あらすじ
「則天去私」「低回趣味」などの符牒から離れ、神話的肖像を脱し、「きわめて物質的な言葉の実践家」へと捉えなおしてまったく新しい漱石像を提示した、画期的文芸評論。
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Posted by ブクログ
衝撃の評論。
何度読んでもその衝撃は消え去らない。
何度も手に取り、そのたびに一気読みしてしまう、青春の一冊。
誰もが、蓮實重彦の生み出した魅惑の評論スタイルの模倣を試みるが、見事に失敗する。
唯一、蓮實の教え子である松浦寿輝のみが、そのスタイルを継承し、磨きをかけたと言える。
松浦のみが皇位継承ができたのは、彼が詩人であり、評論家であり、フランス文学者で、蓮實並にずば抜けた頭脳を持っているからだ。
ただ、文体を真似し、スタイルを真似するだけでは、悲しい猿真似に終わってしまう。
蓮實重彦の精神的そのものを継承しなければ、本質的な意味で、文体もスタイルも継承し得ないのだ。
過去の漱石論を鮮やかに乗り越えたのが、当時大学生の江藤淳だった。
「則天去私」と言う漱石神話が信奉されていた時代、若き才能が、その神話を見事に粉砕する姿は鮮やかで眩しかった。
しかし、蓮實はその江藤すらも、「嫂(あによめ)登世神話」を生み出しただけではないかと、アッサリと切り捨てる。
漱石という作家は、どのような神話にも(「則天去私」でも「嫂登世」でも)、その通りと思わせる底抜けの包容力があるのだ。
だから、神話を破壊するだけでは不十分なのだ、神話を作り出す風土から身をもぎ放つ、ストイックな姿勢が必要なのだ。
そこで蓮實が提案するのは、漱石ををやり過ごして、不意打ちするという方法論だ。
すぐに神話を生み出したがる物語の風土を無化し、神話作りに加担しないためには、テキストを解体することが必要となる。
漱石の作品を、「横たわること」、「鏡と反復」、「報告者」、「近さの誘惑」、「劈痕と遠さ」、「明暗の翳り」、「雨と遭遇の予兆」、「濡れた風景」、「縦の構図」という、表層的で、斬新な切り口で読み取っていく。
章立て自体が何と蠱惑的でエロティックなことか。
漱石の作品全体に通的する物語を起動させる装置に着目して、作品のダイナミズムを論じてみせるのだ。
このような視点はこれ以前には存在しなかった。
しばらく、どんな本を読んでも、どんな映画を見ても、この作品の方法論ばかり使っていたものだ。
その衝撃的な批評のスタイル、表層批評は、多くのエピゴーネンを生み出したが、誰も真似することはできなかった(松浦寿輝を除いては)のは、先に触れた通りだ。
だから、模倣はやめた。