あらすじ
お墓のあり方、生まれ変わり、天国、怨霊……。『古事記』から『君の名は。』までを読み解き、新たな「安心」を求める。私たちは死んだらどこへ行くのか――。これは誰もが必ず直面する問いであろう。この問いは、大いなる不安を伴うものであり、ときに絶望ですらあり、さらに深い孤独を感じさせるものでもある。ほとんどの宗教が「死後」の問題を中心に据えているのも、それゆえだ。たしかに、「死んだらどこへ行くのか」についての固い信念があれば、「安心」を手にすることができるかもしれない。だが、その信念を持つことは現代日本人の多くにとって、そう容易なことではない。現代に生きる日本人として、自分自身にとっての答えを見つけるために、古来、日本人が死についてどのように考えてきたかを知ることから始めよう――。宮沢賢治、遠藤周作、三島由紀夫、柳田國男、折口信夫、新海誠、本居宣長、平田篤胤らの議論から、日本神話、怨霊思想、和歌の生命力、アニミズム的発想、自分史的観点までをふまえつつ、「死」と「日本人」の関係を結び直し、現代の「安心」を求める意欲作。 【目次より】●序章:変容する「死」の風景――孤独、矛盾、そして安心 ●第一章:臨死体験、生まれ変わりへの興味――「死」を探究する ●第二章:「縁」をいかに結び直すか――『先祖の話』と個人の救済 ●第三章:『古事記』の死生観――本居宣長と平田篤胤の安心 ●第四章:怨霊と鎮魂――悪しき霊をいかに救うか ●第五章:星になる、風になる――「草木国土悉皆成仏」の思想 ●終章:「死」と「史」と「詩」――ディープエコロジーと自分史
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Posted by ブクログ
これから先の世界
日本人には新たな死生観が
生まれる気がしてきました
それが どんなものなのか
ちょっと 見てみたいから
それまで長生きできますように・・・
Posted by ブクログ
鎌田東二氏は、上智大学グリーフケア研究所特任教授などを務める宗教学者で、神職の資格を持ち、神道ソングライターとして作曲活動も行っている。また、『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』(2000年/PHP新書)は、「松岡正剛の千夜千冊」(0065夜)でも取り上げられている
私は、「死んだらどこへ行くのか」というテーマに弱く(?)、これまでにも、書棚・蔵書録をざっと見ただけで、『人は死んだらどこに行くのか』(島田裕巳)、『死んだらどうなるの?』(玄侑宗久)、『わたしが死について語るなら』(山折哲雄)、『輪廻転生』(竹倉史人)、『恐山』(南直哉)、『死生観を問い直す』(広井良典)などを読んだ。
それらの本との比較で言うと、前段の、宮沢賢治の宇宙観、柳田國男の『先祖の話』と折口信夫の「まれびと」、『古事記』と本居宣長と平田篤胤のあたりは、他書でも取り上げられており、特段の目新しさはない。(今般上記の本を読み返したわけではないので、それ以外の本に書かれていたのかもしれない。また、遠藤周作の『深い河』は知らなかった)
一方、後段では、「現代」は「中世」の再来である、即ち、中央集権体制を強く希求していた「古代」と「近代」に続く「中世」と「現代」は、分権化や割拠が進み、その結果、社会システムが「無縁化」した(ている)点において似た状況にある、という認識を前提として、我々が「死」に対してどのように対処するべきかを語っている。
そして、そのように「無縁化」が進む現代においては、中世に宗教的な救済が求められたのと同じように、臨床宗教師等によるスピリチュアルケアやグリーフ(悲しみ)ケアが必要とされていることが強調され、また、中世において、無縁化した魂を鎮めるために『平家物語』や「能」のような芸能が生まれ、『古今和歌集』や『新古今和歌集』のような勅撰和歌集が編まれたのと同じように、現代においても、「アート・オブ・ピース(=平和をつくりだすワザ)」を新たに生み出し、自分の身の回りの「死」を「歴史」的な視点で位置付けて「物語=詩」にすることが重要であるとされている。(私は「スピリチュアル」というワードに瞬間的に拒否反応を示すのであるが、「スピリチュアルケア」はそのような性質のものではないようだ)
「日本人は死んだらどこへ行くのか」の直接的な回答は得られないが、死生観について考えを深める材料を提供してくれる一冊である。
(2017年6月了)
Posted by ブクログ
宗教学者だと思っていた鎌田東二さんが、臨床宗教師という新たな衣をまとって日本人の死生観に関する小論をまとめた内容。
現代を新たな中世とスパイラルさせて見るのは了解しますが、そこに新たな親鸞や道元が現れないところに、さらなる末法を感じます。