あらすじ
情報化が急激に進む現在、はるか昔に書き遺されたものに価値はあるのか。それを読むことは、今の私たちにどんな意味があるのか。ニーチェ『この人を見よ』の読解を通して展開される、古典を読む態度をめぐる解釈学的議論は、自己と他者をめぐる実存的な議論へと発展してゆく。情報には還元されない、古典を読むことの意味と可能性を探る。
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Posted by ブクログ
現代日本の政治思想史研究者である小野紀明教授(1949-)が古典読解の意義を他者理解という実存の問題と接続して論じたもの。2010年。
□ 地平
現在の読者が、時間的にも空間的にも隔たりがあるテクストを完全に理解することは可能か。解釈学は、人間がテクストを客観的、普遍的、中立的、超越的に解釈することができる地点(「アルキメデスの点」)に立つ可能性を、原理的に否定する。なぜなら、人間は身体によって時間的にも空間的にも特定の位置に拘束されている存在なのであり(「存在被拘束性」)、人間が認識できるのはそのように身体によって制約された地点から見渡せる領域の内部(「地平」)に限定されるからである。ここで、地平とは、自分が常に既に巻き込まれてしまっている状況のことであり、それに対して客観的な距離を置いて対象化することができず、それゆえ合理的な思考の対象として取りあげることが不可能なものである、ということに注意を要する。
なお、プラトン以来の西洋哲学は、こうした存在被拘束性をもたらす身体を否定し、普遍的な真理の認識を可能にする理性こそが人間の本質であるとして、理性/感性、精神/肉体、観想/実践、存在/生成、永遠/時間、同一性/差異、一/多、秩序/混沌、静/動、普遍/特殊、概念/個物、本質/現象、必然/偶然、自/他、内/外、真/偽などの二項対立、および後者に対する前者の優位という位階秩序、という図式に基づく形而上学を構築してきたが、それが恣意的なイデオロギーに過ぎないことを暴露したのがニーチェであった。
以下、メモやコメント。地平が合理的な思考の対象とはならないものであるならば、なぜそのような不可知なものである地平に対して、「地平は合理的には不可知である」と述べることができるのか。不可知のものに関する主張の真偽をいかにして判断することができるのか。これは前理性的なものとされる概念一般に当てはまることだが、こうした概念を提示しそれに関して議論を組み立てるというのは、自己矛盾に陥っているのではないか。
□ 解釈学的循環
人間が一切の制約なく物事の全体を見渡すことは不可能であるという事態から、「解釈学的循環」というテクスト読解における困難が惹き起こされる。
①単語と文とのあいだに起こる循環について。文の意味はその文を構成している個々の単語の意味に依存するが、当の単語の意味は、その単語によって構成されている文が置かれている文章全体の文脈がその単語の意味に課す制約に、依存する。これは部分と全体との循環であるといえる。全体(文が置かれている文脈としての地平)が部分(単語の意味)に乗り入れている。この循環の要因は、全体の文脈に依存しないそれ自体として独立した普遍的な単語の意味なるものは存在しない、という点にある。単語の意味は文脈に対して閉じていない。
②過去のテクストとそれを読解しようとする現在の読者とのあいだに起こる循環について。現在の読者による読解は過去のテクストの内容に依存するが、当のテクストの内容は、それを読解しようとする現在の読者が置かれている地平がそのテクストの読解の可能性に課す制約に、依存する。これは主観と客観との循環であるといえる。主観(現在の読者が置かれている地平)が客観(過去のテクストの内容)に乗り入れている。この循環の要因は、読者が置かれている地平に依存しないそれ自体として独立した普遍的なテクスト読解なるものは存在しない、という点にある。テクストは読者に対して閉じていない。さらに言えば、テクストの側にもそれが置かれている地平(そのテクストが、特定の地平によって制約されている著者によって書かれたものである、という事態からくる限界)によるテクスト自身への制約があるのであり、テクストをただそれ自体として独立した普遍的で透明な読解対象とすることは不可能である。つまり、テクストは、読者の側からも著者の側からもバイアスがかけられ、その透明性が損なわれている。
③過去のテクストの著者とそのテクストを通して著者を理解しようとする現在の読者とのあいだに起こる循環について。現在の読者による理解は過去の著者が何者であるかに依存するが、当の著者が何者であるかは、それを理解しようとする現在の読者が置かれている地平がその著者の理解の可能性に課す制約に、依存する。②と同様に、これも主観と客観との循環であるといえる。主観(現在の読者が置かれている地平)が客観(過去の著者が何者か)に乗り入れている。この循環の要因は、読者が置かれている地平に依存しないそれ自体として独立した普遍的な著者理解なるものは存在しない、という点にある。著者は読者に対して閉じていない。さらに言えば、著者の側にも彼らが置かれている地平による彼ら自身への制約があるのであり、著者をただそれ自体として独立した普遍的な理解対象とすることは不可能である。つまり、著者は、読者の側からも著者自身の側からもバイアスがかけられ、その透明性が損なわれている。
□ テクスト読解から他者理解へ
読者と時間的にも空間的にも隔たりがあるテクストを読解することの困難は、自己と異なる地平を生きる他者を理解することの困難と同型である。こうして、解釈学の問題(テクスト読解)は実存の問題(他者理解)へと接続されていく。それは則ち、自己は自分が置かれている地平を通してのみ他者を理解することができるのであって、他者をそれ自体として理解することは不可能である、という問題である。この他者理解の問題に対して、哲学はどのように応じてきたか。
①「根源的な主客未分離の層」への遡行(ディルタイ)。ヘーゲルが歴史を論理的、理性的なものの自己展開であると考えたのに対し、ディルタイは歴史を人間の非合理的な生の運動であると考えた(「精神史」)。精神史における人間の生とは、前理性的な主客未分離の層における意識と世界との相互交渉のことである。そして、ディルタイにとっての他者理解とは、前理性的という意味で根源的な主客未分離の層に遡行し、その時代の人間の生の在りようを捉え、そこにおいて自他の共同性の基盤を見出すことである。では、人間の生はいかにして捉えることができるのか。手掛りとなるのは、その時代の生が刻印された芸術や文学などの文化的所産(「表現」)である。そこから人間をしてそのような作品を産み出さしめたその時代の非合理的な「気分」や「雰囲気」が見出され、ついにはその時代を生きる個々の人間の「実存」が解明されるにいたる。
なお、ディルタイによると、前理性的な主客未分離の層における「気分」が概念化されることで主観的な「状態感情」となり、それが特定の対象に触発されて抱く「対象感情」として具現化し、そうした感情が言語、芸術、科学、政治として体系化することで、ついにはその時代の「世界観」が構築されるにいたる。
以下、メモやコメント。第一。非合理的なもの、前理性的なものとされる概念に対する批判は既に述べた通り。
第二。「汝における我の再発見」というディルタイの言葉にもあるように、そこに見出されるのはもはや全き他者ではなく、自己と共約可能な部分にのみ焦点を合わせた、自己にとって理解可能な限りでの他者であり、他者に投影した自己の再確認に過ぎないのではないか。これでは他者の他者性が捉えられたことにはならない。
第三。人間は他者と言語を媒介にしてコミュニケーションをとる以上、前理性的であることは不可能である。そもそも前理性的な主客未分離の層という概念自体が、透明な自他関係という形而上学的な「始原」への郷愁(あるいは欲望)から無根拠に持ち込まれたものであろうし、とするならばそれは他者理解の実現を導くための論点先取を犯しているのではないか。
②「異なる地平」の融合(ガーダマー、小野)。異なる地平に置かれている者同士は、自分が置かれている地平を通して見出される限りにおいて相手を理解することができるに過ぎないのであって、相手を完全に理解し合うことは不可能である。ではどうするか。他者を完全に理解することの不可能性を痛切に受け止めながら、にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ、他者理解という到達不可能な無限遠の理念に向かって、他者と不断に対話を重ね、対話を通して各々が置かれている地平の差異を可能な限り明らかにし、それによって他者の他者性を可能な限り承認しながら、と同時に、両者がともに拠って立つことのできる新たな共通の地平を創出し、自己と他者との平和的な関係の基盤となる意味秩序としての共同性を構築し続けるしかない(「地平の融合」)。ガーダマーは、地平の融合を通して、異質な他者に開かれた共同性を確保しようとした。この共同性は、合理的な秩序の前提となるものであって、自己と他者とが相対した瞬間から、前理性的な主客未分離の層において常に既に構築されつつあるものである。
小野は、こうした前理性的な層においてなされる、他者性の承認と共同性の構築という互いに逆向きのベクトルを内包した、自他相互の不断の営みこそが、「政治的なるもの」の本質である、とする。そしてここに、古典を読むことの意義を見出す。というのも、古典を読むとは、現在の読者が自分とは時間的にも空間的にも異なる地平に置かれた古典の著者と対話をすることであり、対話を通して自他の地平が融合されていく過程は、まさに「政治」の営みと同型であるから。
以下、メモやコメント。第一。非合理的なもの、前理性的なものとされる概念に対する批判は既に述べた通り。
第二。地平という概念は、自己と他者とを隔絶させるものであると同時に、自己と他者との共同性の基盤ともなり得るという点で、互いに逆向きの可能性が同時に内包されており、面白い。
第三。地平の融合は、あらゆる点で共約不可能な全き他者とのあいだにおいては、実現が不可能なのではないか。逆に言えば、地平の融合が可能となるのは、両者のあいだにそこまで法外な隔たりがなく、そこそこに共通項がある場合に限られるのではないか。とするならば、それはやはり、予め似た者同士であることがわかっている両者が、相手を通して互いに自己を再確認しているだけ、ということになるのではないのか。
第四。そもそも、あらゆる点で共約不可能な全き他者というものは、他者として認められることすら不可能なのではないか。他者とは、それが他者として認められている時点で、そこそこ自己と似たような存在、自分のものとは異なるとは言え自分と同等の地平なるものに制約されているという点で自分と同型の存在、なのではないか。とするならば、他者の他者性とは何か。全き他者の他者性とは何か。
第五。地平の融合という概念は、そこに共同性の可能性が賭けられているにもかかわらず、それを極限まで駆動させてしまうことで、ついには来たるべき共同性を実現不可能にしてしまうような、そういう可能性を内包していないだろうか。そもそも、共同性の構築という着地点ありきの議論(「善き意志」)は、他者の差異の多様性を予め過小に見積もってしまっているのではないか。個人は、多様な他者との言語を媒介にした対話を通して、瞬間ごとに無数のミクロな地平の融合を体験しているのであって、個人の地平は決して固定されておらず常に流動している。こうして個人の地平は、他者の無限の多様性ゆえに、あらゆる変容の可能性に開かれることになるのであり、このとき自己と他者とを一定の持続性をもったひとつの共同性で括ることは不可能となる。本書ではマッキンタイア『美徳なき時代』で論じられた事例(13世紀のトマス・アクィナスの思想は、それまでの伝統的なキリスト教のものの見方とイスラム世界から流入したアリストテレス哲学との融合を通して、形成された、とするもの)が地平の融合の例として挙げられているが、固定されたふたつのマクロな地平の融合という想定は、説明としてはわかりやすいが、大雑把で図式的過ぎるのではないか。
第六。例えば、20世紀の論理実証主義者がアリストテレスやハイデガーのテクストを論理分析ないし言語分析してそこに形式論理上の矛盾を発見したことをもって彼らの思想を無意味であると切り捨てるような態度は、ガーダマーの立場からすると、他者理解を目指す対話からは最もかけ離れたものであるということになるだろう。
□ 他者理解から「存在の問い」へ
③「両義的な他者」との戯れ(ハイデガー)。ディルタイやガーダマーが前理性的な層における他者との共同性の構築を目指しているのに対して、ハイデガーは、自他が互いにその全体性を現前し合う可能性を、どこかに形而上学的な境位を設定してそこに帰着させるのではなく、その不可能性のうちにとどまり続けることを選択する。
人間は、世界全体を客観的、普遍的、中立的、超越的に見渡すことができる世界の外部(「アルキメデスの点」)に立つことができず、有限の身体を備えた存在者として世界の内部に投げ出されており(「世界=内=存在」)、時間的にも空間的にも特定の位置に拘束されながら(「現存在 Dasein」)、その特定の地平から世界を部分的に捉えることしかできない。世界の内部で個々の地平を通してその都度見出される何かは、「〇〇として」という形式でもって、言語によって規定され意味を付与される「存在者」であるが、それはあくまでその現存在が拠って立つ地平に依存している部分的なものである。それに対して、全体としての「存在者」である「存在」は、世界の外部においてのみ可能なものであり、世界の内部において言語によって有意味なものとして捕捉することができない。則ち、世界の外部にある全体としての「存在」は、個々の地平を通してその都度「〇〇として」という形式をもって、部分的な「存在者」として世界の内部に立ち現れるしかない。よって、「存在」(全体)を「存在者」(部分)によって完全に捕捉することはできない。と同時に、「存在」は「存在者」を超越した形而上学的な実体であるわけでもない(「イデア」「神」などの形而上学的な概念もまた、それが言語によって規定される概念である以上、「存在者」であることに注意せよ)。「存在」は、無限に多様な地平を通してその都度立ち現れる無限に多様な「存在者」の像のモザイクなのであり、常に「(或る地平においては)〇〇であり、かつ、(別の地平においては)〇〇でない」という「両義性」のうちにある。ここで「両義性」とは、「〇〇/非〇〇」との間に優劣の位階秩序がない、ということでもある。このように「存在/存在者」を区別する「存在論的差異」の導入が、ハイデガーの存在論の要諦となる。ハイデガーは、従来の西洋哲学が「存在者」を「存在」そのものと見誤ることで、「存在」そのものを忘却してきたと批判する(「存在忘却」)。「存在者」を「存在者」たらしめる「存在」とは何かを問うこと、ただし決して「存在」を「存在者」へ帰着させることなく。これがハイデガーの存在論が目指すものである。
他者理解の困難は、ハイデガーの存在論における「存在」への到達不可能性と同型である。部分的な「存在者」(断片化された他者)を全体としての「存在」そのもの(他者の全体性)と見誤らないこと。「存在者」を「存在者」たらしめている「存在」を忘却しないこと。この倫理的要請が、他者理解に対するハイデガーの態度である、と取り敢えずはいえるだろうか。
さらに、ハイデガーの存在論においては、他者だけでなく現存在も両義性のうちにある。しかし、現存在の両義性は、他の「存在者」にはない独特な在り方をしている。ハイデガーによると、現存在は、世界の内部に投げ出されていると同時に、世界の外部へと開かれている(「開示性」)。現存在は、世界の内部においては他者との関係の網の目のうちに規定される「非本来的」な「共同存在」「Das Mann」としてあり、と同時に世界の外部においては「本来的」な「単独者」「Selbst」としてある。現存在は「単独者/共同存在」の両義性のうちにある。「単独者」としての現存在は「私は(偶然的に今は)或る存在者としての存在である」として自らを捉え(「自同性」)、「共同存在」としての現存在は「私は(必然的に常に)或る存在者である」として自らを捉える(「同一性」)。前者は「存在」の境位において自らを捉え、後者は「存在者」の境位において自らを捉える。ハイデガーはこの両者の境位を「存在論的(ontologisch)/存在者的(ontisch)」として区別する。このように現存在は、世界内に投げ出されていると同時に(存在者的)、世界から超越している(存在論的)、という両義性のうちにある(「被投的投企」)。先に述べた、「存在者」を「存在」と見誤らないこと、則ち「存在」を忘却しないことというのは、「存在論的(ontologisch)」という境位を忘却しないということ、と言い換えることができる。
ここで、「単独者」としての現存在のこの「存在論的」という特異な在り方は、また同時に「超越論的」であるといえるだろうか。世界を「超越」している「存在」を問題にしようとする、という意味で。