あらすじ
イタリアの思想家が注目を浴びるようになって、すでに久しい。中でも世界の思想を中心で牽引してきたのが、ジョルジョ・アガンベン(1942年生)である。そして、今日に至るまで多数の著作をコンスタントに発表し続けてきたアガンベンの代表作が《ホモ・サケル》と題された全4巻計9冊に及ぶプロジェクトであることに異論はないだろう。その構成は、以下のとおりである。
I『ホモ・サケル』1995年(邦訳:以文社)
II-1『例外状態』2003年(邦訳:未来社)
2『スタシス』2015年(邦訳:青土社)
3『言語活動の秘跡』2008年
4『王国と栄光』2007年(邦訳:青土社)
5『オプス・デイ』2012年(邦訳:以文社)
III『アウシュヴィッツの残りのもの』1998年(邦訳:月曜社)
IV-1『いと高き貧しさ』2011年(邦訳:みすず書房)
2『身体の使用』2014年(邦訳:みすず書房)
1995年から2015年まで、実に20年をかけて完結したこのプロジェクトは、いったい何を目指したのか? 日本語訳も残すところ1冊となったいま、《ホモ・サケル》に属する4冊のほか、アガンベンの翻訳を数多く手がけてきた著者が、その全容を平明に解説する。
プロジェクトの表題として掲げられた「ホモ・サケル(homo sacer)」とは、ローマの古法に登場する、罪に問われることなく殺害でき、しかも犠牲として神々に供することのできない存在のことである。ミシェル・フーコーが「生政治(biopolitique)」と名づけて解明に着手したものの完遂することなく終わった問いを継承するアガンベンは、この「ホモ・サケル」に権力の法制度的モデルと生政治的モデルの隠れた交点を見る。裸のまま法的保護の外に投げ出された「ホモ・サケル」の「剥き出しの生(la nuda vita)」の空間が政治の空間と一致するようになり、排除と包含、外部と内部、ビオスとゾーエー、法権利と事実の区別が定かでなくなること――それが近代における政治の特徴にほかならない。
現在進行形の重大な問いを壮大な思想史として描き出した記念碑的プロジェクトは、われわれにとって尽きせぬヒントにあふれている。その最良の道標となるべき1冊が、ここに完成した。
[本書の内容]
プロローグ アガンベンの経歴
第I章 〈閾〉からの思考
第II章 証 言
第III章 法の〈開いている〉門の前で
第IV章 例外状態
補論 「夜のティックーン」
第V章 オイコノミア
第VI章 誓言と任務
第VII章 所有することなき使用
第VIII章 脱構成的可能態の理論のために
エピローグ 「まだ書かれていない」作品
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
概論なのだが、それぞれの著書を読んでみたい、また、アガンベンという人を掘り下げてみたいと思わせるに足る著述だった。
それにしても、絶滅収容所に関連して出てきた「ムーゼルマン=回教徒」という存在(人間的なものと非-人間的なものの区別が不分明になってしまう〈閾〉の存在)が絶望を通り越した次元にあることに、その射程の深さがある。
Posted by ブクログ
フーコーが「生政治」というテーマを出したんだけど、十分にその議論を展開しないまま、途中で「主体」のほうに議論を移って、そのままなくなってしまったので、なんだかモヤモヤしていた。
そういうなかで、アガンベンが「生政治」の議論を引き取って、展開したとのこと。
それが「ホモ・サケル」らしいのだが、これは同題の1冊の本ではなくて、シリーズになっていて、なんと9冊の本によって構成されているとのこと。1995年から2015年の20年かけて完成されたとのことで、その全体像を紹介したのがこの本。
といっても、とても広い話しを200ページ弱で整理しているので、わかるような、わからないような。全体の見晴らしができたような。できないような。。。。
ここから、原著を読むしかないのかな???
個人的には、アーレントの「人間の条件」や「全体主義の起源」、「エルサレムのアイヒマン」などの議論とも重なるところがあり、面白そう。
個人的には、「身体の使用」に興味があるが、これは最終巻。そこに到達するには、ある程度、その前段の本を読まないといけないのかな????それはちょっとつらい。