あらすじ
「総ルビつき原文」と著者オリジナル現代語訳つき! 読みにくいと敬遠されがちな古典がこんなに分かりやすく、面白く「すらすら読める」! 人生論としても読める世阿弥による至高の芸能論は、現代人にとってぜひ耳を傾けたい言葉に溢れています。古典が私たちに伝えてくれる「知っておきたい日本人のこころ」が、新鮮な響きであなたの胸に染み込んでいきます。
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Posted by ブクログ
風姿花伝、正式な書名は「花伝」。室町時代の申楽師であった世阿(法名:世阿弥陀仏)の、申楽(能)の奥義を後継に伝えるための書である。
本書は芸能の分野にとどまらず、現代におけるビジネスや教育の分野においても金科玉条のごとく通用する処世訓といえるだろう。
例えば、「第一」の書では、7歳の頃の教育について「さのみに、よき、あしきとは教ふべからず。あまりにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能、ものくさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり」と記されている。つまり、これは良い、悪いなどと口うるさくいうと、子供はやる気を失うから、「心のままにせさすべし」、その子の好きなようにやらせるのが良い、と述べている。子供の可能性、長所を引き出す秘訣を、室町時代の先人がしっかりと教えてくれているのである。
また、「第三」の書では、「稽古は強かれ、情識はなかれ」、稽古はすればするほどよい、うぬぼれの心を捨てよと述べている。仕事もある程度慣れると、向上心を忘れ、惰性に走りがちだ。自分はこれだけ出来るとうぬぼれたら終わりなのだと教えてくれているのである。
このような古典は何度も繰り返し読むことによって、味わいが出てくるものなので、また読み返したいと思う。
古典に苦手意識がある人は、現代語訳の部分だけ読んでもよいかと思う。
Posted by ブクログ
合理的で透徹した頭脳の持ち主、世阿弥の『風姿花伝』を、主だったところ現代語訳しつつ補足を加えた書。演劇論というだけでなくて、仕事とかもっと言えば人生とかにも広く当てはまる内容だと思った。とにかく謙虚で努力家の世阿弥の人となりが垣間見えた。上手は下手の手本、下手は上手の手本。今のように流派が厳しく分かれていなかった時代、勉強になると思えば他派の演者にも白拍子の女にも学ぶその姿勢。
花というのは、その時分に合っていて観客に珍しいと思わせるもののこと。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、って聞いたことがあったけれど、たしかにオチとか見どころを最初に全部公開されてしまったら、珍しさは死んでしまう。だから花というのは絶対的なものではなくて、観客の心の中にある。観客層やその場の雰囲気に応じて変わり、一期一会の、「今のこの場ならこれが花だ」というものをぱっと取り出して演じる力であって、観客と演者とが作り上げる場の中で生まれてくるものなんだと思った。だからどんな場にも対応できるように、稽古している必要がある。
それに陰陽和するという話もあって、観客が陽ならこちらは陰で行くことで観客を引き込むことができるし、逆もまた然りだ。観客がガヤガヤしていて落ち着かない時はこちらはことさら静かにゆっくりと演じ、観客が静かで散漫ならこちらは動いてメリハリをつける、みたいなのは学校の授業でも一緒だと思う。生徒がガヤガヤしてる時に大声を張り上げて授業するのは三流、って前聞いたのをすごく思い出す。
だから能も授業もとても共通すると思った。観客とその場の雰囲気と設定と、そうした状況に応じて演者も演じて一つの作品を作り上げていく相互作用というか。
怒る人を演じる時は足音は小さく優しく。怒りながら全てを大声で演じると麁い芸になってしまう。傲慢な人間は自分を傲慢だとは思わず、謙遜な人ほど傲慢だと自己評価するように、人間とは矛盾した存在だから、というのになるほどなと思った。
尊敬する父を52歳で亡くし、若くして一座を担った天才世阿弥の、良い能を残していくためにどうすればよいか、現実的に合理的に冷静に考えて残した書、という感じ。
余談だけど、幼名は藤若だと思っていたけれどそれは二条良基から賜ったもので、もともとは鬼夜叉と言ったらしい。世阿弥、というのは後世の通称で、署名は大体世阿、というのも初めて知った。80歳過ぎまで長生きしたものの、晩年は長男元雅が横死し、弟四郎とその子を贔屓にした将軍義教に嫌われて佐渡に流罪にまでなった、その生涯に切ない気持ちになった。