あらすじ
認知症の権威が認知症になって、ようやくわかったことがある。認知症の人が見ている世界、認知症の歴史、超高齢化社会を迎える日本の選択など、この1冊でわかる認知症のすべて。
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Posted by ブクログ
認知症はそれまでの日々と地続き、認知症になったからといって、急に人が変わるわけではない。本人は当然分かっている。
日によって、また1日の中でも調子の良し悪しがある。周りの人の支え、理解もあり普通に生活できている、というなら、日常生活に支障なし、ということで認知症ではにい、と捉えることもできる。
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もし長谷川先生がいなければ今の日本の認知症を取り巻く環境は全然違うものになっていたんだろうなと感じる。
それくらい長谷川先生がこの本に書いていることは、認知症の人と共に生きる社会を目指すために行われている様々な取り組みの基盤になっている考え方だと感じた。
身近に認知症の人がいる人、支援者、当事者、どんな立場の人でも、この本を読めばきっと少し心が軽くなるんじゃないだろうか。
認知症になったからといっていきなり「認知症の人」になるわけではなく、今までの人生と連続している自分を生きているだけ、という事が繰り返し書かれていて、とても心に残った。
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長谷川式スケール開発者による、認知症になった人の世界の見え方がやさしく語られている。
認知症という病の渦中にいる著者からの文章は、実体験に基づくものであり、介護者の心構えに繋がりそう。
学生ボランティアで、介護施設で認知症の方とお話したとき、大変失礼ながらぎょっとしてしまった経験を思い出し、「この本を読んでからお会いできていたら、何か違ったかもしれない」と思わされた。
知識的なことを言えば
授業でクライエント側として長谷川式スケールを受けた時は「めっちゃ短!」と思ったが、高齢者が受ける前提で開発されているため、体力が低下している状態での実施が考慮されているとのこと。
如何に自分目線でしか考えられてなかったかを思い知らされる。
現行の介護保険制度と成年後見制度においては、まるで存在するのが当たり前かのように語ってしまっているが、開始されてからまだ日の浅い制度であることに驚き。
以下メモ
・認知症の本質は「暮らしの障害」
・認知症は「固定されたものではない」
★「待つ」というのはその人に自分の「時間を差し上げる」ということ
★『もの忘れが始まって十年になる。病気になってほんとうに悔しい』『いろんなメロディーがごっちゃになって気が狂い相だ』
・クルマの運転はぜったいやめたほうがいい
★本人抜きに物事を決めないで、置き去りにしないで
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教科書で何度も出てきた長谷川式スケールを作った人の本を読めてよかった。
自分の祖母が認知症になりこのスケールを受けた。その後病気で亡くなった。私は介護福祉士として働いているが祖母に何もしてあげることができなかった。何かしてあげていれば孫だけでなく息子や娘の顔も分からなくなるほど認知症は進まなかったのか。そもそもしてあげられることはあったのか不安の中なくなってしまったのではないか悶々と考えることがあった。
この本が読めてよかった。自己満足かもしれないけどおばあちゃんは苦しいばかりじゃなかったように考えられるようになった。
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私の祖母も認知症である。その判定時にちょうどこの本に書いてあったアセスメントを受けた記憶がある。それがこの著者が作り出した長谷川式スケールだったことをこの本を読んで初めて知った。
この本の中で一貫して述べられていたことは、何ら難しいことではなかった。認知症の人を別の生き物扱いする人がいるが、認知症であっても当人に尊厳があることを認識し、1人の人間として接して欲しいということだった。「やさしくおだやかに 待つそして聴くこと その人らしさを大切に」長谷川先生の言葉である。
よくよく考えてみれば人と接する上で当たり前のことである。認知症になったからといって急に人格が変わったり、その人がその人でなくなってしまうわけではない。症状にはグラデーションがあり、本人でさえもその変化に戸惑い、不安を感じる。今どこなのかいつなのかどういう状態にあるのか、それがわからない本人が一番不安なのである。
といっても本人と親しい間柄にあった人間からすれば、自分のことを忘れられたりするのはなかなか堪えることなのだろう。認知症をもつ人の家族におけるエピソードで、その人の孫たちが「おじいちゃんはわからないかもしれないけど、私たちはおじいちゃんのことをよく知っている人だから安心して」と声をかけたというものがあったが、果たして自分はそうやって優しく声をかけられるのか。ゆっくりと時間をかけて考えていきたいと思わされた。
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医療者である自分自身、認知症に偏見や思い込みがあったのだと衝撃を受ける。
認知能、感情脳、そして自分らしさだけの脳が残っていく。
「時間を差し上げる」がやはり重要なのだと学ぶと同時に、急性期病院では叶わないことへのジレンマに打ちのめされる。
それから認知症患者に目の前で、「認知機能はだいぶ低いから」と言った医者のことが許せない。
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認知症のスケールを作った方が認知症になったことで知り得た事をたどってくれている本。私はお年寄りが大好きなのでジャケ買いで読み始めました。認知症は奥深く理解する事で認知を高めて行けると優しい気持ちで接する事が出来ます。
本当にすごい方の本
認知症をずっと研究されていた方がご自身も認知症になり、その体験や思いが書かれています。自分の周りに認知症の方がいる方は絶対に読んだ方がいいと思います。私はまだ22歳ですが、それでもとても学びが多かったですし、この先もこの本を何度も読み返すと思います。
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職業柄、認知症の方と関わることが多いため、認知症関連の本が読みたいと思い借りた本。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない。自分が住んでいる世界は昔もいまも連続しているし、昨日から今日へと自分自身は続いている」
「尊厳をもって扱われていないということは、認知症になってからでもわかる」
印象に残っている文。心に留めておきたい。
今はまだ仕事で関わるだけだが、家族が認知症になった時、どう関わっていくのか心配でならない。
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著者は認知症のスクリーニング検査、長谷川式の考案者。
「パーソン・センタード・ケア」=その人中心のケア
長谷川先生の専門はてんかんと臨床脳波学。
検査をするときは「93からまた7を引いてください」ではなく、「そこからまた7を引いてください」が正しい。
「オールドカルチャー」:認知症は脳の恐ろしい病気だという疾患中心の見方
「ニューカルチャー」:認知症はケアの質により大きく変わるとする見方
・認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない。
・認知症の本質は、暮らしの障害
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小説にしか興味がない私が珍しく読んだエッセイ。最後の方は信仰の話であまり興味なかったけど、職業柄高齢者と接する機会が多く、同じ業界でも認知症が嫌いな人もいる中で、でもやっぱり私は認知症が好きだなと思った。認知症の人は自分が1番良かった時代に戻るとよく聞く。本の中でも出てきた「最も私らしい私に戻る旅」はほんとにそうなんやろなと思う。今後も認知症の人に寄り添える支援をしていきたい。
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キリスト教の信仰に支えられた著者の優しい人柄がうかがえる。
「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない。自分が住んでいる世界は昔もいまも連続しているし、昨日から今日へと自分自身は続いている」と言う。また、「私たちは一人ひとり、みんな違って、みんな尊い存在だということを忘れないでほしい」と言う。
認知症の人に優しい人、温かい社会でありたい。
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その道の専門医が、自身が実際になって初めて分かったという事が纏められている本。
認知症のタイプは珍しいタイプだから万人が同じ道を歩むとはかぎらないけど、なるほどこういうことかと新しい発見があった。
また、この本は冷静に自己を振り返ったり、他者に感謝を忘れなかったり、カトリック信者としての長谷川先生の人となりや家族があっての本だなぁと感じた。
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認知症専門医が認知症になり、自分の変化を綴る。認知症が痴呆と呼ばれ、患者は放置や隔離されていた時代から現代までどのように変化していったのかの話は勉強になった
自分の状態も患者を診るかのように冷静に観察している
認知症は治らない
でも投薬や適切な環境次第で進行を緩やかにはできる。というかそれしか出来ることがないのが現状なのか
祖父母が受けた認知機能のテストは改訂版長谷川式スケールだったと知る
長谷川先生は本当に偉大な方だったんだなと思う
Posted by ブクログ
父がなんだか怪しくなってきたので
認知症に対して、
世間一般で言われていることばかりの把握ではいけないと思い
最近、色々読み漁っています。
認知症になったからといって
昨日までの自分がなくなるわけではないと書かれていました。
当たり前のことですが
わかっていなかったと思います。
診断日を境に父からあれもこれもと
取り上げてしまわなくてよかったと思いました。
90歳ですが、自転車を乗り回すので
やめてほしい私の思い、
自転車に乗れないのは寂しいという父の意見、
色々話をすることが、まずは大切なようです。
看護する側の本ばかりではなく
色々な立場から認知症に対する意識を深めて
できれば、日々の暮らしに楽しみを見つけながら
暮らしていけたらと思っています。
Posted by ブクログ
ご自身が認知症と公表している聖マリアンナ医科大学の専門医の先生の認知症本。
医師と認知症者の二つの立場から認知症のリアルがやさしい言葉で綴られていて、とても分かりやすい。
「認知症になったからといって人が変わるわけではなく連続している」というフレーズが印象的。
■認知症のタイプ
・アルツハイマー型 脳神経系。65歳以上の女性に特に多い。認知症の約6割がこのタイプ。
・脳血管性 生活習慣病による脳梗塞や脳出血が主原因。記憶障害や歩行障害が見られる。
・レビー小体型 大脳皮質や脳幹などに特殊なタンパク質が蓄積することが原因。幻視なども。
・前頭側頭型 前頭葉や側頭葉が萎縮。感情抑制困難や社会ルール忘れなど。
■長谷川式スケール
認知症診断のものさしとなる認知機能診断。
記憶、日時見当識、場所見当識、即時言葉再生、計算力、注意力、脳の記銘力などをはかる。
■脳の記銘力
記憶の第一段階。新しい情報を受け取る機能を指す。認知症ではこの機能が損なわれる。
Posted by ブクログ
長谷川式簡易スケールは、臨床の場でよく使われる、医療従事者にとってはおなじみの検査。
認知症の専門医である長谷川さんですら、当事者になったことで初めてわかったことがあるという。
認知症だからといって差別をしてはいけませんとか、尊厳を持った1人の人間として接しましょうとか、そういった認識は医療従事者であれば持っていて当然で、むしろ当たり前すぎて「何を今更」と感じたのが正直なところ。
しかし、読み進めていくうちに長谷川先生の認知症への探究心、認知症になってもなお、それに悲観せず認知症を深く知ろうとする姿勢に心を打たれた。
同時に、自分がやってきた(やっている)看護やケアは実際のところどうなのか、振り返る機会があまりなかったことにハッとした。
今まで臨床の現場にいて、認知症の患者さんと接することはかなり多かった。
新卒で勤めた消化器外科病棟でも、その後転職した整形外科クリニックでも、高齢者が多く、認知症の方とのコミュニケーションは日常的だった。
記憶に新しい整形外科クリニックでの経験を思い起こしてみる。
クリニックでは、まず初診の患者さんは受付から「問診票」を渡される。
どの部位が・いつから・どんな症状があるのかなど、簡単な質問用紙を記入してもらう。
私たち看護師は、その問診票を元に直接本人へ詳しい状況を聴取しに行く。
(診察が混んでる時にそれをやっとくと色々とスムーズだからだ)
さて、私はその問診票から、その初診患者には転倒による外傷があり、また施設に入居していて、既往に認知症があるという情報を得た。
待ち合いに出ると、車椅子に乗っている高齢者と、その隣にポロシャツ姿の方がいるのを見つける。この方かな?と予想ができる。
(施設入居者は、たいていその施設のスタッフまたは家族の付き添いがある。そしてほとんど問診票も付き添いの人が記入する)
「〇〇さん」と呼ぶと、スタッフの人がいち早く反応し、そちらに向かう。
「こんにちは。今日は転倒されて〜を打って〜な症状があるんですね」
みたいな感じで聴取していく。
もちろん腰は落として、目線を合わせることは基本中の基本。
だけどここで私がしでかしていたことに、今になって気づく。
私はその患者さんではなく、施設スタッフへ聴取を開始しているのだ…
「〇〇さん」という最初の呼びかけで、患者さんの反応が乏しかったこと、(実際に反応したのは隣のスタッフ)、既往の欄に書かれた「認知症」という文字。
たったこれだけの情報で、患者よりもスタッフに聞いた方が迅速で正確に聴取できると判断したからだろう。
一応、患者本人に転倒した時のことを覚えているか聞きはするけど、「どうせ覚えてないだろうし、覚えていたとしてもちゃんと説明できないだろうな」という固定観念はなかったか?と問われると、小さな声で「アリマス…」と言わざるを得ない。
転倒を発見して、受診が必要だと判断したのが施設スタッフだとしても、治療を必要としているのは患者である。
まず患者本人に意識を向けずして、患者中心の医療とは言えないはずだ。
この一例は小さなことかもしれないけど、実際のところ、こういう小さなことの積み重ねで医療や介護の質って決まるのかもしれない。
(ただ実際、全部が全部時間をかけてやってしまうと、他の患者を長時間待たせることになるから、いい塩梅でやるのは大事)
私みたいに医療・介護の臨床に携わる者にとって求められるのは、実践力だ。
理論をどれだけ理解したところで、それが社会に還元されなきゃ意味がない。
自分がやっている看護は、患者の目線に立てているだろうか、という視点は、当事者の訴えを見たり聞いたりすることでよりクリティカルなものになっていく。
たまにこうやって自己を振り返ることで実践力を高め、ゆくゆくは超高齢社会を支える一員になれるよう精進していきたい。
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「認知症になったからといって人が変わるわけではない。」
「認知症は突然ではなく、それまでのつながりの中にある」
といった言葉が印象的。
認知症の人と接する時に、無意識のうちに抱いてしまっている「あちら側の人」意識を変えるきっかけになる本。
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認知症ではないが、持病がある自分としては、健常者と同じように扱ってもらうありがたさが身に染みてよく分かる。自分がもし認知症になったら読み返してみたい。
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長谷川式といえば医師で知らない人はいないと自信を持って言えるが、その作られるまでの経緯なども少し書いてくださっている。これまでの臨床医としての歩みや今思うことについて、身一つで書いてくださっており、全身で臨むような文章からは病院での姿が垣間見えるような気さえした。
とても感慨深く読めた。
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長谷川式スケールで有名な著者の本とあって“積読”してあったのだが、つい先日の訃報を見て引っ張り出してきた。
長らく認知症治療の第一線にいただけに、認知症の医療や認知症の患者のとらえ方の変遷がよくわかる。
現役時代は相当厳しい先生だったようだが、文面から伝わってくるのは好々爺然とした姿。
認知症になって「とくにいいなと思ったのは、デイサービスに行ったときに受ける入浴サービスです。(中略)王侯貴族のような気分です」とは当事者にならねば分かるまい。
高齢になっても「心がけているのは、明日やれることは今日手をつけるということ」だったとか。真逆の自分に恥じ入った次第。
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著者の義理のお父さんの認知が進んで、一緒に食事をした時、「みなさまはどなたですか」と仰った。先生ご夫妻をはじめ周りのものたちがどう返答していいか思いあぐねていた時に、娘さんの言ったことば。「おじいちゃん、私たちのことをわからなくなったみたいだけど、私たちはおじいちゃんのことをよく知っているから大丈夫。心配いらないよ。」なんてステキな声かけだろうと思った。
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ある日から突然認知症になって何もわからなくなるのではなく、連続した自分を生きているだけである、という言われてみれば当たり前だがついつい忘れがちなことに改めて気付かされた
喜怒哀楽は最後まで失われにくいとのことで、軽く扱われたり存在を無視されたりした時の悲しさ、対等で尊厳ある人間として扱われていると実感できた時の安心感を想像したうえで行動したい
人間を尊重するって死ぬほど難しいと思うけど。尊重するという行為は、軽蔑や拒否感、嫌悪感といったほぼ生理的反応を理性で封じ込めることで成り立つもので、道徳心が培われれば自然にできる類のものではないと思う。感情の訓練ともいえる、非常にストイック。
皆望んで認知症患者を子供扱いしたり邪険に扱ったりしているわけではなく、身近な人間が変わりゆく戸惑いや自分の手を煩わせられることによるストレスが自然な形で表れてしまっているだけでは。全てを受容して適切な対応をとれだなんて無理難題すぎる。
ということで、人格の修練というより技術の習得という目線で行動を変えて対応していきたい
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認知症の専門医で、日本の第一人者であり、自らが認知症となった事を公表している長谷川先生著作の一冊。
認知症になっても、喜怒哀楽の感情は最後まで残ると言われています。映画、音楽、美術など、症状が進んでも、最後まで楽しみたい。
また、先生も触れられているが、最後には、その人が信ずる宗教的支えは、是非ほしいものだ。欧米人に言わせれば、当たり前かもしれないが。
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認知症のスケールを作った本人が認知症になったことでの想いを読める本 認知症だからといって違うものとして無意識に見てしまっていたことに反省…認知症の人もその人の人生を生きているから、色物として見ずに普通に接すること。おかしなことを言ったとしてもそれは自分でもあることだから、"その人らしさ"として関わっていきたいと思えた。恥ずべきことじゃない、認知症であることは。
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自分の体験の確かさ、がはっきりしなくなる。
なにをしたかがあやふやになり、何日かがわからなくなる。
100歳を過ぎれば、ほとんどの人が認知症になる。
最初に時間の見当がつかなくなり、場所がわからなくなり、人の顔がわからなくなる。
講評したことで、あちこち取材を受けたことが進行を遅らせた。嗜銀顆粒性認知症だった。
認知症の定義は、いままでの暮らしができなくなること。
一生ならないのは、先に死ぬだけ。いかになる時期を遅らせるか。
認知症は固定されたものではない。
笑うことは大切。
パーソンセンタードケア=その人中心のケア=小さな子が転んだとき、4歳くらいのお姉ちゃんが一緒に寝転がって笑いかけた。同じ目線に立つこと。
デイサービスは至れり尽くせり、生活の匂いがない。
認知症テストは短時間で。高齢者は30分には耐えられない。
100から順番に7を引く。93から7を引く、ではなく、そこから、また7を引く、と質問する。覚えていられるかが大事。
車の運転は、辞める。タクシーを使う。
Posted by ブクログ
長谷川スケールの長谷川先生が自ら認知症になったことを公表された著書。
午前中は調子よく、午後は疲れてしまいわからなくなると言う。
初期の段階で診てもらう方がいいのだろうが、やはり病院で検査を受けさせるのは本人が嫌がったりして連れて行きにくい
将来的に認知症にならない薬ができるのだろうか
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母がレビー小体型認知症を発症して、それが一体どのような世界なのか知りたくて選書した。印象に残っているのは「待つ」というのはその人に時間を差し上げることだと著者は言う。差し上げる作業が多いと苦痛になるが、一日のうち何時間かを差し上げたと思えばいいことをしたような気持ちにならないでもない。