【感想・ネタバレ】なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理のレビュー

あらすじ

オートポイエーシスという閉じた系の身体でありながら、意識が立ち上がるに際しては外部に連結する開口部を持たなければならないという矛盾。意識という現象はいったい何なのか。脳の働きとの関係はどうなっているのか。それは「私」という一続きの事態をどう成立させているのか。脳科学研究が「意識」の物質への還元を方向付ける趨勢に反駁したベルクソン、さらにドゥルーズの理論を参照し「私」の立ち上がる現場に迫る。

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Posted by ブクログ

私が一続きの私である、というのは決して自明のものではない。「意識」というものを通じて、われわれはどのようにして、この一続きの私を獲得しているのかという問いを、精神病理や哲学の領域から問い直すことがこの本の目的と言えるだろう。著者はその考察の中で、哲学者のベルグソンやドゥルーズ、フッサール、ハイデガーまで援用するが、一方、アントニオ・ダマシオやジェラルド・エーデルマンといった脳神経科学者が得た知見も重視する。

本書の最初に置かれた色見本タグを自由に分類する課題について、統合失調症の患者が普通の健常者とはまったく別の分類をしてみせるという説明は、まずわれわれの常識というものが何らかの当たり前ではない基盤の上に寄って立っていることを示すものだと思う。

「私」の身体的な境界については、オートポイエーシスという概念によって、「自分自身を再生産するための要素である限り体の一部である」と捉えることでうまくいくことが示されるが、意識に立ち上る「私」については何を境界とするのかは課題となる。
そこで、著者はエーデルマンの神経細胞群選択説(TBGS)を使い、「意識の構成要素はニューロンの再入力」であると定義する。「再入力」は今般のマシーンラーニングにおける多層ニューラルネットワークにも通じているようで興味深い。ニューロン同士の再入力の生成には大脳皮質と視床を必要とするため、いわゆるコア意識を保有するためには、鳥以上の脳を持つ必要があるとされる。

少し長い引用になるが、次が著者の立場を示すものと言える。

「実際には、動物においても表象が成立するためには、双方向性の再入力の存在は必須であって、入力ポートからの刺激の取り込みそのものが決してランダムに公平に行われるわけではなく、必要に応じて極めてバイアスがかかった仕方で刺激は取捨選択されています。むしろ脳という機関はどのようなバイアスをかけて情報を取捨選択するかに特化したといってもいいほどの労力を情報の絞り込みにかけており、この双方向的な再入力の循環を通して、特定の臨界点において一挙に表象が成立するのだと仮定しなければ、物質から意識への跳躍は説明できないというのが再入力を重視する私達の立場です」

意識の問題を哲学的に考えるとき、西田哲学が出てくるのは比較的よくあることだが、ここでも「物来りてわれを照らす」という西田哲学の有名な言葉が引かれている。西田幾多郎はどこかで読むべき本なのかもしれない。

著者の過去のマッチ箱収集の趣味や、若いころに惹かれた神田理沙『十七歳の遺言』など、個人的な体験が混ざり、終わりにいくに従い、どことなく焦点がぼやける感じもあるが、臨床精神医学者が哲学の知見や最新のエーデルマンらの研究などを通して「私」とは何かについてまとめるやり方は面白い。フッサールやベルグソンがその時代に突き詰めて考えたことも、時代を超えて大事で示唆のあるものなのだろうなと改めて思えた。

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2019年01月28日

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