あらすじ
戦争で親を失い路上生活を強いられ、「駅の子」「浮浪児」などと呼ばれた戦争孤児。飢えと寒さ。物乞いや盗み。戦争が終わってから始まった闘いの日々。しかし、国も周囲の大人たちも彼らを放置し、やがては彼らを蔑み、排除するようになっていった。「過去を知られたら差別される」「思い出したくない」と口を閉ざしてきた「駅の子」たちが、80歳を過ぎて、初めてその体験を語り始めた。「二度と戦争を起こしてほしくない」という思いを託して――戦後史の空白に迫り大きな反響を呼んだNHKスペシャル、待望の書籍化。
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Posted by ブクログ
「駅の子」の闘い
戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史
著者:中村光博
発行:2020年1月30日
幻冬舎
アニメ映画「火垂の墓」が公開された1988年当時は、戦争孤児の兄妹が路上生活して死んでしまうことに同情する人がほとんどだったのだろう、しかし、最近テレビで放映すると、親戚宅や施設から飛び出したのだから苦しんでも自分たちのせいだ、という自己責任論がSNSでは目立つ、とこの本に書かれている。誠に恐ろしい話だ。
戦争孤児になったのは言うまでもなく本人たちのせいではない。逆に彼らは一方的な被害者だ。著者は取材する中で、当初親戚で暮らしていたが堪えきれずに路上生活、すなわち「駅の子」になった戦争孤児が実に多いことを知った。朝から晩までやっかい者扱いされ、仲がよかったいとこからもいじめられ、早朝から遅くまで働かされ、食事に差をつけられ、厭味を言われ続ける生活。それでも、そこを逃げ出すのは自己責任だと言えるのか?これは学校でのいじめよりもっと辛いことだ。なにせ休まる場がないのだから。繰り返すが、今はそれを自己責任論で片づける、実に恐ろしい世の中になった。
とかく、戦争孤児たちについて、映画やテレビドラマでは、社会の垢、復興する日本の邪魔者、ワルガキというような印象を我々は持ちがち。
2018年8月から7回にわたってNHKスペシャルとして路上生活を余儀なくされた「駅の子」を放送したディレクターの著者が、放送しきれなかった部分を含めて書籍化した本書は、安易に自己責任論を振りかざす人たちにも、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。
重い口を開いて語ってくれた老人たち。かつて「駅の子」となった彼ら彼女らの凄絶な生存記録は、涙なしには決して読めない。しかし、大変だったね、よく頑張ったね、で感想を終えてしまっては絶対にいけない。彼らは、犬のように扱われ、臭い、汚いと追い出され、水をかけられた。あまりに辛くて電車に飛び込んだものもいた。そんな彼らを全く救おうとしなかった国。それは、徴兵した国民に命をかけさせて守ったのが国民ではなく天皇を中心とした「国体」だったことの、延長線上にあることが感じられる。当時の厚生省の役人による座談会で、失業者、引き揚げ者、倒産、戦死者を出した家族など、対応しなければならない問題が山積で、戦争孤児まで手が回らなかったと、はっきりとサボタージュを認めている記録なども本書では紹介している。
それだけではない。今もって行政機関がかつての自分たちの間違いを指摘されないように圧力をかけている事実までも紹介している。戦争孤児を収容する養育院という東京都の施設における悲惨な状況について、当時の職員のほとんどが取材拒否したが、そこには東京都の責任追及を恐れる都からの圧力があったからだという。養育院を担当したOBたちに対し、内容をマスコミに漏らすことは公務員としての守秘義務違反であり、その場合は退職後の年金を減額することも検討すると言ったのだそうである。
どこまで身勝手で、「体」のみにこだわる国、そして同類の地方自治「体」なのであろう。
***(メモ)***
「駅の子」の多くが今も心苦しく思っていること、それは同じ「駅の子」を救えず死なせてしまったこと。金子さんは1日1本、なんとか手に入れたイモをきょうだい3人で食べていると、小さな子供がきて「ちょうだい」。仕方なくほんの少しやり、翌日からは隠れて食べていた。そんなふうに衰弱していく子供の死体を何人も見た。
小倉さんは大阪駅で夜を過ごしていたが、小さな女の子が無言で近づいてきた。裸足でお腹をすかせて可哀想だったので、高梁(コーリャン)饅頭を分けてあげた。何も言わない子だったが、2日ほど一緒に過ごしたら、その子は大阪駅前の路上で死んでいた。小倉さんも、ホームレスのおじちゃんたちも、みんな泣いた。
引き上げの最中に母親が死んで孤児となったある女性は、なんとか日本にまで辿りついたが、自分の生まれた場所も名前も思い出せなくなっていた。今も本名はわからず、大陸で生き別れた弟も探したが名前が分からないこともあり、ついに会えなかった。
それまであくまでも疎開は自主的なものとしていた国が、戦中、国策で学童疎開を始めた。それは、将来の戦力を残すためだった。疎開中に戦争孤児になった子供もいたが、戦後は一転、彼らに何も救いの手を差し伸べなかった。
国がなにもしないので、民間が頑張った。孤児たちを自分の家に招き入れ、方々に頭を下げて食料を分けてもらい、与えた。国からの援助もなく、すべて私費だった。噂を聞きつけて孤児たちが次々と集まり、100人ほど住んでいたところもあった。
戦争孤児だった金子さんは80歳をすぎてからATM店舗を清掃するアルバイトを始めた。月に1万円にもならないが、目的は、東京大空襲の被害者に対して国が補償することを求める活動をしている団体へ寄付するお金の足しにするため。
路上生活する孤児たちの惨状に業を煮やしたGHQがなんとかしろと命令してきた。重い腰を上げた国は、「刈り込み」を行い、子供たちをトラックに乗せて次々と施設に閉じ込めた。子供たちは自由を奪われ
鉄格子に閉じ込められて犯罪者のように扱われる「刈り込み」を恐れた。東京では「台場」もその一つで、「島流し」と言われていた。
広島の原爆で孤児になったある人。母親は1か月後に死亡。母親の背中はウジだらけで、途中から、もう死んでもいいと思ってしまった。
米兵相手に靴磨き。客がつくかどうかはいかにピカピカに磨き上げるか。大切なのは、アメリカ製の靴墨を使うことと、タオルではなくふわふわとした生地で磨くこと。みんなしていたのが、列車の座席のふわふわ生地をカミソリで切って使うことだった。
靴磨きは、進駐軍相手に体を売っていたパンパンたちと提携した。彼女たちは孤児たちに共通する境遇を感じたのかとことん優しかった。彼女たちを買いに来たアメリカの兵士たちに、この子に靴磨きさせてあげてよ、と言ってもらう。すると女の前でいい格好をしたのでOKし、おまけにチップも弾んでくれた。
孤児たちを収容した施設での扱いはとにかく酷いものだった。人間扱いされず、差別も受けた。そんな中、それに疑問を感じていたある東京の施設の職員だった品川博さん(30)は、孤児たちを誘って一緒に逃げ出して、自分の故郷の群馬県につれていって資金集めをして施設をつくった。一緒に逃げた孤児の伊藤さんはそこで高校まで通わせてもらい、その後は大学に通いつつ念願のアメリカ留学を果たし、アメリカで教師となった。
戦争孤児たちは、鉄道に乗るときはみんな「サツマノカミ」。つまり、薩摩守忠度(ただのり)。
戦争孤児たちが抱いていた社会への憤りは、著者が思っていたレベルを遙かに超えていた。「これから社会に一生たてをついて生きていこう」と覚悟を決めた取材対象者もいた。
唯一、国が調査した戦争孤児の数は12万3511人。しかし、終戦から2年半近くたって、転々と移動して暮らす子供が多い仲での調査なので、あてになる数字ではない。