【感想・ネタバレ】ゴーマニズム宣言 2nd Season 第2巻のレビュー

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2022年08月28日

レビュー済みの商品 · 2020年9月28日

ゴーマニズム宣言2nd season 2
2019年4月10日初版第1刷発行。
小林よしのり氏による著作。

週刊SPAに2018年9月18・25号~2019年2月26日号 
他の読み切りや週刊エコノミストに連載した作品を収録している。

小林よしのり...続きを読む氏は1998年発売した戦争論で知った。
当時大きな影響を受けた。
過去作のゴーマニズム宣言も読み漁ったし、2001年の戦争論2、その後の戦争論3、雑誌わしズムも1年ほどよく読んでいた。
わしズムで橘玲氏を知る事になり、私のお金の対する思想に大きな影響を与えた。
言ってしまえば小林よしのり氏の作品との出会いは私の人生を変えたと思う。
今でも言論の最先端を行っている。
南京虐殺事件など秦郁彦氏の著作「南京事件」の方が正しいと思うなどについては小林よしのり氏の間違いだとは思っている。
しかし大切な事は、正確に間違うよりも漠然と正しくあれ!である
言論空間において100%いつも間違えない存在などいない。
小林よしのり氏の強み、表現力は今大きくネトウヨ化している日本だからこそ必要だと思う。
高齢になってきているが、むしろ10年前20年前よりも作品を作る質量ともにあがっている。

印象の残った点をあげていくと

わしは戦争論で戦前の祖父達は凄かったと描いたが、
戦後の日本人を凄いとは描いていない。
むしろ米国の属国民となって、堕落したと描いている。
そこをネトウヨは全然、読解できなかった。

戦争論は自虐史観を吹っ飛ばして、言論空間を変えた。
わしはそれを正しいことだったと思っている。
例えネトウヨが増えて、言論空間が右に寄り過ぎたとしても「日本悪玉史観」よりは健康的だ。
自分の国を自分で守る覚悟もない甘えた属国民が戦前の若者たちを侮辱する資格など、絶対にない!

ルソーはこう言う。
市民が社会契約によって国家をつくる場合、
統治者が市民に向かって、「お前の死ぬことが国家に役立つのだ」
というとき、市民は死なねばならぬ。
なぜなら、この条件によってのみ、彼は今日まで安全に
生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの賜物なのだから。

大日本帝国憲法は天皇主権の憲法
(伊藤博文の憲法義解を読むとわかる)

しかし大日本帝国憲法をそのまま運用すると天皇の失政がただちに国家の失敗になり、天皇がその責任と取らなければならなくなるのだ。
だから実際には誰かが政治を代行してその責任を取り、天皇は政治からは超然とした存在とするしかない。
そして、そうするには「解釈改憲」をするしかない。
大日本帝国憲法は最初から解釈改憲しないと運用できない欠陥憲法だった。
実はその「欠陥」には、伊藤博文の狙いがあった。
伊藤が望んだのは薩長藩閥による権力独占体制の維持である。
だが当時は、まだ「藩閥は徳川幕府から権力を簒奪した」という非難が根強く、それを避けるため、建前として天皇に権力を集中させる「天皇親政」の憲法を作った。
そして、実際の運用では解釈改憲をして、権力を藩閥政府が独占できるようにしたのだ。
憲法で議会の力を非常に弱く抑えるようにしたのも、藩閥政府を脅かす存在となる政党政治を排除するためだった。
ところがその後、伊藤が予想していなかった解釈改憲が行われた。
それが、美濃部達吉の「天皇機関説」だ。
本来、大日本帝国憲法は政党政治を排除するように作られていたのにこれが一言一句、変えられないまま、美濃部の超絶的な「解釈改憲」によって政党内閣まで実現するようになった。
そしてそれが大正デモクラシーによって「憲政の常道」とまで呼ばれるようになったのだ。

本来、とっくに「憲法改正」しなければいけなかったのにアクロバチックな「解釈改憲」で乗り切っていく。
これって日本人の特質かもしれない。
だが一方で、憲法は条文通りに運用すべきで、解釈改憲を許すなと主張する人たちがいた。
今の言葉でいえば「護憲派」である。
帝国憲法を条文通りに運用すれば「天皇親政」になるわけで、この時に護憲を唱えていたのは天皇親政を目指す右翼だった!

→蓑田胸喜、上杉慎吉、菊池武夫、荒木貞夫、真崎甚三郎

この歴史からの教訓は「解釈改憲は危ない」である。
憲法に欠陥があるのに、それを正さずに解釈改憲で済まして、だましだまし運用していたら、いつかは破綻が来るのだ。


新たな史料の発見や、新たな研究結果の発表により、それまで定説とされていた歴史が修正されるのはよくあることだ。
(鎌倉幕府の成立年が1192年→1185年)
全ての歴史は修正の対象となりうるのである。

左翼の批判で、あいつは歴史修正主義者だというのがあるが全く意味の無いレッテル貼りだ。

もちろん何の根拠もなく、恣意的に歴史を変えてはいけない。
そういうのは「修正」ではなく「捏造」もしくは「改ざん」という。

歴史の修正には史料批判による証明という根拠が必要
その史料は偽書ではないか?
誰が、いつ、どこで作成したものか?
記述者自身の見聞か?伝聞か?
もしくは他の史料からの引用・孫引きか?

最も価値が高い史料を「一次史料」といい、
これは当事者の日記、書簡や公文書など、リアルタイムに作成された史料のこと。
二次史料は、時間が経過した後の当事者による証言、回想など。
三次史料は、一次史料・二次史料を基に作成されたもの。
四次史料は、作成者・作成時が特定されないもの。
五次史料は、作成目的が不明なもの。

四次・五次となるともう史料価値はない。
しかも、たとえ一次史料でも記述者の記憶違いや嘘が混じっている可能性があるから、内容に矛盾などがないか、慎重に吟味になければならない。
そして史料批判に耐えうる、信頼できる史料によって新事実が証明されれば、歴史は修正されるのだ。

歴史の記述には史料批判が不可欠である。
このことをわし(小林よしのり)は東京大学名誉教授の伊藤隆氏から学んだ。

時代のせい、貧困のせいを「日本軍のせい」にするのは誤っている。
そもそも実際には、日本人の慰安婦が一番多かったのに、なぜみんなそれを無視しているのか?
わしは、あったことをなかったと言うつもりはない。
731部隊は人体実験をやっただろうし、関東大震災の際の朝鮮人虐殺もあっただろう。
ただ誤りは修正しなければならない。
歴史の修正と歴史の改ざんは違う。
あらゆる歴史は修正の対象となりうる。
ところが、わしを「歴史修正主義」と非難する極左連中は東京裁判、南京大虐殺、慰安婦などいわゆる「自虐史観」を形成するものに関しては決して修正の対象にしてはいけないと主張しているのだ。
自虐史観だけ永遠に評価が変わることはなく、絶対に修正されてはならないと信じ込んでいるのだ。
これは歴史に対する態度として完全に狂っている。
極左が語っているのは歴史ではなく、イデオロギーであり、信仰である。1970年代以降、朝日新聞の中国の旅に始まるキャンペーンで
自虐史観は日本に定着させられていった。
その際に使われた「日本軍の罪悪」の史料は、ほとんどが何の裏付けもない中国人の証言であり、とても史料批判に耐えられるものではなかった。


わしは自分が保守だと思っています。
リベラルとは違って、人権は自然権だとは考えていない。
人権は国家がなければ守れないと思っているから国家を重視します。
(2018年10月2日朝日新聞のインタビュー)

国家がない地域は無秩序状態であり、それは独裁国家よりも恐ろしい。
万人の万人に対する闘争の惨状になる。
→シリア、イスラム国、

日本でも国家の秩序が崩壊したら暴力団の天下になってしまうだろう。

もちろん中国やロシアや北朝鮮のような独裁国家は無秩序よりマシだが、守られる人権の幅は狭い。
権力に逆らったら、拘束されたり、毒殺されたり、銃殺刑になる。

国家ですら、経済が悪化したり、恐慌になったりすれば、人権を守ることなどできなくなる。
究極的には、社会は弱肉強食だと覚悟しておかねばならないのだ。


フランスやアメリカなど共和制(近代民主主義)が発祥し、発達した国では危険地帯で取材するジャーナリストは、命がけで民主主義を守る特別な存在として兵士と同様に敬意を払われる。

2004年イラク戦争の最中に3人の日本人が武装勢力の人質になって開放されたことがあった。
その時も日本では「自己責任」のバッシングが吹き荒れた。
その様子を見て、コリン・パウエル米国国務長官(当時)は言った。
→もし誰もリスクを引き受けようとしなかったら、私達は前に進むことができなくなる。私達は「あなたはリスクを冒した、あなたのせいだ」とは言えない。彼らを安全に取り戻すためにできる、あらゆることをする義務がある。
パウエルの言葉を知った時、わしは恥ずかしいと思った。
人質解放でバッシングが起こる国は日本と韓国だけである。
共に「ムラの掟」の方が、民主主義のルールより強い国だからだ。


そもそも戦場ジャーナリストは戦場に行った時しかドーパミンが出ない人たちである。
同じ所にじっとしていられない、旅をしたい欲求を抑えられないという「冒険遺伝子」を持つ人は全人口の20%と推計されているそうだが、その中にはより危険な場所、より非日常な空間に行かなければ気が済まないという人がいる。
それが探検家や登山家だったり、戦場ジャーナリストだったりするのだ。
冒険遺伝子を持たない人から見れば、なんでわざわざ無謀なことをするのか理解できないし、遭難したら税金使って捜索しなければならなくなり、迷惑だと思うだろうが、仕方がないのだ。

かつて渡部陽一氏が、まだ有名ではなかった頃、わしは自分のポケットマネーから軍資金を出して中東やアフリカやチベットに行ってくれと頼んでいた。
彼が撮った写真と記事は「わしズム」という雑誌に載せていた。

わしは渡部氏にチベット潜入も頼んだが、あまりの検閲の厳しさに断念せざるを得なかった。
だが、中国がチベットを完全に隔離して民族浄化を進めていることはわかった。

横田空域が無ければ羽田から大阪・伊丹まで30分で行けるのにこれを迂回するため1時間近くかかり、その分、燃料費もかさむ。
横田空域が無ければ羽田国際空港の発着は、年間約6万回が約9.9万回に増やせて経済波及効果は年間6503億円にも上るという。

ヨーロッパのバカンスは労働のない普通の生活をするためだけのものでほとんど消費をしない。
しかもフランスでも今や格差社会で4割を占める貧困層はバカンスなんてできない。

保守を自称する者たちがよく「天皇は神武天皇以来、一貫して男系」と言うが、これは完全におかしい。
歴史的に見れば天皇は女帝に始まっているし、神話・伝説から見ても神武天皇のルーツは女神で、女系なのである。
女帝が排除されたのは、明治以降のことに過ぎない。
日本を本来の姿に戻すためにも、皇室典範を改正し、女性が天皇になれるようにすべきなのである。

見も知らぬ「男系」の男を連れてきたところで、
その男に神話的カリスマ性を感じる国民はいない。

男子限定の継承ができたのは側室があったからで、側室廃止後は「たまたま」続いていただけである。
一夫一婦制で何世代も必ず男子を産み続けることは不可能なのだから!
必ず男子を産めというプレッシャーをかけられることを承知で悠仁さまに嫁ぐ女性が現れるとは、とても思えない。
これでは皇統断絶は避けられない。
天皇の天皇たるゆえんは神話からの連続性にある
男系男子(Y染色体)という遺伝子や神話を切り捨てた科学的合理主義の中に天皇のカリスマ性の根拠はない。

鼠径ヘルニア(そけいへるにあ)
かつては脱腸と言われた病気で、腸を収める腹の筋肉が破れて、皮膚や皮下脂肪の下で、腸が鼠径部に飛び出しているのだ。
幼児から老人まで罹る病気らしい。

もともとアイヌ民族という一つの民族がいたわけではなく、
北海道島には3大陸統7分派の古来民がいて、言葉も文化もそれぞれに異なっていた。あれは、ひとつひとつが別々の分離した部族集団なのである。

現在、一般的になっているアイヌ文化のイメージは昭和初期に北海道観光ブームが起きた時に作り上げられたもので、本来のアイヌの文化とも伝統とも全然違うという。

アイヌの言語学者、知里真保は平凡社の世界大百科辞典(1955年初版)の
「アイヌ」の項目でこう書いた。

今これらの人人は一口にアイヌの名で呼ばれているが、その大部分は日本人との混血によって本来の人種的特質を希薄にし、さらに明治以来の同化政策の効果もあって、急速に同化の一路をたどり、今やその固有の文化を失って、物心ともに一般の日本人と少しも変るところがない生活を営むまでにいたっている。
したがって、民族としてのアイヌはすでに滅ぼたといってよく、厳密にいうならば、彼らはもはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである。
アイヌ系日本人はいる。しかしアイヌ民族はいない。
1955年の時点で自身がアイヌ系である知里真保がそう証言していたのだ。
ところが、それから50年も経ってから、アイヌ団体などが抗議を始め平凡社は2007年記述を変更してしまった。


ごく限られた人物による密室の作業で、実質的に伊藤の意向が最優先された
「伊藤の憲法」だった。
この作成過程を見ても大日本帝国憲法も日本国憲法と同じく民意とは関係なく作られた「押し付け憲法」だったというしかない。

憲法は「権力に対する命令書」であり、権力を縛るための「道具」でありそれが機能していなければ、機能するように書きかえなければならない

憲法を聖書であるかのように思い込み、憲法9条のおかげで平和が保たれている
一字一句、変えてはならないなどと、本来の憲法のあり方からすれば、狂っているとしか思えないことを平気で言う

憲法は権力を縛るために民衆が作り、下から突きつけるものだ。
だが日本の憲法は、縛られるはずの権力が作り、上から民衆に押し付けた。
日本人は「押し付け憲法」しか経験したことがない。


学問は本さえあれば独学でやれる。
好奇心の強さと強い動機があれば肩書きがなくてもやれる。
わしは百姓であれ、漁師であれ、職人であれ「現場の教養」を持つ
プロフェッショナルが一番、すごいと思う。

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