あらすじ
「たとえば(パリ郊外)ジヴェルニーにあるモネの池は、手鏡。丸く広がり真ん中にかわいらしい花をちょこんとつける睡蓮は、ブローチ。モネは女性が『かわいい』と思うモチーフを追求し続けていた」「モネの睡蓮の池こそが、ジャポニスムの影響をふんだんに受けた作品」……。日本画家・平松礼二は24年前、オランジュリー美術館の「モネの部屋」で衝撃を受けて以来、モネの足跡をたどり、彼が北斎や広重をはじめ、ジャポニスムの影響を受けていたことを実感し、そのモチーフを日本画に変える挑戦を続けている。「彼の睡蓮の絵を見ると、驚くばかりに美の技術を極め、明白にモチーフを表現する画家の才能に感嘆するばかりだ」と語るのは、フランスのポンピドゥー美術館事務局長、ディエゴ・カンディール氏。こうして、美は永遠につながっていくのだ。本場フランスをはじめ、ヨーロッパの人びとを魅了してやまない日本画家が“画家の視点”で語る、いままでにないモネ論。
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Posted by ブクログ
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平松 礼二
日本画家。1941年、東京都生まれ。愛知県で育つ。77年、創画展・創画会賞を受賞。79年、中日大賞展・大賞受賞。89年、第10回山種美術館賞展・大賞を受賞。94年、多摩美術大学造形表現学部教授に(~2006年)。2000年、MOA美術館大賞を受賞。2000~10年、月刊誌『文藝春秋』の表紙画を担当。現在、無所属。財団法人美術文化振興協会評議員。平松芸術はこれまでの日本画という枠にとどまらない普遍的な世界的絵画の世界に到達しており、「平松はモネの視点に日本の伝統美を加え、新たな世界を見せてくれる画家」だと、海外で絶大な人気を誇る。神奈川県鎌倉市在住。共著に、千住博氏との対談集『日本画から世界画へ』 (美術年鑑社)がある。
モネとジャポニスム 現代の日本画はなぜ世界に通用しないのか (PHP新書)
by 平松 礼二
私に言わせると、日本の美術の教科書や授業はなっていません。 自国の文化を正しく教えずに、どうやって子供たちは日本の芸術を知ることができるのでしょう。本書の主題でもあるジャポニスムの時代に、西洋から熱い視線を送られた日本画を学校で教えずに、どうすれば日本が世界に誇る芸術大国になれるのでしょう。 本書を手に取るような美術に関心の深い方々は別としても、小中学生に「百年以上前には日本画が世界を魅了していた」と言っても、ピンとこないと思います。彼らは「日本画って何?」程度の好奇心しかないのではないでしょうか。それは西洋絵画に 偏った教育プログラムによる弊害なのです。最も感性の鋭い幼少時代に日本画を学ぶ機会を与えられない子供たちは、非常に気の毒です。そして、日本画を教えるプログラムをつくらずに西洋画風潮の強い子供たちを育てた日本の美術界には、 忸怩 たる思いをもってほしいと願います。
たしかに「印象派」が素晴らしいことは、いまは私にもわかります。しかし、芸術を確かなものにするのはアイデンティティなのです。確かな個性なのです。絵画でいえば、ジャポニスムの時代に欧州で日本画が認められたのは、明確な個性、オリジナリティによるものです。自国に素晴らしい文化の歴史がありながら、それを無視して西洋芸術に走ることに、何の意味があるのでしょう。そういう意味において、私は油絵を、もっと言えば、その代表格といえる印象派を無視していたのかもしれません。
第二に、これも教育の話になりますが、学校が印象派の絵画を観に、生徒たちを連れて行くことに対するアンチテーゼもあります。 こう書くと、「自分の展覧会には、印象派の展覧会ほど人が入らないからではないか」と 揶揄 されそうですが、決してそういう話ではありません。本来、美術というものは深く個人と関わっているものです。一人ひとりが、自分が興味をもった作品一つひとつを鑑賞するのが美術です。そもそも絵画は、非常に自由で個人に寄り添ったものなのです。
そんな私が五十歳で初めてパリを体験し、オランジュリー美術館の「モネの部屋」で衝撃を受けたことは前述しました。 あの衝撃はいまでもはっきりと覚えています。 それまで東洋に関心が向いていて、見向きもしなかった印象派でしたが、モネの『睡蓮』の連作を観た瞬間に、それまでの東洋志向がストップして、モネに対する、そして印象派に対する「はてな(?)」が無限に広がりました。せっかちな私は、すぐにでも印象派をめぐる旅に出たいと気がはやったものです。
生涯を賭けてモネの庭をつくっている」と話していました。彼は戦争で荒れ果ててしまったモネの庭を苦労を重ねて今日の姿に再生した、第一の功労者です。フランス語しか話せない彼と日本語とカタコト英語が少々の私ですが、なぜだか意志が通じるのです。彼の口からモネの池と睡蓮の再生について苦労話や愚痴が出たことは一度もなく、心からこの庭を愛する姿を私は敬愛しています。 私はパリの友人から紹介されたフランス学士院終身理事のアーノルド・ドートリーヴさんを通じて知遇を得た、モネ財団理事長に許可をいただいて、自由にモネの庭でスケッチを続けました。
モネが浮世絵に恋をして、モネの絵画や庭が生まれました。そして、私が浮世絵の国からやってきて、北斎や広重の血を引いていることを自覚しながら、モネに恋をし、モネのジャポニスムという世界を料理しました。いつの日か、その私に恋をする誰かが登場して、私を料理してくれる。こうして、美はつながっていくのだと思っています。これも、またモネから教えられた真実です。ちなみにこの話は、ジヴェルニー印象派美術館「平松礼二展」のオープニングでスピーチした内容でもあります。
いまでこそ、印象派は世界の恋人のようなビッグネームですが、当時はまだ無名に等しい画家たちの集団。その印象派の画家たちはパリでグループ展や個展を繰り返しますが、旧態依然とした絵画に慣れた人びとからはソッポを向かれることが多かったようです。多くの人には、印象派の絵画が新しすぎたのだと思います。そんな逆境をものともせず、彼らは自由を求め、光を追いかけ、自然を愛し、それまでとはまったく異なる絵画を生み出そうとしました。そしてのちに見事に、それまでとはまったく異なる絵画を生み出すことになります。
たった一枚の「浮世絵」とたった一人の「画家の眼」。 これが国家観を変える、社会全体を動かすほどのことをやってのけているのですから、たかが絵、されど絵。たかが日本美術ですが、されど日本美術。たいしたことをやってのけているわけです。日本が西洋と堂々と五分と五分でわたり合える文化が、百数十年前にはたしかにありました。 人間が生きている社会にはハードな面とソフトな面があります。ハードな面は産業や技術革新、ソフトな面は暮らしを軸にした柔らかな感性に訴えるもの。ソフトな面の百数十年間は、印象派をはじめとする外国人が、日本に興味を示したジャポニスムのような活動から大きな恩恵を受けている気がします。
印象派がジャポニスムから影響を受けたことは数々あります。日本人が印象派を好きなのは教育によるところもありますが、印象派の絵のなかに私たち日本人の魂が溢れているからかもしれません。では、印象派がジャポニスムから受けた影響をまとめてみましょう。
ゴッホの『種まく人』やゴーギャンの『説教の後の幻影~ヤコブと天使の闘い』、ドガ(一八三四~一九一七年) の『菊のある婦人像』などは、この大胆な日本の構図を真似た作品です。
そして視線。 西洋画家はパースペクティブを重要視するために、モチーフを水平に見て描く傾向があります。しかし、日本画の視線は、水平、 俯瞰、斜め下、斜め上と、じつに自由です。北斎や広重は自由な視線から伸びやかに対象物をとらえています。この視線に、印象派たちが憧れたことは間違いないでしょう。この自由な視線に影響を受けないわけはありません。ホイッスラー(一八三四~一九〇三年) の『茶色と銀色:オールド・バターシー・ブリッジ』などがいい例です。
加えて余白。 西洋画を見るとわかりますが、彼らは空間恐怖症です。絵のなかに少しでも余白があると落ち着かず、それを物や色で埋めようと必死です。対して、日本画には余白こそが命という部分があります。余白に意味を持たせるのが日本人の真骨頂で、余白を遊ぶ心があります。
たとえば、エコール・ド・パリの時代に活躍をした藤田嗣治(一八八六~一九六八年) も、白い裸婦の肌に細くて正確できれいな輪郭線を面相筆で引いたことで認められた、と私は思っています。彼が単純に西洋画を描いていただけなら、さほど面白い絵ではなかったのではないでしょうか。 藤田はあるとき、日本人の独特の芸術文化が西洋人に評価されることを知ったのだと思います。だからこそ、あのデリケートな線を西洋画に持ち込んだ。繊細な輪郭線は、日本画の真骨頂。使用する筆の影響もあって、あの細い線は西洋人には決して描けないのです。ですから、飛び込んでくる繊細だったり力強かったりする輪郭線にも、彼らは衝撃を受け、とても憧れたと思います。
モネがジャポニスムの本店なら、ゴッホは支店。しかもそうとう、動きのいい支店です。 ゴッホは、日本に見立てたフランス南部のコミューン・アルルにアトリエを構え、浮世絵の色彩を追い求めた画家です。浮世絵が絵師、彫り師、摺り師など、腕のいい職人の分業ででき上がっていると知って、「日本の芸術が洗練されているのは、共同生活を通じお互いに 切磋琢磨 しているからに違いない」と、たくさんの画家を集めて、お互い刺激し合いながら創作活動に励む芸術家の理想郷をつくろうと画策したこともあったようです。ご存じのようにゴッホは、ジャポニスムが高じて、広重の『名所江戸百景 亀戸梅 屋 舗』『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』や 渓斎英泉(一七九〇~一八四八年) の『雲龍 打掛 の 花魁』などを模写しています。それについても第四章で私なりの解釈をします。
この二大ジャポニスム信仰者はあまりにも有名ですが、そのほかの印象派画家たちも負けてはいません。 ジャポニスムの影響を受けた作品といえば、ホイッスラーの『陶器の国の王妃』、マネの『エミール・ゾラの肖像』『オランピア』、ラ・トゥール(一八三六~一九〇四年) の『ル・トースト』、ドガの『菊のある婦人像』など、書き出せばキリがありません。 印象派とジャポニスムとの蜜月はこうして、印象派が生きているあいだじゅう続きました。
たとえば、ガラス工芸家のエミール・ガレは、西洋的な表現とジャポニスムの融合を試みています。自然そのものがモチーフになるという日本独特の美術的思考をもとに、小さきものへの想いを西洋ガラスのなかに込めました。彼が愛したトンボのモチーフは、じつに活き活きとガラスを 縁 取っています。 また、アメリカのティファニー創業者の息子、ルイス・カムフォート・ティファニーの鳥のモチーフやフランスのクリスタル・ブランド、バカラの植物や鳥のモチーフ、イギリスの陶磁器ブランド、ミントンの鳥やデンマークの陶磁器ブランド、ロイヤルコペンハーゲンの鯉のモチーフなど、ジャポニスムの影響を受けた工芸品を探れば、欧州全域に 錚 々 たる顔ぶれが並びます。こうしてみると、欧州の多くのアーティストを日本のモチーフが 虜 にしていたことがわかります。
印象派をはじめ、西洋の多くのアーティストを虜にしたジャポニスム。彼らがジャポニスムに惹かれた理由のひとつに、様式美があると思います。 ご存じのように浮世絵は、日本ではそば一杯程度の値段で売られるものが多かった市井の芸術。江戸の世の中の風俗や暮らし、文化を描いたものが多く見られました。そう考えると、西洋人は浮世絵独特の様式美はもちろん、そこに描かれていた江戸の人びとの生活のなかにある様式美にも惹かれた可能性があります。
いまでも田舎の家に行くと、入口には門かぶりの松があり、大きく重厚な門があり、アプローチに咲いた花やバランスよく配置された石などを眺めながら玄関を入ると、 三和土。三和土からひとつふたつと階段を上がっていくと床の間のある部屋があって、床の間には一輪の花と掛け軸。 襖 を開けると、隣にはたとえば仏壇があったりする。私たちには身近すぎて、そのよさが理解しにくいのですが、西洋人はこの様式美に感嘆します。
これは西洋の石造り文化では、ありえない様式です。ですから、外国の人たちの多くは、ローカルの家を見たがるのです。渋谷や新宿や六本木などのいわゆる都会の街では、流行を見たい。しかし、ほんとうの日本の様式美を体感したい人たちは、昔ながらの築百年、二百年の家をわざわざ田舎に見に行きます。なぜなら、そこに、印象派や当時の西洋人が憧れ、恋い焦がれた日本独特の様式美があるからです。
そして、昔ながらの日本家屋を見た外国人がもっと驚くのは、そこに遊びに行ったときに出される食事の器、それは西洋とはまったく違うものです。煮物、焼き物、蒸し物、椀物、ご飯、すべての器がそれぞれにふさわしい陶磁器であったり、 漆 であったり、木であったり、鉄であったり、食べるものに合わせて異なります。西洋へ行くと、貧しかろうと豊かだろうと、どのお宅も器は白一色、あるいは模様が入っているか、銀や金で縁取られているか、の違いだけです。しかし、日本は用途に合わせてさまざまな器を使う。これは、日本人が長いあいだ 培ってきた生活感であり、自然美なのです。これには多くの外国人が目を丸くします。
また、日本にはオリジナルの遊び心があります。昨今の日本人を見ていると、頭が固くて真面目で、遊び心なんて感じない、と思うかもしれません。しかし、日本人は世界に類を見ないほどの遊び心がある民族なのです。 たとえば寿司。これは完全に飾り文化です。酢飯を手で小さく握って上に魚を載せてポンと出す。出されたほうも手で取ってさっと口に入れる。寿司の見た目のきれいさも、握って出して食べて、という一連の流れも、遊び心に溢れています。
扇子や団扇や 手拭いにさまざまな柄や絵を施すのも同じ。合理的に考えれば、それらはすべて無地でもいいわけですが、日本人はそこに何かを描いてしまう。使うとき目が楽しいほうがいいと感じてしまうのです。なにより、風を送るために団扇や扇子をつくること自体、そうとうな遊び心といえそうです。折り紙などもいい例で、小さな紙で鶴をつくるなどという遊び心は西洋にはありません。しかもその折り紙が歌舞伎役者の着ている着物の柄を真似た千代紙だったりする。こうした遊び心は日本人独特のものです。
また、着物の柄にも遊び心のあるものが多いです。たとえば裾模様の菊がずっと身体じゅうを回っていく。着物はまとう絵画なのです。友禅も大島紬もそれぞれの産地で、非常に芸術性の高いものばかりで溢れています。 現代の日本人には遊び心は感じない、と前述しましたが、そんなことはないかもしれません。たとえば、お母さんたちが子供につくるキャラクターをあしらった色鮮やかなお弁当などは、まさに遊び心満載。食堂の入り口にディスプレイ…
今回のテーマからは外れますが、文学の面でも、和歌や短歌や俳句など、文字の呼吸を楽しむものが多いと思いませんか? これも…
日本では、木や岩を神様として 祀るケースがありますが、これはアニミズムの考えに基づく行為です。日本人には、自然を愛するとともに、自然を 畏れる気持ちがあるのです。西洋人のように確固たる宗教を持ちえなかったゆえに、自然を神としてあがめるようになったのかもしれません。
ところで、外国人に日本のいいところを聞くと、彼らは「フジヤマ、ゲイシャ、ウメ、サクラ」と答えるからつまらないと、日本人はいいます。しかし、アートに関わる人たちは、もちろん私も、富士山も芸者も梅も桜もこのうえないモチーフに感じます。非常に芸術的に見えるのです。
日本人は 水面 に映る景色、あるいは水面と何かのコラボレーションを非常に美しく感じるものです。水面に映る逆さ富士を本物よりも壮大に感じたり、桜の花が散っていく水面に水と桜が 奏でるメロディを感じたり、太鼓橋が水面に映って真ん丸の可愛らしい形になることを好むなど、これらお馴染みの美しさは、日本人特有の遊び心によるものです。私たちには、直接目に飛び込んでくる美しさはもちろん、もうひとつ何かの媒体を通して美しさを確認するという習性があります。これらの例の場合は、水に映るものを尊んでいるのです。この傾向は、絵画はもちろん、和歌や短歌、俳句などでも 詠われる非常に情緒的な感性です。
また後年、モネがモチーフにした睡蓮にも、ジャポニスムの影が見えるような気がします。日本人は直線が苦手です。たとえば、力強い直線で描くベルナール・ビュッフェ(一九二八~九九年) の絵は、日本人にはあまり受けがよくなかったようです。 私たちが落ち着くのは、きれいな曲線。団扇にしろ扇子にしろ、この時期に西洋で注目されたものの多くが曲線でできています。日本人には、ピンと張ったまっすぐな形より、角を少し取って丸みを帯びた形のほうが、心落ち着く感性があるのです。そして日本人が好きなのは、フリーハンド。私たちは、自由自在な形を好みます。
モネがつくった丸い睡蓮の群生は曲線です。考えてみると、モネの絵には定規で引いたような線はありません。西洋人は、すぐに定規で線を引きたがるのですが、モネは違うようです。この部分が日本に影響されているか否かはわかりませんが、モネが私たち日本人に近い感性の持ち主であったことは確かです。
モネが印象派に属する前のサロン文化には、絵画の連作はほとんどありませんでした。時間差を描いてくれるのはカメラ。器械を使った眼で正確に変化を観察する、という考え方が主流だったのです。私に言わせると、カメラで撮影した映像が正確だなんて、そこからして間違っていると思ってしまうのですが、考え方はいろいろです。 しかしモネは、同じ場所が異なる時間帯の光の当たり方によってどのように違ってくるのかを、カメラで定点観測をするように絵で観察してみよう、科学の眼と同じように見て描いてみよう、と考えついたのだと思います。モネの連作を眺めると、まるで科学実験をするようなワクワクした感じが(絵から) にじみ出ている部分があります。彼はある意味、科学の眼をもっていた画家なのです。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』をはじめとして、浮世絵にはしばしば連作が見られます。これは旅の目録のようなものですが、日本人が眺めると景が一つひとつ独立していることがわかります。しかし、西洋人には同じひとつのモチーフをずっと描いているようにしか見えないのではないか、と思うのです。様式美が非常にはっきりとしているので、三十六枚の絵、あるいは百枚の絵が同じ一点の絵に見えてくる、そんな見え方をしていたのではないかと仮説を立てました。 当時、西洋には日本の情報はほとんど伝わっておらず、初めて観たこれらの作品に、彼らはただただ驚き、衝撃を受けたのだと思います。もしかすると、「日本人はなぜ、同じモチーフをこんなにたくさん描いているのだろう?」と不思議に感じた可能性もあります。
また、モネはたしかに光を求めて戸外に出たわけですが、一般的に考えると、どんな画家でも、室内で描いていたときと、そうそう色彩が変わることは考えられません。そう考えると、モネの美しい色彩が謎なのです。 自然と向き合って自然をスケッチし、自分の心や精神を加えて一枚の絵に仕上げていく。それが画家の作業です。そう考えると、あの美しい色彩は、やはりモネの心の現れだったのかもしれません。光のなかに出て見た実際の光よりも、彼の心のなかで感じた光はもっと強く、濃く、青かったのではないでしょうか。光のなかに入って、いま美術革命を成し遂げようとする、あるいは美術革命を成し遂げたという想いが、彼の気をはやらせていたのかもしれません。この私の解釈が正解か否かは、モネに聞かないとわかりませんが。
私は、日本人がモネを好きな理由のひとつに、この色彩があると思っています。それは、無意識下にモネの色彩が日本画に似ているからではないか、と想像しているのですが、この真偽ももちろんわかりません。 また、モネの色彩を語るときに忘れてはいけないのが、睡蓮の池の絵です。どちらかというと私は、モネが白内障を 患ってからの『睡蓮』が好きなのですが、それは色彩がより際立っているからです。白内障を患った後期のモネの絵は、ぼんやりとしか見えない目で必死に色を探している様子がわかります。ぼんやりとした視界でつかみ取れるのは、フレームではなく、色彩です。ですから、後期の睡蓮の絵は色彩が非常に強くなって、モチーフは単純化されています。目を患ってもきちんと目を見開いて対象を見よう、そして描こう、という強い意志が色を見つけています。
日本人がモネを好きな理由のひとつに、ジャポニスムの影響を受けている画家である、という事実があると思います。「モネはゴッホなどに比べてジャポニスムの影響がわかりにくいけれど?」という意見もあるでしょう。しかし、そういっているあなたが潜在意識のなかでモネのジャポニスムに 惹かれているのです。 日本人が、モネの絵のなかにある「装飾美」や「遊び心」「アニミズム」などを無意識下で感じて、彼の絵に惹かれているケースは非常に多いと思います。DNAで感じていると言い換えてもいいかもしれません。
モネとて血気盛んな若いころは、社会性のある風景を求めて、画家仲間たちと競い合いながら成長していたと思うのですが、経験を重ねて一人になったときに、「あ、そうなんだ。自分の絵は女性とともにあるんだ」ということに気づいたのだと思います。 モネの絵のキーワードは「ジャポニスム」と「かわいい」。このふたつのキーワードがモネの人気を支えていると思います。
まずは全体像を感じて、そして少し近づいて色の重ね方を見て、今度はうんと近づいてディテールを観る、そして最後にまた、遠い位置から全体像を眺める。そんなふうにモネを観ると、必ず新しい発見があると思います。それはモネと遊ぶことと同じ。ゆっくりじっくり角度を変えてモネと遊んでほしいのです。 そうすれば、フワッと見えていた色彩がこんなにも色を重ねているのか、この筆さばきは絶妙だ、細かい部分はこんなにも密に描かれているのか、全体像を眺めているときはこの部分に気づかなかったなど、たくさんの驚きがあるはずです。 日本人はもともと美術を細かいところまで見てやろう、という習性のある民族だと思います。男性には家を造る技量があり、女性は草を煮詰めて糸をつむぐような感性をDNAにもっていますから、他の民族に比べて、美術のディテールを探るのが好きだと思うのです。
モネは、若いころは貧乏でお金に困ったこともあったようですが、基本、生涯を通じて生き方上手な画家だったと思います。多くの期間スポンサーがいたという経済的な安定感もあったと思いますが、厳しく社会批判をしたり、誰かに嫉妬したりする負の部分は少なかったのではないでしょうか。社交性もある、どこまでもプラス志向の画家に見えます。 芸術家というのは、なかなかモネのようにはいかないもので、そういう意味では非常に珍しいタイプの画家だったといえそうです。なにしろ、パリ画壇に反旗を 飜 して自分たちの世界を追求したにもかかわらず、彼の人生の中後半期には、パリ画壇すら手なづけてしまった部分もありました。たとえば、前述したオランジュリー美術館の「モネの部屋」などは、スポンサーとパリ画壇を味方につけて制作をしたものです。
普通だったら教会全体を描くところを、モネはあえて教会の一部を大胆に切り取りました。この切り取り方は浮世絵に通じる自由な眼です。全体像を描くのではなく、一部を切り取るとしたら、どの部分を切り取るか。それが画家の腕の見せどころ。モネは正面をしっかりと切り取っています。非常に象徴的で美しい場所だったからとも想像できますが、正面ゆえに景を狭めてしまう場合もあります。その恐れをものともせずに、この部分を大胆に切り取る勇気が、素晴らしいと思います。その確かな画家の眼によって、この絵は教会の一部を描いているのに、じつに壮大な広がりを感じさせます。大聖堂のどこでも自由に切り取っていいなかで、この部分を選んだモネはさすがです。
この画名をもとに、のちにある評論家が「印象派」というグループ名をつくったことは有名です。雑だとか、あまりにも稚拙だなどと、この絵に対する意見はさまざまなのですが、しかし、なにがしかの根拠となるものがなかったら、グループ名になるほどの評価は受けないと思います。その意味でもエポック・メーキング的作品といえそうです。 印象を辞書でひくと、「人間の心に対象があたえる直接的なこと」「強く感じて忘れられないこと」と出ています。「印象」という表現方法は、絵画のなかでは、当時、まだ誰も挑戦していないことでした。この絵でいう印象は、画面中央からやや右上にある太陽です。この太陽はオレンジ色に近い赤で描かれています。『印象、日の出』というタイトルにもかかわらず、これが日の出なのか、日の入りなのかが物議を醸したことがあったようですが、私は間違いなく日の出を描いたものだと思います。
なぜなら、当時のモネの気持ちを考えれば、日の出以外にないと感じるからです。モネは旧態依然のパリ画壇に反旗を 飜 し、セーヌを下って世界につながる英仏海峡にたどり着きました。子供のころに暮らしたことのあるこの街で、モネが見たものは輝かしい未来に続くおびただしい数の輸出品や輸入品、新しい品々や考え方、そしてそれを支える人びとの活気でした。そんな空気のなかで、彼は「自由で伸びやかな新しい芸術を創り出すんだ」という気持ちを新たにしたと思います。その彼が朝日を選ぶか、夕日を選ぶか。答えは私でなくともわかるでしょう。
『サン・ラザール駅』の連作は非常に実験効果の高い作品群ですが、この絵を観るたびに、モネは「うまい」画家をめざしていたのではないのだなぁと思います。独特な芸術性、オリジナルを見つけ出したかったのでしょう。それゆえの多作なのかもしれません。 モネに限らず画家は、「うまい」と言われると「つまらない」と言われたように感じるひねくれたところを持ち併せています。モネの絵は「うまい」のではなく、「面白い」「オリジナル」なのだと実感します。
つまり、これはモネの英国に対する敬意の現れではないか、と思うのです。多くのフランス人がイギリスに対していい感情をもっていなかったときに、争いなどとは関係ない、ただ美しい景色に感謝するその穏やかなやさしさが、この絵からはにじみ出ています。 モネに限らず画家という種族は、周りでどんなことがあっても、心は平穏、周りの騒音に惑わされない人が多いと思います。どんなに攻撃的な性格に見える人でも、心のなかでは争いを好みません。画家の心は、ずっと絵を描き続けていた少年のころのままなのです。 モネも冒険心溢れる、やさしい少年の心のままで、絵を描き続けた人といえそうです。
その理由はいくつかありますが、第一に考えられるのは、鎖国を解消し江戸時代を終えたあと、日本人の西洋文化に対する憧れが非常に強まったことによります。その勢いはすさまじいものでした。モネが、突然登場した日本画に衝撃を受け、ひと目 惚れをし、恋し続けたように、日本人も西洋文化に熱烈に恋をしたのです。
明治維新以降、近代日本美術の創成期の画家たちは、ヨーロッパに目を向けはじめました。そこから大戦を終えるまで、多くの日本画家がヨーロッパに留学をし、さまざまな西洋美術を吸収して日本に広めました。日本の近代化とともに「新しいものは西洋にある」という意識が高まり、美術界も西洋の模倣をする傾向が強まったのです。
また、終戦後にはアメリカからどんどん入ってくるポップアートにも影響を受けています。アメリカンアートとヨーロッパの近代美術を吸収し、融合しようという流れが日本の美術界に広まったのです。そして、そこに軸足を置いたことで、日本画が世界に飛び出していくきっかけを失った感じがあります。 終戦後に押し寄せてくる西洋の絵画は、日本画を駆逐していきました。結果、新しい絵画をめざす人たちは日本画家でありながら、西洋画におもねっていきました。そして、たとえば日本画材を使っていても、油絵のもつ重厚さや造形性を追求…
浮世絵や 琳派 などの日本画が印象派に影響を与えた事実は、美術を学ぶ人なら誰もが知っているはずなのに、近代化の波のなかでは忘れ去られてしまいます。というより、日本人たちはその事実を忘れようとしていたのかもしれません。なぜなら、西欧の近代化を受け入れた日本人には、浮世絵に代表される日本画が安っぽくマイナーなものに見えたのだと思います。浮世絵は町絵。たくさん 摺られる非常に安い美術でした。西洋の文化を肌で感じた日本人は、西洋文化に負けないようにもっと高級なものを…
鎖国をして世界を知らなかったあいだは、非常に伸びやかに、劣等感など感じることなくオリジナルを追求できた日本人が、近代化をめざす過程で、あるいは敗戦国となって、すっかり自信を失ってしまいました。西洋に憧れ、真似をすることで、大切なオリジナルを捨ててしまったのです。 私がヨーロッパで展覧会をすると必ず言われるのが、「オリジナリティがある」ということ。世界はオリジナルでしか勝負できません。日本画家が日本画の特性を忘れては、いつまで経っても世界に出ていくことはできないのです。 非常に残念で悔しいことですが、日本ではいまだ「黒船文化」が続いていると言わざるをえません。
家制度に始まる兄弟子、門弟とつながる階級社会で、現在の日本美術は成り立っています。この制度にはいいこともあって、たとえば、ある団体に入ればすぐにそこの名刺をもらえます。名刺=日本画家という看板ができるわけで、そうなると画塾を開いたり、個展をしやすくなったりします。無所属の場合は、名刺やネームプレートに「○○会所属」という看板を書くことはできません。看板のない画家を日本ではアマチュア、自称画家、あるいはマイナーととらえる部分がまだあるのです。また、組織に属せば組織が守ってくれることも数々あって、その団体のクライアントを紹介してくれたり、グループ展などを開催し、広く自分の絵が世の中で観られる機会が増えるのです。そうなると、ある程度は食べていくことができるので、わざわざ組織から離れる必要もなくなります。逆に組織から離れれば、陰の暴力を受けて食べられなくなる恐れもあるわけです。
そうなってくると、多くの画家が組織を守るために働くようになります。組織を維持するために、階級制度をつくっている団体もあります。階級は勲章ですから、階級を得るために励み、組織のなかでより高みをめざす、組織のなかで注目される存在になる、それが画家たちの目的になっていくのです。組織はそうやって、門弟たちの競争心をあおり、縛っていきます。そうなると、限られた階級社会でステップアップすることが主たる目的となり、「世界に出ていく暇なんてない!」「どうして世界に出なければいけないの?」という考え方になっていきます。そこには「実力主義」という言葉はありません。
私は三十年ほど前に独立をしました。 現代アートをめざす人のあいだでは珍しくないフリーですが、当時、純粋な日本画家で独立をした人はいなかったと思います。といっても、私も最初はある団体に属していて、師と慕う横山操先生(一九二〇~七三年) が逝去なさったので、往く道を失って独りになったという言い方が正しいのですが。かつての教えでは「二師にまみえず」といわれていたので、他の会派を渡り歩くよりは、独りで生きて行こう、と思…
しかし、結果はひどいものでした。考えてみれば、最初からその会派に属していない私はよそ者だったのでしょう。 堪えられずに、自分一人でやっていこうと決めたのです。当時、結婚もしていましたから、経済的な不安は大きかったものの、家内が「好きにやったら」とおおらかだったので、絵を描きながらアルバイト…
実際のところ、三つ四つの大きな団体が日本美術のほとんどのマーケットを押さえている現状があります。そこから離れて独り立ちして、経済的な安定を求めるのはなかなかに難しい。しかし、相互扶助で成り立っている団体からは純粋な芸術は生まれにくいものです。後援者を満足させるために流行る傾向の絵をみなでめざそうという考え方からは、過去から学ぶことも未来を創造することもできないと思います。そこでは、江戸時代に世界から尊敬された琳派や浮世絵の魂──オリジナリティは、何もなくなっているのです。
かくいう私も五十歳でモネの『大睡蓮』に出合うまでは、活躍の場は日本だけで充分だ、そのほうが生活しやすいし、だいたい、日本画という日本固有のものをもって世界でやるなんてナンセンス、そんな無駄なことをしなくても充分生きていける、と考えていました。しかし、モネやゴッホやボナールやゴーギャンやピサロなどの絵に触れて、突然に鎖国が解けました。彼らに影響を与えた日本画をもう一度きちんと勉強したいと思いついた幸福感は、衝撃でした。そこから、ものすごく精神が解放されたことを覚えています。
創造する画家は、つねに独りということがはっきりとわかりました。洋の東西、どこを見ても、それが何かを創り出す人の基本です。画家は誰かとつるんだり、団体でする仕事ではなく、一人で思いのとおりやっていけばいいのだと解き放たれました。
時代は昭和から平成になり、二十一世紀になりました。世界は非常に小さくなったのです。西洋信仰は、以前の日本人と比べると少なくなり、浮世絵や琳派などをメディアで紹介することも多くなりました。それによって現代人は、日本画を観る機会が増えていると思います。また、感性のなかで見つける美しさはつねに循環しています。十年前のものを古いと感じるのに、二十年前のものが新しいと感じることがあります。極端な例でいうと、十代、二十代が昭和中盤をとても美しく感じる昭和レトロのような感覚もあるのです。そのなかで、日本画が非常に新しい美に見えるようになってきたのではないでしょうか。
このように日本画を学びたいという学生が増えることは、非常に嬉しいことです。しかも、日本画希望者には女性が多い。男性はやはり一生の 生業 として西洋画を選ぶようです。女性のほうが感覚的に自然のなかにある柔らかさ、日本の風土や暮らしにある柔らかさのなかの美を見つける感覚に優れているからかもしれません。考えてみると、女性誌ではよく日本画の特集をしていますが、男性誌ではそのような特集は見られません。男性誌では政治経済や戦争や、文化の面では音楽でしょうか。男性はつまり、生活を担う分野にあまり興味がないということです。そういう意味でも、女性のほうが感覚主義の部分があるのかもしれません。
日本画界に女性が進出してくれることはウェルカムですが、私は男性諸君にも言いたいのです。 遡って考えてごらんなさいと。江戸時代に世界に誇る芸術をつくったのはみんな男性の絵師です。あなた方には、そのDNAがあるのですよ、と。障壁画にしろ、屛風絵にしろ、大きな画面ですから、力仕事のような面もあって男性が担っていたこともあります。しかし、現在は男性が絵を生業にするのは非常に勇気がいる世の中になってしまいました。私の時代でいえば「河原乞食」などと 揶揄…
美大卒業後すぐに組織のしがらみから解放されて、自由に自分の世界を追求したいというのですから、たいしたものです。すでに組織のピラミッドに対してはっきりとアンチテーゼを示しはじめている若者たちの勇気を痛快に思います。 しかし、私は一方で、矛盾するようですが、「逆にいいところも悪いところも見たほうがいい」と思う気持ちもあるのです。生徒たちには「十年間、そんな組織で 雑巾 がけをやってきなさい、魔の城でもかまわない、とにかく技法と材料を覚えてきなさい」とも言っています。繰り返しになりますが、日本画は材料を覚えるのも技法を覚えるのも並大抵のことではありません。美大を卒業しても、修業は続きます。そこで、兄弟子や先輩に技法を教えてもらうのも悪くはないと思うのです。私自身、組織に反発しながらも、組織から技法や道具を教えてもらった経験があります。 「決して無駄ではないから、その後に独立すればいいのだから」と生徒たちを 諭すのですが、多くが「いいえ、私は最初からフリーランスでいきます」と宣言します。
浮世絵を例に取りましたが、これから先、日本画の教育が充実すれば、国家財産となる日本画も多くなる可能性もあります。自国の文化を高めるために、いい作品はそれなりの金額で国が画家から購入する。そして、いいコレクションを海外に貸し出す。そこから得たお金で優れた美術教育をする──そんなループが生まれれば、日本画が世界画になることも夢ではない気がします。
戦争のせいばかりにするのはよくないのですが、日本人が自国文化を誇る毅然とした精神性を持ち続けていれば、何十倍も何百倍も世界に誇る芸術性は育ったと思います。それは芸術の国・フランスと対等だったのではないか、と想像します。二十世紀初頭にそれを見抜いたのは、まさしくフランスの芸術家たちで、鎖国によって国と国とのつき合いはいっさいないのに日本画に衝撃を受けて、日本を自分たちと対等な仲間として自分たちのなかに組み入れていってくれました。それは素晴らしいことです。
また、教育の面でも改革が必要となります。最も感受性の強い義務教育の期間に日本画をもっと教えるようにしないといけません。日本画を観ること、歴史を知ること、墨と筆で絵を描くことなどを、カリキュラムに加えてほしいと思います。それにより、美術に興味のある子供はもちろん、そうでない子供も日本画を身近に感じてくれるはずです。
そして最後に、日本人であることを正しく自覚することです。私たちには水に恵まれ、季節に恵まれた大自然のなかで生まれ育ったという有史以来の歴史があります。印象派が求めた光は、つねに私たちの周りに当たり前のように存在していたのです。そのなかで育まれた感性は日本画のなかに反映されています。パースペクティブにこだわらない自由な構図、はっきりとした美しい色使い、豊かな装飾美……。日本画のオリジナリティは、西洋をはじめとする世界の国々のなかで群を抜いています。大切なのはこのオリジナリティです。何度もいうようですが、世界で注目されるのはこのオリジナリティだけなのです。
のんびりと散歩をしていると、しみじみモネがこの場所を終の棲み家に選んだ理由がわかる。これほど安らぎをもって自然の絵を描けるところはほかにないのではないか。モネが求めた光は時を刻み、いつでもそばにある。見下ろすセーヌは母なる流れ。護岸工事がされていない 肥沃 な土地には、柳もポプラ並木もつながっている。
浮世絵の北斎や広重に恋をしたモネ。その北斎や広重の国から私がやってきて、その血を引いていることを自覚しながら、「モネとジャポニスム」という舞台を私なりに料理してきました。そして、それを今度は、百年先の画家が料理するかもしれない。それがフランス人だったらとても面白い。こうして美は永遠につながっていくのだなぁ、と思います。
モネは八十六歳まで生きて、見えなくなりつつある眼で独特の色彩をとらえました。亡くなる寸前まで、自らの絵をもっと新しいものにするべく、格闘していたのだと思います。フランスの友人が私に、「約束だよ。モネは八十六歳まで描いたのだから、あなたは九十歳まで描きなさい」と言ってくれました。たしかにモネは、最後まで枯れずにキャンバスに向かい続けたと思います。ならば私も、最期のときまで筆を握っていたいと願うのです。友人は九十歳までと言ってくれましたが、百歳くらいまでは頑張るつもり、とホラを吹いています。
オランジュリー美術館の「モネの部屋」で『睡蓮』の連作を観て以来、モネに憧れて、対抗意識も半分あって、描き続けてきた屛風絵は七十mを超えました。いつの日かこの大作を、みなさんにご覧になっていただけると思います。あと一、二年のあいだにはモネの連作の長さに…
本文でもお話ししましたが、私はモネに追髄しているのではなく、ビッグブランド・モネを超えようとしているのです。それは絵の長さだけでなく、多くのことで……と、ここでまた、ホラを吹いてみました。百年経って世界の巨匠になったモネのように、私も百年経ったら世界に認められているに違いない、という欲望があるのかもしれません。画家という生き物はドロドロとした欲望をもって、いつまでも枯れない種族です。 そんな芸術家らしい欲望を与えてくれたモネ…
Posted by ブクログ
日本画家の著者から見たモネ論。ジャポニスムの影響を受けたからこそ日本人は印象画にとても惹かれるのかもしれない。構図や色、モチーフなど当時西洋にはなかったものを取り入れようとしたモネ。
今現在、西洋画に慣れ親しんだ私たちにとって日本画や浮世絵というのがとても新鮮に感じられる。空間の使い方、構図や独特なデフォルメ、色使い、当時の文化、日本画の素晴らしさに当時のモネのように今私たちにとっても再認識されていくように感じる。