あらすじ
神を畏れ敬うことこの上なく深く、道徳的にも信仰に於ても非の打ち所のない暮しを続けて来たヨブに神は次々と苛酷な試練を下した。罪なくして受けねばならないこの重荷の意味を問うてヨブは苦悩する。神の義に人間の義を対決させ問いつめる本書は、旧約の中でも際立った特色を持ち、文学、哲学等に与えた影響も特に強い。
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Posted by ブクログ
ヨブ記の日本語訳は種々ありますが、私はこの訳が好きです。他の訳と比較するとずいぶん趣が違うところもあり、どちらがより正確かなどは素人にはわかりませんが、文学として心に沁みる表現が多々ありました。
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私は信仰をもたないので、文学作品として読んだ。ヨブが次第に苦難を受け入れ、神に反抗していく姿勢が現れ出す。
「わが論敵の書いた訴状、
わたしはそれをわが肩に背負い
冠としてわがかしらにむすび
わが歩みの数を彼に語り
君侯たる者のように彼に近づこう。」
このヨブの、自分の苦しみが纏わり付きながら、苦しみを自分の体にむしろ纏わり付かせながら、神に向かって進んでいく姿。
これと、以前読んだシモーヌヴェイユの本で描写されていた、救いをもとめて魂の暗夜をもがきながら進む姿とが、重なった。
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岩波文庫から出ている日本語訳(所謂「関根訳」)旧約聖書の『ヨブ記』。ビブリア・ヘブライカ(1937年版)を底本としており、詳細な注釈を施している他、一部文意が通るように節を入れ替えたりしている。
本書は「義人の苦難」、あるいは神義論をテーマにした旧約聖書中でも重要な書物である。「人は理由なしに神を畏れることができるか」という神と敵対者の賭けの中で、神はその証明として「全くかつ直ぐ」な義人ヨブに苦難を与える。常に神に従い、それ故に神の恵みを受けてきたヨブは、この唐突で理不尽な災いの前に苦悩し嘆くことしかできない。因果応報の立場から彼を悪人と断罪する彼の友人たちとの討論の中で、ヨブは(己の限界を認めながらも)自己の義を力強く主張、遂に自らの義と神の義を対決させるに至るーー。
このスリリングな内容は古代の高度な信仰論を如実に示している。何故「全き義人」たる自分が災いを受けねばならないのか? 神は善悪それぞれに相応の報いを与えるものではないのか? 己の不幸の理由を問うヨブに対し、神は逆に問いを発し自らの創造の業を語るのみで答えようとしない。だがこの意味深な神の言葉には、因果応報を超克した信仰の姿が描かれている。人が神を崇めるのは結局は自己の幸福追求のためではないのか? 人は見返りによってではなく「神ゆえに」神を信じることができるのか? 自己中心から神中心への信仰という考えは、(必ずしも腑に落ちるものではないが、だからこそそれ故に)自分にとって衝撃的に感じられた。
本書の注釈は単語を解説するとともに、(訳者の)解釈を詳細に論じている。全体として非常に分かりやすいので、初めて『ヨブ記』に触れるにはお勧めの一冊といえるだろう。
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YHVHさんがヨブを許したんじゃなくて
ヨブがYHVHさんを許したんだと思います。
きっと正面から文句を言ってくる人がいてくれて、
YHVHさんもうれしかったと思うのです。
でなかったらどうして、ヨブだけがYHVHさんにあんなにごほうびをもらえたんでしょうか。
YHVHさんは神棚にすえられておがまれるだけなのがさびしくて、
人とかかわりたかったんじゃないかと思うのです。
それがものすごく不器用なやり方で、人を殺すようなやり方しかできなかったとしてもです。
昔の人がYHVHさんをおがまないといけなかったとしたら、
それはYHVHさんが偉大かつ全能だからではなくて、
私たちと同じくらいにアホでまぬけで不器用で乱暴でさびしがりやだからじゃないかと思うのです。
世界の神様が人類に自分の全能性を強要したがる姿は、
私には子供がおかあさんにほめてもらいたがっている姿に見えるのです。
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作者不詳。紀元前5世紀から紀元前3世紀頃のパレスチナに於いて成立したとみられる。
神への信仰篤く、その善に従って生きてきたヨブに、神は次々と過酷な試練を与え、ヨブは「神が在りながらなぜこのような災厄に見舞われるのか」と生の意味を喪失してしまう。しかしここには、信仰に於ける実利主義・応報思想・「幸福の神義論」(ヴェーバー)、則ち人間中心主義――人間は、神の神たるゆえに神を信仰するのではなく、所詮は自己の利益の為に信仰するのだ、という構え――が大前提として横たわっていると云える。そもそも、神をしてヨブに理不尽な苦難を与えるように仕向けた敵対者(サタン)に次のように云わせることで、作者は信仰とその"根拠"の問題、そこにある人間の傲慢(ヒュブリス hybris)を本書の主題としている。
「ヨブといえども理由なしに神を畏れたりするものですか」
こうして『ヨブ記』に於いて神義論・弁神論(世界に悪や苦難が存在することと神の全能性・絶対的善性とのあいだにある矛盾を整合的に捉えようとする議論、世界が悪と苦難に満ちていながらなお神を信仰するのかという議論)に対する一つの答えが示される。
不条理であるにもかかわらず、不条理であるがゆえにこそ、信仰する。この点にこそ、信仰というものの独自の機制があると云える。神の絶対的超越性ゆえに、信仰を哲学的に基礎づけようとすることを根本的な錯誤と見做して「不合理ゆえにわれ信ず」と云ったテルトゥリアヌス(2世紀のキリスト教神学者)の思想に通じるものがある。
神は人間を超絶した存在であり、人間如きの理性では神の義を解することはできない。これは、一方では、神という絶対者への人間の絶対的屈服・隷属を意味する。しかし他方で、理性を超越した存在への信仰は、人間理性それ自体からの自由、人間の自由性の証しに通じるのではないか。なんとなれば、人間は人間理性そのものを自らの意思で放棄するほどの自由性の内にあるということなのだから。人間は人間自身から自由である。則ち、人間は自己否定が可能なのだ。『ヨブ記』自体がそれを証しているのではないか。それが遂には、自身が信仰している当の絶対者たる神をも人間自ら否定する"自由のニヒリズム"へと到るのではないか。ヨブの最後の科白は以下のとおりである。
「それ故私は自分を否定し/塵灰の中で悔改めます」
そうした人間の、あらゆる概念的規定を超越しうる可能的否定的存在としての「実存」という在りようを、『ヨブ記』は逆説的に予見しているかのようだ。旧約聖書は、予め自らの内に、未来のヴォルテールを・実存主義的無神論を、胚胎していたと云えないか。
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それでも神を信じるのか。信仰というものの究極の問いの一つである。いわれなき理不尽、不遇、不幸。それらに見舞われながらも信仰を続けることができるのか。
心に絶対的なものをもつとはどういうことか。
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救わない神様の話。
ヨブが信仰を試される話だが、思考実験的な趣がある。
シーンは神様と悪魔的なのが話してるところから。
神「やーヨブ君はなかなかの信心者だよ」
悪魔的「いいえ、彼は恵まれてるからですよ。災難に遭えば、神を呪いもするでしょうよ」
神「ほー、そういうならやってみなよ」
ヨブ君、かわいそう。
大量の家畜は別の部族に奪われたり
火事で燃えてしまい、
使用人も同じく殺される。
また、大嵐によって家は潰れて子供たちはほとんど死んでしまう。
さらに本人も病気にさせられる。
ここに至ってもヨブは神に恨み言を言うことはなかった。
ただ、友達が来てくれるんだけど、こいつらがまたひどい。
おおむね
「君がこんなにひどい目に遭うのはなんかやましい事があるはずだ。」
みたいなノリで割と血も涙もない。
そいつらと討論するパートがあって、
それが終わると後半は神との対話パート。
よくもまぁぬけぬけと出てくるもんです。
最終的に神様は名誉と財産の回復をしてくれますが、
それならなおさら、あの最初の
飲んだ勢いの賭け事みたいな仕打ちの理不尽さが際立ちます。
ただ、ここにある傾向のいくつかは文化の基底にあるものとして興味深い。
・財産のうちに子孫が含まれるという発想。
・真実を話すということへの高い価値。
・絶望的な状況へ転落するイメージの近さ。社会の不安定さ。
特に真実や善についての観念は
全面的に主題化されていることもあって注意を引く。
神と話す時でさえ正しく話す為なら堂々とすべきなのだ。
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ツラかった…!どんな苦行!?
「声に出して読みたい日本語」じゃなくて「声に出さないと意味の取れない日本語」。
以下なんの予備知識ナシで、ナイ頭最大限使って読んだ感想。
ヨブ…可哀そうヨブ。
てか友達!友達…!?なんだよね君たち?皆ヒドくね!?
加虐心と優越感が見え隠れして、イヤ。
ヨブの悪、ヨブの咎とは何だったの?
ヨブはどうしたらよかったの?
黙って耐えて死ねばよかったの?
私から見たら当然の、ヨブの血を吐くような神への問いかけに、神がどう答えるのか、楽しみに読み進めたのですが。
…ごめんなさい、分かんない。
ねえ、なんであれでヨブは納得できるかな?
神の為に神を信じられるか…。
もう、ダメ、本当分かんない。
ただひとつ分かったコトは、私は絶対にクリスチャンにはなれない、ってことです。
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私がキリスト教徒ではないからだろうが、とにかく憤ることが多かった。
応報思想は様々な宗教で見られる考え方だが、これはとくにひどいのではないか。
「神を信じない(もしくは行いが悪い)から、ひどい目にあう」というのは、「暴力に屈せよ」ということに限りなく近いと思える。
これ読んでキリスト教にを信仰する気持ちは到底理解できない。
Posted by ブクログ
全き者ヨブさんの信仰の話。
信仰とはなにか、
信仰すると言う事はどういうことなのか、
という話か?
注と照らし合わせて読んだので
随分時間が掛かった。。。
聖書になじみがないので
言葉や表現の意図するところがわからなかったり、
注はあるのだけれど
その注が本文自体より難しい。
しかし訳書である限り
どこか限界があると思うし、
またこのような古書、文体、表現方法では
たとえ原文で読めたとしても
解釈がわかれるのは仕方ないかもしれない。
そう考えればあまり難しい事に
気をとらわれず素直に読み進めても
良いのかも。。。と思った。
他の出版社のも読んでみたいと思う。
追記
随分前に読んだ作品
ヨブ記を読むきっかけは
重松 清さんの「疾走」を読んだから
何故そう思ったのか?
思い出せない
「疾走」は2度と読みたくないので今後もわからない