂の家」)
「もし時間を巻き戻せるならあの瞬間に戻りたいとミジュは心の底から思う。あの瞬間に戻れたら、話してくれてありがとう、私はあなたの味方だ、もうそうやって寂しくつらい思いはさせないと言うだろう。でも当時のミジュは口ごもるばかりで最後まで言葉にできなかった」(「告白」)
「重力も摩擦力も存在しない条件下で転がした球は永遠に転がり続ける。いつかのあなたの言葉を私はたびたび思い返していた。永遠にゆっくりと転がり続けるボールについて考えた。その粘り強さを想像してみた。(中略)でも私たちは重力と摩擦力のある世界に生きているからラッキーなんだ。進んでいても止まれるし、止まっていてもまた進み出せる。永遠には無理だけど。こっちのほうがましだと思う。こうやって生きるほうが」(「砂の家」)