あらすじ
人間が考えることなど動物は何もかもお見通しなのだ。二十八年間の会社員生活を終え自由の身となった小説家。並外れた美貌を持ちながら結婚に破れた女優。「鳥獣戯画」を今に伝える名刹を興した高僧。父親になる三十歳の私。恋をする十七歳の私。語りの力で、何者にもなりえ、何処へでも行ける。小説の可能性を極限まで追い求める、最大級の野心作。
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Posted by ブクログ
この作家のことを知っている訳ではないが、私小説のようなプロローグは自身が過去に何処かで経験した幾つかの場面を組み合わせて再現したものなのだろうな、と直感する。話の展開の妙ではなく切り取られた一つの場面に内在する数多の感情の一つ一つに意味を見出そうする文体は保坂和志を彷彿とさせる。自分自身が気付いてすらいなかった感情が何処から湧いてくるのか、それを探って言葉に投影してみる。ジャームッシュのオムニバスの中の短篇映画の一つを根掘り葉掘り解説したらこうなるとでも言うように。しかし、前後関係も何もかも無視して絡み合う融合した複数の感情(それを感情という言葉にした瞬間に言い表したい事の半分は指の間をすり抜けてこぼれてしまうように思うけれど)を解きほぐす事など出来るわけも無く、窮屈な言葉の表象に手放しで託してしまうことになる。それは創造による補遺を必要とし、省略によって因果律を成り立たせ、辛うじて物語の体裁を保ってはいるが元になった説明不可能な想いそのものではない。それ故、この小説の中で語られる、如何にも作家本人の経験談のようなものはすべてフィクションであるとも言えるし、かつ、作家の視点から見たの事実なのだと捉えて良いような気がする。
面白いのは、そこに他人の感情が絡み合って来ることを作家が見逃さないこと。その赤の他人の感情も引き受け、その過去をも言及(想像)する。それは次第に時を遥か隔てた過去の人物の来し方にも波及し、一体この小説はどこへ向かって行くのだろうと読者を訝しがらせるが、恐らく、あのプロローグの場面へと引き取られて行くのだろうことも、また、想像に難くない。
読んでいる時には自分自身の脳細胞がそれ程刺激を受けているようにも感じなかったけれど、いざ感想を記そうとすると次から次へと言葉が湧いてくる。存外、この不思議な小説に魅せられていたことを実感する。
Posted by ブクログ
「鳥獣戯画」(磯崎憲一郎)を読んだ。
これは何小説と言えばいいんだろう。
退職したての小説家の物語、美人女優の物語、文覚上人の物語、明恵上人の物語、小説家の青春物語、会社勤め時代の物語、それはあたかも巻物を開くように次々と物語が移りゆき、っと、巻物!、ああ、これは高山寺の鳥獣戯画から今も連綿と続く人物戯画なのか。(穿ちすぎ)
(なんか感じたことをうまく言い表わせていないな)
2011年6月から2012年8月の一年三ヶ月の間に磯崎憲一郎作品を五冊読んで以来だから十年以上のブランクがあって六冊目。
うろ覚えながら「まあたしかにこういう語り口の人だったよな」とつぶやく。