【感想・ネタバレ】パイドン 魂の不死についてのレビュー

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とても読みやすかった。魂の不死を考えるとき、どう生きるかということも同時に考える。何度読んでも発見があると思われる。

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2021年08月28日

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プラトン3冊目。いよいよソクラテスの死刑当日。

ある日、横断歩道で信号を待っている時、今一歩踏み出しせば交通事故で一瞬で生から死の状態になるのだと不思議に思ったことがある。しかしこれは自殺行為であり、プラトンによると、我々人間は神の所有物(奴隷)であるため、勝手に死ぬこと(自殺)は裁きを受けることになる。

人々が信号を待っているのは死にたくないし、生きたいから。一般的に死は避けたいし、醜いものだ。

だからと言って、死をただ醜いものとして捉えてはいけない。死は快楽や欲望をもたらす肉体と魂の分離であり、魂そのものになることである。肉体と魂が一体である生ある期間に、汚れのない行いを積み重ねてきた哲学者は決してそれを恐れない。なぜなら哲学は死の練習だから。そして、魂は不死で不滅なものだから。
(ただ、その証明は何度も読まないと忘れてしまう...。)

ソクラテスの死の描写は、目の前でまさに事が行われているよう錯覚するほどの臨場感がある。
毅然とした態度で死に向かうソクラテスとそれを見守る友。毒を飲み干したソクラテスを見た友の「あの方の身を嘆いたのではありません。私自身の運命を嘆いたのです。」という言葉には、哲学に従って生きたソクラテスの本望が込められているように思えた。

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2020年02月16日

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議論はあちこちに行くがシンプルな本である。

死は生よりもよいものである。
ただし、自ら求めてはいけない。死が与えられるのを待たねばならない。
でなければ、現世の神への背信行為となってしまう。

では、いかにして待つのか。
死の準備である哲学によってである。
哲学とは、死すべきものである肉体から、魂を解放させる訓練をするものである。

その必然性は、魂が不滅であることから証明される。
「想起」は、魂がアプリオリな体験を経ていることを示しており、肉体に宿る前から魂が存在していたことを示す。肉体の調和によって魂が生じたという考え方は、このために不適切。
また、魂は単一不可分のものなので、肉体の死後に霧散することはない。
また、魂は生そのものであって、死とは相容れないので不滅。
つまり、肉体が与えられる前にも、肉体が滅んだ後にも、魂は在り続ける。

魂は、一時的に滞在している肉体の欲求に従うのではなく、肉体を従えるべきである。肉体をいかに従え、肉体とともにあるときにいかに魂を汚さずに済ましたか、ということによって、死後に魂が神々の仲間のところに辿り着くかどうか判定される。

哲学によって、不滅の魂を訓練する、というのが、人のやるべきことであって、魂を肉体に奉仕させることではない。

ものすごく大雑把に言うと、こんな感じか。

最後、ソクラテスの死に方はあっぱれである。
新約聖書のキリストの死の悲惨さはまったくない。
それは、グリューネヴァルドの「イーゼンハイム祭壇画」を連想させるものであるが、ソクラテスのそれはダヴィッドの描く「ソクラテスの死」のソクラテスのように理性的であった。
ここにダヴィッドの描くソクラテスが天を指差しているのは、ラファエロの描く「アテナイの学堂」にてプラトンがアリストテレスに対して天を指差しているのをアレゴリーしてるのか、面白い。

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2018年11月18日

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前半のイデア論にもとづく霊魂不滅の証明もおもしろいが、終盤の、ギリシア人が信じる死後の裁きとあの世の物語に関するソクラテス(プラトン)の向き合い方(p167)や、ソクラテスが毒薬を飲む前後のドラマチックな描写も印象的。プラトンはすごい。読み慣れてくるとクセになりそう。訳も読みやすくてよい。

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2018年04月24日

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本書はプラトンの代表作のひとつで、ソクラテスの刑死の日に、ソクラテスと弟子たちとの間で議論された「魂の不滅」について、その場にいた一人のパイドンが、その日のことについて尋ねてきたピタゴラス派の哲学者のエケクラテスに話をするという形式で進む対話篇です。

紀元前三九九年の春、ソクラテスは謂れのない罪で告発され、死刑を宣告されて牢獄に入れられました。それまでに詩を作ったことがなかったソクラテスですが、入獄後は作家のアイソポスの物語を詩に直したり、ギリシア神話の神であるアポロンへの賛歌を作ったりしていました。訳を知りたい弟子たちにソクラテスはその理由を話し、最後に彼は弟子に、ソフィストの一人への伝言をお願いしました、「できるだけ早く自分の後を追うように」と。弟子の一人はソクラテスが死を勧めることに大変驚きました。そして、その者は喜んでソクラテスの後は追わないだろうと答えたところから、議論が始まります。

ソクラテスは、死は勧めましたが、神の意志に背くということで自殺をしてはならないと説きます。それでは自殺ではないにしても、なぜ死を勧めるのでしょうか。ソクラテスは、死後、この世を支配する神々とは別の賢くて良い神々のもとに行くことと、この世の人々よりはより優れた死んだ人々のもとにも行くと信じていました。そして、哲学者は死後にはあの世で最大の善と智慧を得られるとも考えていました。死後にはすばらしいことが待っているから死を勧めていたのです。しかし、それには条件があり、魂が肉体の愛慾、欲望、恐怖などにまみれていない状態でないといけません。従って、生きているうちから、死んだ状態になること、魂を惑わす肉体から魂を分離すること、言い換えれば、生きたうちから死の練習をする、その重要性を説きました。

しかし弟子の一人は、人が死ぬと魂は消滅してしまうのではないかと考えました。そこで、魂の不滅を証明するために、ソクラテスは生成の循環的構造、想起説、魂とイデアの親近性、想起説と「魂は調和である」という説とは両立しないこと、そしてイデア論を挙げて話を進めていきました。

弟子たちは幾度か反論しながらも、最終的に魂の不滅について納得しましたが、事柄の大きさ、人間の弱さにより、なお語られた内容について不安を抱いていました。そこでソクラテスは、魂の不滅とイデア論は信じられるものであっても、より一層明晰にそれらを検討しなければならないと主張しました。

そして最後にソクラテスは、もしも魂が不死であるならば、生きている間だけでなく、未来永劫のために、魂の世話をしなければならず、また、これまでの議論に従って生きようとしないならば、今ここでどれほど多くのことを熱心に約束したところで、なんの役にも立たないということで、話をまとめられました。

弟子たちと議論を尽くしたソクラテスは、死ぬ間際になっても尚、魂の不死を信じていましたが、弟子たちは不安でした。論理的に答えを導きましたが、彼らはそれを裏付けるために自分で魂を見ることはおろか、今までに見たこともない訳で、目に見えない形而上学的な事象における結論を確信できる心境には至らなかったのでしょう。理性によって正しく答えを導き、かつそれを信じていく難しさが垣間見られます。

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2016年01月26日

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政治思想のレポートのために読破。思想系のものは難しそうというイメージがあったがとても面白く読みごたえがあり、視野が開けたかんじ。

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2015年02月10日

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池田さんが魂を考えるにあたって、いつも語っていたため。
ソクラテスが毒杯を仰ぐちょうどその日。彼は死にゆくことについて最後のことばを紡ぐ。
生と死。当たり前に人間に与えられた、紛うことない事実。そして、それを考えていけば、どうしたって「ある」「ない」という「存在」に辿り着いてしまう。果てのない堂々巡りのはてに辿り着く振りだし。「はじめにことばありき」
生と死なんて、どこまでいっても概念にすぎない。だが、なぜそれが今ここに存在してしまうのか。彼も述べているように、科学は何一つそれに答えない。堪えられない。ほんとうにこの数千年間、人はなんら変わっていない。なにが精神の進歩だ。
ずるいことにソクラテスはあえて魂について何も語らず、そして自ら幕を下ろした。鮮やかすぎるその最期。ほんとうに優れた役者だったとしか言いようがない。そこにやはり彼の魅力が横たわっている。

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2014年09月26日

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ソクラテス先生 最後の授業の巻。

ソクラテス四大福音書の一つらしい。
死後の魂についての議論だが、
話はこの世界の成り立ち全般に及ぶ。

「人間という存在は魂と肉体により成り立っている」
という古代ギリシア人の考えが前提条件になっているが、
科学の発達により当時より解明が進んだ現在となっては、
ミリンダ王の問い」でナーガセーナが主張した
「識別は縁によって生じ、霊魂は存在しない」
というインド人の考えの方がより現実に近いと思われるので、
この本の主題は、思想史としての価値しか無い。

だが、本の中でソクラテスが指摘している通り、
少数の悪人に騙されて人間全員が悪人だと思うように、
我々日本人は議論=水掛け論と思いがちなので、
逐一根拠を説明し、人格否定や権威主義に陥らない
ソクラテスの論法はまさしく言論のイデアであり、
良い例を見るためにも、本書を読む意義は大いに有る。

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2013年12月15日

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ソクラテスと論客の丁寧な対話は二千何百年の隔たりにもかかわらず新鮮に見えるものだなーと。
結論はさておき、死を目前にした状況でなお、愉快そうにかつ真摯に議論するソクラテスを見、その死の描写を見た後でも、何か余韻によって生きていて、何かを語っているかのような錯覚があった。

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2010年07月29日

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魂は不滅であり、死とは魂の肉体からの解放であるということを、これは一体何段論法なんだ?というぐらい理屈で証明していく、死刑直前のソクラテスを描いたもの。

真理に到達する、善く生きることができる人について、「純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体を追求しようと努力する人」とし、これは禅の初心に通じるものを感じた。

…というところまでは良かったのだが、「反対のものがある限りのものは、まさにその反対からしか生じえない」、したがって「生き返るということも、…死者たちの魂が存在するということも、本当にあることなのだ」辺りで、理屈をこねくり回して無理やり理論構築している気がして、付いていけなくなった。

想起説(生まれる前に知識を持っており、学ぶとは想起すること、であるから魂は不滅とする)もそうかなーと思ってしまう。

しかし、ソクラテスは2400年前の人であり、そんな人の発言に対して、そうかなーとマジメに思わせてしまうのだから、やはり名著なのだろう。

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2021年01月31日

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学生時代にソクラテスやプラトンを知ってから、ずっと読んでみたいとは思っていた。今、この年齢になって読んでみて、どういうふうに生きることが幸せなんだろうか、という基本的な問いにまた思いを馳せている。
「魂の不死」を信じる生き方。逆に「魂の滅」。ソクラテスはもちろん不死を信じて、従容として毒をあおり、旅立った。先日読んだ『「死」とは何か』の著者、シェリー・ケーガンは魂の滅の立場を取っている。人間を3次元世界の中の物質界から考察する限り、そういう立場は自然だと私も思う。が、「宇宙」存在そのものを思う時、到底、3時現世界だけでは把握出来ない世界なのがこの宇宙。その宇宙の中で生きているのが人間ということを思う時、4次元やそれ以上の次元の発想を持って「命」というものを見ていくということが逆に自然なことなのでは、と思っている。

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2019年11月27日

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ソクラテスがその死の直前に語ったとして展開される魂の不死・不滅についての議論。
彼の最期の場面に相応しく劇的な雰囲気で述べられるこの議論は、緊張感もあり議論も割とわかりやすいので、『プラトン』の中では読みやすい方なのではないだろうか。

ソクラテスがいよいよ毒をあおり刑死するその当日、皆が最後の別れにと参集する。数えてみると何とその数20人ばかり!。牢獄の中はさぞや熱気でむんむんしていたことだろう。(笑)
遺言を訊かれたソクラテスはそこで問題発言をする。同じ哲学者(?)であるエウエノスにも早く自分の後を追うようにと伝えよと。ここに、仰天し見事に喰いついてきたシミアス&ケベスとソクラテスとの対話が始まる。(今回も書名と対話相手とは不一致なのね・・・!?)
ソクラテスは述べる。死とは神的な魂と快楽を追求してきた肉体との分離であり、肉体は消滅するが、魂は純粋なものとして死者の国ハデスへと赴き、そして、再び別の肉体へ転生する、肉体と魂が一体の時は五感を通じてしか把握できなかったことも、魂だけになったならば純粋な思惟が可能となり、本当の真理と知恵を獲得することができる、真理を知りたいのなら魂だけになるこれこそが哲学者が本当に求める道であるだろう、と。
納得しないケベスは肉体と魂の分離はそうであったとしても、魂も一緒に消えてしまう可能性はないのかと反問する。ここでソクラテスは人間は学問をして新たに知識を得るのではなく、魂だけの時期に既にイデア(物事の真の姿)を見ているのであり、人間の時期の学習は単にそれを想起しているだけであり、そうであるがため魂は消滅していないと論証するのである。
ここで語られているのは想起説により導かれた有名なイデア論である。「徳」とは何かなどの問いに対し、真理へ辿りつけないのはイデアを忘れているからであり、肉体を通じて見ているものはイデアと似ているものに過ぎないという論であるが、解説によれば、『プラトン』の中で初めて明確に記されたのがこの『パイドン』とのことである。
そして、さらにシミアスとケベスは余命いくばくもないソクラテスを追及する。(笑)魂と肉体は調和して存在しているとしたら、やはり、肉体と分離された後、魂も消滅するのではないか?あるいは何度か輪廻転生している間に魂も衰弱して滅んでしまうことがあるのではないか?と。
ここでソクラテスはお家芸の詭弁気味な議論(笑)にて相手を黙らせてしまうのである。いわく、想起説が正しいので魂が肉体を支配しているとみなすべきで、決して調和ではない、イデア論が正しいので魂は決して死なないし滅びもしない、と。そして、肉体が滅んだ後の魂がどのような場所に行くかの神話を語って聞かせるのである・・・。

現代人からみると、ソクラテスの説明は証明しようとする結論を証明の前提にしていることが多くあり、議論としては詭弁としか思えないのだが(笑)、『プラトン』ではよくありがちなので、昔のギリシア人ってこういうので納得していたのかと思うとこれはこれで興味深い!(笑)また、この証明の過程でソクラテスが「自然学」(現在でいうところの「理系」か)に失望し、真実=イデアの探求→「哲学」を探求していることが述べられており、例えば、なぜ会話ができるのかという問いに対し、音声→空気の伝播→聴覚という説明が気に食わなかったようで、真の原因は別のところにあるとしていて、現代ならば新興宗教家と話しているような気分になったかもしれない。(笑)
また、自分には、イデアの近似の説明のところはいまだに「???」なのであるが、そういえば小学生の時に、1+1はなぜ2であるかの説明を聞いた時にこのような話をされたような気もしてきた。あれば数学の話ではなく哲学の話だったのね。(笑)
ソクラテスの死に際して述べられる「魂の不死」という議論がため(ということは死に行く者に対して魂は滅びるのでは?と議論を吹っ掛けていたことに・・・)、イデア論の登場も劇的であり、演出効果も抜群の一書であった。
ラストは、ソクラテスの最期の場面も生々しく描写される。

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2016年05月08日

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・死刑宣告を受けたソクラテスが、毒杯をあおるまさにその当日に二人の弟子と交わした最後の対話。「哲学者は死を恐れない。なぜなら哲学することは死ぬことの練習であるからだ」という印象的なテーゼをめぐって対話が進んでいく。

・人間は肉体と魂から成り立っているが、肉体は快楽を目指し、魂は真善美を目指す。そして肉体的快楽を拒否して魂を研ぎすますことこそが哲学の本質である。ところで、死とは、魂が肉体から分離することであるから、肉体から解放された死者(魂)のみが真実の知を獲得することができる。したがって哲学することは死ぬことの練習なのだという論理構成。この説を証明・補強するために、想起説やイデア論、魂の不死不滅などが展開されていく。

・当時よりも宗教的色彩が薄れ、科学的思考が強くなった今日から見れば、これらの言説は確かに胡散臭い。しかしそれでも、この本の値打ちが少しも損なわれていないと感じるのは、ソクラテスが「いかに生きるべきか」という人間存在の核心的問題を最深部から掘り起こそうとした最初の人であったからではないだろうか。したがって、ソクラテスが導き出した解答よりも、むしろソクラテスの提起した問題こそに注目すべきだろう。この最も古い問いに対する正解はいまだ出されていないのだから。そういう意味において、ソクラテスは常に新しい哲学者であると思う。

・哲学に生き、哲学に殉じたソクラテスの最期は、とにかく美しくて感動的だ。

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2013年07月15日

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ネタバレ

この書の主なテーマである魂の不滅についての証明は、少々ややこしかった。
それよりは、(プラトンの書く)ソクラテスが死に対してどのような態度で望むか、哲学者として生きるということはどういうことかを述べているところが面白い。

「(哲学者とは)純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追求しようと努力する人である。その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。」

いわば哲学とは死の練習をすることで、それでいてこそ、死んだ時に魂は肉体から離れて、自分自身になることができる。神の国に入ることができる。

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2012年12月23日

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プラトン三冊目。ソクラテスが毒をあおいで死ぬ日にみなと対話したのをパイドンが語っていく。

内容としてはソクラテスの死を嘆き悲しむ弟子たちに対して、死が一切の消滅ではなく、イデア論によると魂はむしろ不死であり、悲しむものではないことを諭していく。しかし、ソクラテスの言葉に対し、シミアスとケベスが徹底的に、素朴に疑義を呈していく。最終的にはイデア論による魂の不死を認めて死を看取るわけだが、死に行く師に対し、あれだけ率直に言葉を交わして対話して行くことにまさしく哲学の本質が見えるように思える。しかし、死に対して持っている感覚がやはり自分のものとはずれている気が拭えない。とは言え、これらに反論するだけの哲学的技量もない。期せずして自分の寄る瀬のなさを再認識させられたような気がする。

単純にソクラテスの最期自体は感動的でもあるので、ぜひ読むべき一冊。

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2012年01月14日

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人間のうちにあってわれわれを支配し,イデアを把握する力を持つ魂は,永遠不滅のイデアの世界と同族のものである.死は魂の消滅ではなく,人間のうちにある神的な霊魂の肉体の牢獄からの解放である-ソクラテスの最期のときという設定で行われた「魂の不死」についての対話.『国家』へと続くプラトン中期の代表作.

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2011年07月16日

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魂は不死である。一見非常識なこの命題を鋭く論理的に証明してくれた。彼らの対話の中に、日頃見逃しがちな思想が多いな影響を与えてくれるのもパイドンの魅力の一つであると思う。

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2011年01月05日

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ソクラテスがその刑死(毒人参の汁を飲む)の間際に、彼の死を哀しむ人たちの前で対話をした内容。
正しい、あるいはあるべき生とは、魂を徳によって磨くことにあり(人生はそれ自身が終着や唯一のものではなく、過程なのだという認識)、それは肉体の死によって妨げられないという考え方――ゆえにソクラテスは死を恐れず、最後まで徳を重視した人生を終えることでの、魂の完成を喜ぶという――が述べられる。
プラトン、ソクラテスの人生観は、現代ではなかなか受け入れがたいものが多くあり、この本のテーマは相当に顕著に現れる性質のものでもある。魂の不死だとか、死後の世界だとかいう前提を否定するのであれば、素直に読むのは難しい。
そうした前提はさておくとして、生きる上での基準とは何か?という疑問点を持って読むのであれば、この対話は、実りある文章になるだろうと思える。

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2009年10月04日

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ソクラテスの死のかたち。

魂の不死を証明し、
平穏なこころで肉体の死を受け入れ、
生物的生命停止のときをむかえる。
ソクラテスの死をクライマックスとした、気品漂う哲学的叙事詩―。単に哲学書というよりも、このほうがふさわしく思う。

「ソクラテスの弁明」

「クリトン」
に続けて読むと、
文学的な感動はより一層深まります。

美そのもの、
善そのもの
が存在する。
プラトンの著作中「イデア論」についてはじめて述べられる書。

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2009年10月04日

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正直難しいです。考えながら読み進めないと、スッと頭に入らないこともあります。その反面、簡単な例えがあるので、そこはわかりやすいとも感じました。

人間の生と死。そこにある魂。魂は不滅なのかどうなのか。人が死んだら魂はどこへ行くのか。哲学を対話の中で紐解いていくのが、面白かったです。

自己の生を全うし、善を心がけて生きたならば、死に対して恐れる必要がないというのは、古代ギリシアだけの考えではなかった。魂が肉体から解放されると、そこには美しい世界がある。そしてまた永遠の美の中で暮らす。
ソクラテスのエロースについて書かれた饗宴も読んでみたいですね。

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2019年02月17日

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ネタバレ

死の当日のソクラテスと弟子たちの議論、という構成

ソクラテスが死を喜んで迎えたのは、哲学者として、肉体から離れて真に学を愛することができると考えたから。

「浄化(カタルシス)とは、……魂を肉体からできるだけ切り離すこと」(37頁)

イデア論の部分は、プラトンがソクラテスの思想を自分の理論に基づいて解釈・再構成したもの。

「まさにそれであるところのもの」という呼び名をもつ実在自体(111頁)。

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2016年12月17日

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哲学は死ぬための練習。なんと。
魂の不死とイデア論について。エロス論の対比としては、なかなか暗いようでいて、こういうソクラテス像が好きなひともいるようだ。

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2015年04月25日

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肉体を不要とし、思考を重視するこのソクラテスはレンズマンのアリシア人を思い出させた。竪琴とか上衣から持ち主を想うのはフェチズムで、誰もが生まれつき持つイデアを想起するのは集合的無意識か。仮説演繹法によりロゴスを基礎に置くのはデカルトの自我に当たり大陸合理論はプラトン哲学の継承なのだろう。
美そのものが不変なもので存在するのなら、ある人には美しく見え、ある人には美しくなく見えることのはなぜか。

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2011年05月04日

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【2011年_3冊目】

哲学演習の教科書だった.
論理的に考える,論理的に説明する.
今まで私の中にない世界を見ました.
そうは言うけど,やっぱりソクラテスが死んじゃうのは寂しいよ.

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2011年01月29日

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ソクラテスが、刑死の直前に周りの弟子たちと語ったという設定で書かれた、「魂の不死」についての対談。なぜ、ソクラテスが「悪法も法なり」と言って、毒杯をあおることに少しもためらいがなかったのか、これを読むととても腑におちる。
この、現世での「生」以上に、自分自身の思想に殉じる姿は、吉田松陰を連想させた。

テーマとしては、「肉体が滅ぶと共に魂も滅ぶのか、それとも、肉体が滅んだ後にも魂は残るのか」という、普遍的なテーマではあるけれど、そんじょそこらの宗教家や哲学通が語る生半可な死生観とはわけが違う。なにしろ2000年以上の長きにわたって生き残ってきた、名演説なのだ。
どういでもいいような細部には用心深くこだわる周りの弟子たちが、大筋では意外とあっさりとソクラテスの主張を認めてしまうところは、ちょっとおかしな感じはするけれど、この、丁寧な論証の仕方は見事だと思う。

面白いのは、この「魂の不死」という概念が、ユダヤ教やキリスト教のような、いかなる宗教とも無関係に、論理によって導かれた結論として語られていることだ。それにもかかわらず、この、古代ギリシア人の考えは、現代においても広く信じられている概念ととてもよく似ている。
一つのことを説明するのに、どれだけ細かく論理の積み重ねをする必要があるのかと、あきれるぐらいまわりくどいのだけれど、これこそが、ロゴスによる思考の原点なのだと思った。

これからあの世へ旅立とうとしている者が、あの世への旅路について、それがどんなものであるとわれわれが思っているのかを、検討したり物語ったりすること以上に適切なことは、おそらくないだろう。じっさい、日没までの時間のあいだに、他になにをすることができるだろうか。(p.22)

正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。(p.38)

もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それは、その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、なにか肉体を愛する者であったことの、充分な証拠となるのではないか。おそらく、この同じ人は金銭を愛する人でもあり、名誉を愛する人でもあるだろう。そのどちらかであるか、その両方であるだろう。(p.39)

もしも、一方の生成が、ちょうど円環をなしてめぐるように、他方の生成をつねに補うのではなく、かえって、生成が一方からその正反対のものへのみ向うなにか直線的なものであって、再び元へ戻ることもなければ向きを変えることもないとすれば、万物は最後には同じ形をもち、同じ状態となって、生成することを止めてしまうだろう。(p.53)

私はそれまでにもソクラテスという方にしばしば驚いたことがあるのですが、あの方が答えるべき言葉をお持ちだったことは、おそらくなにも驚くべきことではないでしょう。だが、私があの方について特に驚嘆した点は、先ず、あの方が若者たちの議論をなんと楽しげに、好意をもって、そして感心しながら受け取られたかということ、それから、かれらの議論によってわれわれがどんな精神状態に陥ったかをなんと鋭く見抜かれたかということ、さらには、そういうわれわれをなんと見事に癒してくださったかということ、なのです。(p.100)

そうすると、死が人間に近づくと、思うに、人間のうちの可死的な部分は死ぬが、不死なる部分は、死に対して所を譲って、安全に滅びることなく立ち去ってゆくのだ。(p.150)

われにもあらず、どっと涙があふれでて、私は顔を覆ってわが身を嘆きました。そうです、あの方の身を嘆いたのではありません。私自身の運命を嘆いたのです。私はなんという友を奪われてしまうのか、と。(p.175)

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2020年07月15日

Posted by ブクログ

授業で扱わなかったら一生読まなかっただろう思う本。

人間の魂ははどこからきてどこへ向かうのか。
人間はずっとこのことについて頭を悩ませ続けるんだろうな。。。

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2009年10月04日

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