【感想・ネタバレ】親鸞と一遍 日本浄土教とは何かのレビュー

あらすじ

無の深淵が口をあけ虚無の底に降り立った中世日本に日本浄土教を大成した二人の祖師がいた。定住型の親鸞と漂泊型の一遍という、全く対照的な生き方と思索を展開した両者の思想を、原典に現代語訳を付して緻密に読みこみ比較考量、日本文化の基層に潜む浄土教の精髄を浮き彫りにする。日本人の仏教観や霊性、宗教哲学の核心に鋭く迫った清新な論考。

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Posted by ブクログ

年末年始の読書その1。
多動症としては一遍上人に身体的な親近感を(勝手に)抱くが、親鸞・一遍いずれの浄土の教えも興味深い。

親鸞といえば『最後の親鸞』吉本隆明が印象深かったが、一遍と比較されることで見えてくる「親鸞」も勉強になる。

著者は禅宗を自らの前提として踏まえつつ、日本宗教としての浄土教に深い関心を抱いている、という。
そこもまた興味深い。

親鸞は「信」を突き詰め、一遍は「称名」を突き詰めていったのだという。信じることの困難を「他力本願」において実現することにおいてはきょうつうしているのだろうが、その突き詰め方は生半可なことではない、のだ、ということが読んでいてひしひしと感じられる。 
「悪人正機」は、我々がその「悪」から逃れるすべをもたないからこそ、如来を「信じること」しかないということであろうし、
「南無阿弥陀仏」という「称名」さえあれば良いというのは、信や不信を超えてそこにたどりつかねばならぬ一遍の困難があったのだろう。
「信」という心(親鸞)と「称名」という言葉(一遍)の対照的で、「易行」だからこそ難しい道を歩いた2人の姿勢が身近に感じられる一冊だった。浄土の教えを考える入門として好適かと。

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2021年01月18日

Posted by ブクログ

親鸞と一遍の思想は、日本の浄土教思想を突き詰めた二つの道を示しています。本書は、両者の共通点と差異を、「三心」と「還相」という二つのテーマにそくして考察しています。

「私は、浄土教の救いの核心は念仏にではなく、実にこの三心にあると考えている」といいます。三心とは、至誠心・深心・廻向発願心のことで、法然以後の浄土教において、凡夫がこの三心をそなえることがどのようにすれば可能なのかということが問題の焦点になりました。親鸞はこの問いに対し、三心は第十八願の至心・信楽・欲生に通うと考え、信心をそなえて念仏をとなえることはどのようにして可能なのかという問いに置き換えたうえで、三心はすべて阿弥陀仏の慈悲によってわれわれにもたらされたのであり、阿弥陀仏の信心に帰着すると考えました。

阿弥陀仏の信心に帰するという「為本信心」の立場をとった親鸞に対し、一遍は「為本念仏」の立場をかかげます。阿弥陀仏への信心をもたないという理由で念仏札の受け取りを拒否したひとりの僧に出会った彼は、やがて自己の信念によって往生が決定するという考えかたを乗り越えて、一切衆生の往生は阿弥陀仏の本願によって決定していると考えるようになります。それは、南無阿弥陀仏が決定したということであり、名号が名号をとなえるという立場に彼がたどり着いたことを意味していました。

また著者は、社会的な実践活動に積極的にくわわったとはいいがたい親鸞のことばをたどることで、彼の還相についての理解を検討するとともに、一遍の実践活動においてどのようなしかたで還相の考えかたが生かされていたのかということを考察しています。

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2026年07月11日

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