あらすじ
芥川賞候補作
島清恋愛文学賞受賞作
死ぬなら、がんがいいな。
がん大国日本で、医者との付き合い方を考える病院小説!
ある日、サンドウィッチ屋を営む妻が末期がんと診断された。
夫は仕事をしながら、看護のため病院へ通い詰めている。
病室を訪れるのは、妻の両親、仕事仲間、医療従事者たち。
医者が用意した人生ではなく、妻自身の人生をまっとうしてほしい――
がん患者が最期まで社会人でいられるのかを問う、新しい病院小説。
解説・豊崎由美
※この電子書籍は2016年7月に文藝春秋より刊行された単行本の文庫版を底本としています。
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Posted by ブクログ
「好きな人の爪を切るというのは、こんなにも面白いことだったのか」
最近読んだ本の中で断トツ素晴らしかった…!生涯大切にしたい本です。
がんに罹患した妻を看取る夫の心情と、夫を通して見た妻の物語。
当たり前のことのようですが、日本人の死亡原因1位のがんで亡くなるとしても、一人として同じ最期を迎える人はいません。
夫は、妻をがん患者としてではなく、社会生活を営んできた一人の人間として、妻自身がなにをしたいのか、誰に会いたいのか、そして自分とどうやって共に過ごしていきたいのかを看取る瞬間まで、悩みながらも考え続けます。
フィクションとして読むと、そんなの当たり前やんって感じもしますが、実際看取りのときって相手を必要以上に''病人''として扱ってしまう気がします。私は成人してからの看取りの経験はないのですが、相手が家族なら余計、優しさゆえに大事なもの扱いしてしまうと思う。がんになったからといってこれまでの本人の全てが変わった訳では無いのに。
だから夫の思考や妻と接する姿は、ある意味「がん患者を患者扱いしすぎない」お手本のようで、最初は立派だけど現実味ないなぁと思いながら読んでいました。が、読み進めるにつれて、夫の姿はむしろめちゃくちゃリアルなのでは?と印象が変わっていきました。
夫は妻のことがシンプルに好きで、きっと最初は恋だったものが愛となり、そして自然に妻自身を尊重したい、妻と過ごす時間を大切にしたいと考える夫になっていったんだと思います。
例えば、感想冒頭の「好きな人の爪を切るというのは〜」は、だんだん自分の身の回りのことができなくなる妻の髪を梳かしたり爪を切ったりする場面の夫の内心なんですが、文中にこういう妻への「好き」がちょこちょこ出てきます。
妻に直接「好き」だと伝える場面はないですが、だからこそ小説として夫の内心を読ませてもらってるこちらには、その気持ちが妻への正直な愛情として伝わりました…!あと結婚20年ぐらい(たしか)経っても心の中で妻のことを「好き」と思えてることってめちゃくちゃかわいい!笑
また、看護師さんから話しかけられた時などに、夫は「(妻も)自分でできることは自分でやりたいはずだ」として、極力妻が返答するようにしていたところもすごく大事な視点だと思いました。
看取りに限らず、介護や子育てにおいても、ついつい「やってあげよう」として、本人の自尊心ややる気を削いでしまうことってあるあるなので。
*以下ネタバレ
死別した瞬間で物語が終わらなかったところもよかったなあ。夫自身何度も言葉にしていたように、「死の瞬間」に立ち会うために見舞いに来てるわけじゃなくて、「今この瞬間」のために逢いに来てるんだから。死別してもこちらの生活は続くわけですから。
そして山崎ナオコーラさん著を読むのは初めてでしたが、夫の人間関係、社会関係における絶妙な距離感や微妙な違和感を言語化するのが上手すぎる…!
夫の夢に出てくる妻が、最近の病気の状態からだんだん昔の元気な姿で現れるようになったという描写も、夫と妻の''距離''が離れていくのを現していてすごくリアルでした。
「離れていく距離さえも美しい、遠くても関係さえあればいい」 ─── 「距離が離れる」ことはどうしてもネガティブな意味で捉えてしまうけど、その距離さえも一つの在り方だと、そう思える人を私も大切にしていきたい。
読後は、大事な人と向き合う時間や距離の変化を意識できる、つまり余命を宣告されてタイムリミットを知ったうえで死を迎えることのできる、がんという亡くなり方をあまりにも前向きに捉えられるようになってしまった。
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【随所の感想】
夫が妻のお見舞いに訪れることについて、お義母さんから「ありがとうございます」と言われる。その度に主人公(夫)が違和感を抱く描写
ーーー こちらは来たくてきているのだからお礼を言われるようなことではない、という気持ちと、お礼を言う側=自分(夫)より妻に近しい身内の人間である気がするいう感覚。感じたことないけどわかるわ…!自分が夫の立場ならお邪魔してます」って言ってほしいかも。
転院する病院によって、治療方針が「改善のための治療」から「最期の過ごし方をケア」に変化する描写
ーーー 自分がどう生きたいかではなく、医療体制や外部社会から「生」の段階を突きつけられるということ。もどかしさは計り知れないし、それを受け入れた上で、自分に合った生き方を選び直すには、さらに相当な時間と心の整理が必要になるだろう。
延命治療をしない=生きる未来を諦めているわけではない、ということ
ーーー めちゃくちゃわかる…!多分自分も同じ感覚。でも上手く言語化できない…。がんの治療はまだ生き続けられる身体にするための治療、延命治療はもう生き続けられない身体をこの世に繋ぎ止める治療。だから延命治療で伸びた寿命は私のものではないって感じかな。
「まだ余命とかという段階ではないの?」
ーーー そんなん聞くなよ!!
「二人の生活のためにサンドウィッチ屋を経営しているのではなく、社会活動としてやっているのだ」
ーーー このマインドで個々が自立した夫婦になりたい
紫陽花はガクが色づいているんだって。初めて知った。
亡くなる直前の呼吸の描写からきちんと裏取りされたものだろうということが伝わってきた。死はこうやって急に、でもじわじわと込み上げてくるのかな。
死後妻に着せる服について、二人(自分)の思い出のワンピースを着せたいと思っていた夫が、妻が生前魂を捧げたパン屋の服装にしようという義母からの提案に、目からウロコ状態になる
ーーー 自分も夫と同じ発想になりやすい性格だからこそ思うけど、これは妻の気持ちを蔑ろにするような間違っている感覚では無い。でも「かつての妻(と自分)」に目を向けた発想であって、「今の妻」が大切にしていたものとは違う。残された側が「自分のための思い出」ではなく、「その人自身が大切にしていたもの」に目を向けるって、やっぱり簡単じゃないんだなあと改めて感じた。
妻の葬儀の手伝いに自分の知り合いではなく、妻の知り合いに声をかけるシーン
ーーー こういう対応ができるように、家族の交友関係は知っておきたいなと思った。
「(綺麗に化粧は施されているが、生前の妻とは全く違う、死に)顔を見たくない、見せたくない」
ーーー この感覚はまだ自分には分からなかったなあ。自分は大人になってから葬式に参列したことがないから、葬式のシーンで世間話したり夫に妻の病状についてはっきり聞いたりする描写は意外だった。日常の延長みたいな、悪くいえば野暮な空気なんだなと。
「関係が遠くなるのもまた嬉しい」
ーーー とてつもない信頼と情愛がないと、そんなふうに思えないだろうなあ。その人との関わりすべてを、距離も含めて愛おしむような、穏やかな愛。そんな気持ちを自分も抱ける日が来るだろうか。
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【響いた言葉】
●主人公(夫)
仕事というものを、誰かを幸せにする行為だと思い込んでいた。他の誰かを幸福にする代わりに自分が社会で生きていくことを許されるのだ、と。だが、違うかもしれない。幸福だの不幸だのというのは当人の感覚で判断するもので、他人がジャッジできるものではない。〜〜〜本当の「ありがとう」、本当の「幸福」だけを求め、社会に役立つ自分に酔おうとしたばかばかしさに思い当たった。
病気になると実年齢を離れるのだろうか。子どものように他人から扱われる。
来年まで生きると思っていないのだろう。でも、そういうことを言ってこちらを困らせる気もないのだろう。言葉を詰まらせて、ちょっと笑うわけだ。
しかし、これまではずっと、未来を見ることで明るく生きてきたのだから、未来を見ずに明るく生きる方法が、今はわからない。
配偶者というのは、相手を独占できる者ではなくて、相手の社会を信じる者のことなのだ。
好きな人の爪を切るというのは、こんなにも面白いことだったのか。
だから、「上手くいかなくなってしまう人間関係」を作っているのはこちらの感受性の問題なのだろう。
「忌引き」という休みがあるが、死んでから休みをもらってなんになるのだろう。むしろ、死ぬ前に休みが欲しい。
鼻に酸素の管、腕に点滴、尿道にカテーテルが差し込まれていて、体が管だらけな上に、手にミトンをはめさせられた姿は痛々しく、人間らしさがうすくなって、屈辱的な環境に貶められているようにこちらからは見えた。でも、「では、管に繋がれていなければ尊厳のある状態なのか」と改めてかんがえると、そんなに単純なものでは無い気もしてくる。「自然な状態」という既成の理想を頭に置いて、「みていられない」とこちらの勝手な感性で捉えるから、尊厳がないとか自然ではないとかといった感覚を味わうだけのことかもしれない。
死の瞬間を、大事な瞬間のように捉えたくない。死の瞬間なんて重要視していない、それのために見舞いに来ているのではない、今のこの瞬間のために見舞っているのだ、と医者にもみんなにも声高に訴えたい。
●妻
「〜〜〜元気がなくても社会と関わりたい。元気がない社会人だっている」
「仕事相手は大事だよ。自分がこの社会に存在することを許してくれる」
●解説より
いい小説が備えている美点のひとつに、読む前にはなかったものの味方を与えてくれるという効能がある
Posted by ブクログ
タイトルがいいな。
40代で癌を患って人生の終わりに向かっていく夫婦の物語。夫目線で、弱っていく妻を見ている。さらりとしていて、病室に「きたよ」「きたな」とやりとりしながら入っていく。妻がどう考えているか、胸の内で憶測しながら、もちろん会話も重ねながら日々が過ぎていく。
主人公の男性は、自分で自分を「心が狭いからいらいらしてしまう」と分析している。医師の一言やしぐさ、介護認定員の職員のおせっかい、見舞いの人の態度にいちいち傷ついたり、怒りを覚えたりする。妻を気遣い、「ちょっと…いやな思いしただろ?」と聞くと「え?いい人だったよ?」と返ってきたりして、「あぁ、自分の心が狭いからいらいらしてしまうんだ…」と感じる。
こういうところ、すごくすごく共感する。私も心が、というか、許容範囲が狭くて、そんな自分が嫌になることが多々ある。価値観が合わない、絶対に合いそうにない人たちと一緒に仕事しなくちゃいけないし、人を相手にする仕事だからどんな人も受け入れなきゃいけないんだけど、すごく拒否感感じたり、見下してしまったり(絶対ダメなのに)して、仕事に差しつかえることがある。
色々葛藤を抱えながら日々が過ぎていく。妻はだんだん弱っていく。
3つ病院を代わって、死に向かっていく。よくある闘病を描く小説やドラマなら、「一時帰宅しましょう」とか「思い出の場所に…」とかなることが多いけど、「家に帰りたいか?」と聞くにもすごく考えてしまってうまく聞けない。妻も家に帰りたいとか言わず、ただ静かに「今」を受け入れている。
最期の看取りのシーンはとても…なんというか、静かで、切なくて、でも淡々としていて、あとで主人公の夫が振り返るように、決してその「瞬間」が特別なものではなかった。人生は、どの瞬間も特別だし、病気にならなくたって、癌じゃなくたって、人は生まれたときから死に向かっていっている。
亡くなったあとの、妻の夢や、妻が遠くなっていくけど、その距離も美しいと感じる心持ちも、とても素敵だと思った。死をどうとらえるか、心に響きました。
ナオコーラさん、また読みたいと思います。
Posted by ブクログ
結婚に対するネガティブな感情(女としての役割を押し付けられる、自分の負担が増えるだけ等)を少し改めた。
お互いを社会人として尊重し合う、2人の関係はとても素敵だ。
愛する妻のために働き方を工夫しながら看病する主人公は、献身的とも言えるが多分違う。彼は好きな人と一緒にいたくて、少しでも力になりたい一心だけど、自分が属する社会、妻が属する社会両方を大事にしている。
私もそんな人生のパートナーがいたらいいなと思った。
妻の死の場面では号泣した。段々と呼吸の間隔が大きくなり、息をしなくなる描写がとてもリアルだった。
死んだ途端に向こう側の住人として、神様のように扱われることに主人公は違和感を抱いていたけど、遺族がその先の人生を生きるために必要な儀式なんだと感じた。
Posted by ブクログ
自分にもいつか訪れるかもしれない日々
「死ぬための準備期間のあるがんという病気
がんは、それほど悪い死に方ではない」
考えさせられるフレーズだ
Posted by ブクログ
とても繊細で静穏とした語り口。
主人公が介護を経て、周りの物語を見出そうとする反応にいらつく様や、妻が社会的なものと繋がりをもとうとする姿勢が他の小説と違って良かった。
タイトル「美しい距離」も良い。心に残る小説だった。
Posted by ブクログ
いつ来るかもわからない死が迫る入院中の妻を、
お見舞いや世話をする夫の目線でつづられたモノローグ。
この小説は、精神的に繋がりの強い人の死と向き合い始める良いきっかけになる。
印象に残ったフレーズが2つある。
1つめ。「配偶者というのは、相手を独占できる者ではなくて、相手の社会を信じる者のことなのだ」
家父長制と比べればモダンな考え方だ。この意見に賛成だし、配偶者とはこういう関係を築いていきたい。その方が面白いと僕は感じるから。
2つめ。「死ぬための準備期間のあるがんという病気に、妻のおかげで明るいイメージを持てるようになった」
配偶者の死に準備期間があることは、準備のできない突然死よりも喜ばしいことなんじゃないか。死は全ての人に必ずやってくるのだから。
Posted by ブクログ
がんで余命わずかの妻との最後の半年あまりの日々が夫の視点で淡々と描かれる。
病の家族を見送った経験を思い起こすと、体調の異常に気がついて検査を受けるところから、入院して亡くなるまで、さらに葬儀とか含めると、家族はジェットコースターみたいに感情が揺さぶられっぱなしだった。
しかし、この小説では「看病もの」と呼ぶには終始カロリーが低い。冒頭からすでに妻の病は相当進行していて、夫は病室に通い、顔を洗ったり、髪を編んだり、爪を切ったり、妻の世話をし、何気ない会話をする。それは「好きな人」のための幸せな行為と感じている。
義父母や病室を訪れるケアマネージャー、見舞い客に気をつかい、時々違和感を覚えたり、でも妻の人生を尊重する姿勢は変わらない。この夫婦はお互いを深く思いやり、だからこそ相手の心に踏み込まず、弱音を吐かず、むしろ互いに遠慮しあっているようにさえ見える。
妻が亡くなり、一気に妻が遠くに感じられる悲しさ、さらに日々が経過すると、また次第に思いは変わっていく。最後まで読んで、タイトルの意味が深く腑に落ちる。
Posted by ブクログ
とてもリアリティがあり、
悲しいしやるせないけれどどこか光も感じる。
お義母さんがあまり好きではないというか
けして嫌いではなく恐らく良い人なのに
ちょっともやっとするところがある。
そういった日常にありふれたことが、奥さんの闘病生活を支える中でもそこかしこに在る。
会社の人が奥さんの余命を訊いてくるのも可笑しいし
忌引きじゃなくて死ぬ前に休みが欲しいというのも
本当は当たり前の感情だと思う。
余命という物語を使わず納得してもらいたい
という表現の仕方に共感する。
主人公に対しても、「して『あげる』」という言い方を
しなくても良いのになと思った。
小林農園の人は良い人で、本人の前では泣かなかったのだろう。
しかし泣くのを我慢して看病してる人の前でお前が泣くのかよという気もするというのも
それはそうだろうなと思ってしまった。
痛くても並行して幸せだと思うこともあるというのも
分かる気がした。
うつる病気ではないのに治療に専念して表舞台には出るなというのはおかしい。
元気がないまま人に会ってもいいんじゃないか。
そういう考え方と、それを言葉にしているところが
素敵だなと思う。
考え方が合わない、相手が思い込みで話している
というようなことを
ストーリーが始まるという表現の仕方をしているのが
悪気のなさ、通じ合わなさなども感じられて
興味深い。
黄色一色にして欲しいと言ったのに
いろんな色で飾られた葬儀場。
「死ぬならがんが良い」
自分には到底言えそうにない言葉ではあるが
亡くなった奥さんも看取った旦那さんも
精一杯日々を過ごせたことだけは間違いないと思えた。