あらすじ
「利他的な社会はあり得るか」「私たちの人生において1番大切なもの」「怒りは悪か」「心の科学としての仏教」「慈悲の実践」「愛と執着の区別」「利己主義と自己嫌悪」「他者依存と悟り」……。仏教を、宗教として、というよりも、より良く生きるための「智慧」「哲学」として学びたい人へ、激しくも熱い対論集。
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Posted by ブクログ
筆者は仏教関係の著作もある東京工大の文化人類学の先生。ダライラマの著作は自伝他いくつか読んだ事はありますが、対話物は初めて。著者自身が自画自賛していますが、一方的なメッセージではなく、通常の著作等では出てこないダライラマの考えを引き出せているのは対談ならでは。
Posted by ブクログ
東工大で教鞭をとる文化人類学者の作者とダライ・ラマがダラムサラで2日間対話をした記録。高校の時に仏教学校に通っていた僕にとっては仏教の授業で語られることは「理想高く、しかし実践はなんか形式的」という印象であった。大学進学後は、仏教のことはほとんど考えたこともなく今に至る。それが、近年、キリスト教的一神教思想と密接な資本主義の行き詰まりがいろいろな所で語られるようになり、親鸞ブームのように仏教の教えは見直されてきているように感じる。そこで、入門書代わりにこの対話を読んでみた。
まず感じたことは、真偽のほどは不明だが、仏教会も医師会などと同じで「官僚化・硬直化」しているという事実。確かに、世襲制が根強く、ある特別な大学に進学して資格を取得し、開業するという形は医者とそっくりだ。そして仕事は安定している。保守的になる土壌は満載である。
そんな仏教界の現状を憂いている作者が、ダライ・ラマと会うためにはるばるダラムサラへのでこぼこ道を進んでいくところから話は始まる。なんか、その序章を読むと彼のわくわく感が伝わってくる。
それにしても、ダライ・ラマの話はわかりやすい。最も印象に残ったのは、同じ言葉なのにいくつかの意味を持つと言うこと。
たとえば、「怒り」。怒りを持つことはよくない。悟りを得るためには怒りを捨てなさいというのが定番。しかし、怒りには、嫌悪感から生じる破壊的な怒りの他に、慈悲の心から生じる良い怒りがある。だから、宗教家が社会的な問題に対して関心を寄せることは、愛情や慈悲の心が根底に存在していて、社会の不正をただしたいという怒りを方便として使用することなのだと。
執着にも2種類ある。偏見に基づいた欲望の執着は捨てるべきである。しかし、悟りを求める心に代表される執着は持ち続けないと行けない。
さらに競争についても。資本主義的な弱肉強食の競争観よりも根本的に、お互いの力を高め合うような競争の次元がある。
そして最後に価値。お金やモノといった表層的価値より深層に愛や思いやりという人間的の土台があり、この二つが合わさって人間の幸福に寄与するという話。
結局のところ、やはり仏教というのは多面的に物を見る宗教なのだなと思った。創造主というものはなく、風土や環境という、まずそこにあるものを契機に考えていくという意味で、多神教的な日本にやっぱり根本的にあっているんじゃないかな、と思った。
内容自体は難しくない。幾分理想論っぽいこともある。しかし、日本とチベットという文化的背景の全く異なる国の歴史や現状を踏まえつつ繰り広げられる対話は非常にスリリングなものだった。教義を深く理解し、信念を持って、しかし時には柔軟に実践していくこと。インプットとアウトプットのバランスということも自覚させられる良著だと思う。