あらすじ
独学でリベラルアーツを身につけるための
戦略的かつ具体的な方法、そして必修のリベラルアーツを
元エリート裁判官が完全解説した話題の書が
エッセンシャル版として読みやすくリニューアル!
日本の裁判所の腐敗を告発し、大きな話題を呼んだ『絶望の裁判所』で知られ、
現在は作家活動と並行して明治大学法科大学院で教鞭を執る瀬木氏は、
現代の日本社会にはびこる根源的問題として「リベラルアーツの不足」を指摘。
そして、大学教育では身につかないそれを独学で手に入れるための
技術の全貌を自ら解説すべく書かれたのが、本書「リベラルアーツの学び方」である。
第1部「なぜ、リベラルアーツを学ぶ必要があるのか」において
「タコツボ型の「知識」から横断的な「教養」へ」
「固有の「生」の形と結び付いた教養」
「自分で課題(アジェンダ)を設定する能力」
など8つの視点からリベラルアーツを学ぶ意味を解説した上で、
第2部「リベラルアーツを身につけるための基本的な方法と戦略」において、
「批評的・構造的に物事をとらえる」
「作品と対話し、生き生きとしたコミュニケーションを図る」
「歴史的・体系的な全体像の中に位置付ける」
といった6つの基本的な方法、および
「情報収集と情報処理をどのように行うか?」
「情報とアイディアをどのようにストックするか?」
など4つの実践のためのスキル・ヒントを詳細に解説。
そして第3部「実践リベラルアーツ――何からどのように学ぶのか?」において、
第1部、第2部の内容を前提としながら、
自然科学から社会・人文科学、芸術にいたるまで、
重要分野ごとの学び方を詳細に解説しつつ、
学ぶべき対象としての書物リストを紹介。
なぜ、現代の若者は新しいものを生み出すのが苦手なのか?
なぜ、日本のビジネスパーソンは仕事以外の会話や付き合いを楽しめないのか?
なぜ、日本の国家や企業は根本的な改革ができないのか?
長く停滞の時代にある日本において
一人ひとりが自分の頭で考え、主体的に行動していくための
「最強の武器」が、ここにある。
*本書は、オリジナル版『リベラルアーツの学び方』(2015年5月発売)の
本論部分にあたる第1部・第2部と、
各論に当たる第3部の概論部分・書物リストのみに絞り、
四六判サイズで読みやすく再編集したものです。
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Posted by ブクログ
個々の日本人が自分の力で考えなければ、自分自身の人生を主体的に切り拓いてゆくことも、企業等の集団、あるいは社会や国家の、新たな、そして自由でより豊かな枠組みを作ってゆくことも難しいでしょう。
そのような意味で、考える方法や感じる方法の生きた蓄積であるリベラルアーツは、個々人で自ら考え、発想し、自分の道を切り開いてゆくための基盤として、まず第一に必要とされるものではないかと思います。
しかし、現代の若者には、かつてに比べてもこうした教養、リベラルアーツが不足しているとの指摘があります。インターネットからいろいろな情報は得ているが、それらを統合する核になるような基本的な知識、方法が不足している。旺盛で幅広い好奇心に欠け、考える力が弱い。物事の本質をとらえる力、異質なものの間に共通点を見出してそれらを統合する力が弱い。マニュアル指向で指示されたことはそつなく効率よくこなせるが、自分で新しいものを作り出すのは苦手。たとえばそうした言葉、その指摘が本当に正しいか否かはおくとして、経営者をはじめとするリーダーたちからよく聞きます。
これは、ある意味世界的な傾向、ことにその中でも相対的に豊かないわゆる先進諸国に共通してみられる傾向であり、情報の氾濫や教育・受験制度のあり方等の構造的な問題にも大きな原因があります。
こうした国々では、若者たちは、目まぐるしい時代の変化、生活様式のアップデートについてゆくことで精いっぱいになりがちです。僕自身、法科大学院で教えている学生たちをみていても、そうした傾向は否定できないと思います。
けれども、その結果として、現代の若者たちが失っているものも多いことは、考えてみる必要があるでしょう。考える力や方法、新たな発想、勇気あるチャレンジ精神、そうしたものは、知性、感性に基礎力がないと、なかなか養われません。そうした基礎力がないと、競争にも弱くなりますし、人が気づいていない領域を見出して新たな視点からそれに挑むことも、難しいでしょう。
たとえば、誰もが相当の勉強をし、教授も熱心に教える法科大学院では、多くの学生が、ある程度の力はもっています。司法試験に早く合格するためには、そうした学生たちの間で「頭一つでよいから人より上に出る」、そうした知識、発想、思考力、文章術等が必要なのです。しかし、それらを備えている学生の数は多くない。本当の意味で考える方法、思考の方法を知らない学生が多いのです。
もともとはすぐれた素質をもっているはずの多くの若者たちが、受験・教育制度の問題や情報社会のあり方の問題等によって、限られた能力しか発揮できない状態にあるとしたら、非常に不幸なことです。
もし、彼らが、獲得してきた知識や情報を断片的な形にとどめず、横断的で幅広い思考の基盤とすることができたなら、また、それらの知識をより深みと広がりのあるものにするための思考の方法や枠組み、発想の方法を知ることができたなら、①パースペクティヴ、すなわち広がりと奥行きのあるものの見方と、②ヴィジョン、すなわち洞察力と直感により本質をつかむものの見方(これらは僕自身の定義です)、その双方を獲得することができ、その結果、もっている能力を存分に生かすことが可能になるでしょう。
リベラルアーツは、右の、パースペクティヴ、ヴィジョン、それらの双方の基盤になるものです。したがって、これらを身に着けるためには、主体的に、また、系統的に、リベラルアーツを学び直すことが必要なのです。
イタリアルネサンス期の外交官、思想家で、「マキャヴェリズム」という言葉とともに、というよりもむしろその言葉によって有名となったニッコロ・マキャヴェリは、代表作『君主論』の中で、古典を援用しつつ、人間を三種類に分けています。
すなわち、①自分で考えることのできる人間、②人のいうことは理解できる人間、③どちらもできない人間、です。マキャヴェリは、この書物で、君主に対して全般的にそれほどとびぬけた資質を要求してはおらず、右の三分類でいえば、よき君主としては第二のカテゴリーに入る必要はあるがまあそれで十分だ、としています。透徹したリアリスト、形而下的な知恵の人であった彼らしい分析です。
確かに、例えば政治家などという職業には、特別に並外れた知性や洞察力は必要ではなく、むしろそれに足を取られることもありうるのであって、それよりは、さまざまな人々の言葉を適切に理解し評価する能力のほうが重要なのかもしれません。ことに、大国においてはその傾向が強いかと思います。
さて、これまでの僕の人間に関する経験をこの分類に当てはめてみると、第一カテゴリーに入るような人物は、学者・科学者、医師、法律家、エンジニア、ジャーナリストなどのいわゆる知的職業に就いている人々でも、あまり多くはないという気がします。そうした能力に比較的すぐれているはずの学者という種族でも、その相対的な上層部の中でせいぜい何割かといったところではないでしょうか。多くの人々は、他人の考えたことを整理、再利用し、それらにいくぶんのことを付け加えている程度だと思います。
しかし、これからの世界で生き抜いてゆくためには、あらゆる分野で、つまり右のような専門職に限らず、経営者やビジネスパーソンについても、最低第二カテゴリーの能力は十分に備え、さらにある部分では第一カテゴリーに食い入ることのできるような人間となることが、必要ではないかと思います。
<中略>
これからの世界を生き抜き、より豊かな人生を送るためには、世界のレヴェルでみてもかなり先の見え始めている経済的繁栄の追求だけではなく、社会や企業のあり方を考え、設計し直し、個人の自由と権利の確保された、住みよい、生きがいのもちやすいものにしてゆく努力も必要なのであり、それは、人間のあり方についても同様にいえることだと思います。どの分野でも、第一カテゴリーの人間が増え、適切なパースペクティヴとヴィジョンの下に改善、改革が行われてゆくことが求められています。
とりわけ、流動化が激しい現代社会では、問題、課題を解く以前に、それらを探し出し、正しく設定する能力、すなわちアジェンダ(重要課題)の発見、設定能力が非常に重要になってきています。しかし、そのアジェンダは、第一カテゴリーの人間でなければ決して見付け出せません。
そして、「まさにこれだよ」というアジェンダを見付け出すためには、横断的で幅広いリベラルアーツのバックグラウンドが必要です。学校のテストであればともかく、現実の社会においては、与えられた課題を解く以前に自分で課題を設定する能力のほうが、はるかに重要なのです。
リベラルアーツを学ぶことは、この第一カテゴリーに食い入ることのできる人間になるための、つまり、あらかじめ与えられずとも自ら課題を見付け出し、適切にそれを設定する能力のある人間になるための、必要条件なのです。
最後に、これは「1 批評的・構造的にものごとをとらえる」と関連するのですが、身につけるのがおそらく一番難しいこととして、「自己を相対化・客観化して見詰める」ことが挙げられます。
他人に対して説得力のある議論、立論を展開しようとする場合、議論を行う者は、抽象的、一般的な建前論を展開するだけではだめです。特に、議論の内容が批判的なものである場合には、「あなた自身はどうなんですか?」と足をすくわれます。
説得力のある議論を展開するためには、その主体が、自分自身の立場や、自分の理論が立っている基盤を検証し、みずからの考え方や議論がその立場や基盤によって影響されている可能性をきちんと考慮に入れながら、論理を展開してゆくことが必要です。
日本の政治家や官僚の議論が説得力に乏しく、嘘くさく感じられることが多いのは、その議論が結局は彼ら自身の利益、権益確保を目的としており、にもかかわらず彼らがそのことを自分で検証していないどころか、十分に意識すらしていないことによるところが大きいと思います。こうしたことは学者等の専門家や経済人についても、ままみられます。
これは、第3部でもふれる社会学者カール・マンハイムが提唱した「知識、思想の存在被拘束性」の問題です。その要点は、僕たちの思考や自己認識が、僕たち自身の存在のあり方、存立基盤に避けようもなく影響を受け、拘束されている、ということです。
マンハイムは、知識、思想の存在被拘束性を超えてその時々の歴史的な状況やその中にある真理に近づくために、対立する見解を広く見渡し、その全体像を把握できるような統合的な「場所」を発見しなければならないとし、「不安な確信のない人たちのやり方に従って、存在する問題や矛盾をみないことにしたり、右翼や左翼の人たちのやり方にしたがって、そうした問題を自己の思想や立場の宣伝のために、あるいは、過去や未来の栄光のために利用してはならない」と説き、全体的な視野に立ちつつどこにも属しないで自由に浮動する知識人の役割、重要性を強調したのです。
僕は、「1 批評的・構造的に物事をとらえる」で論じた「批評的・構造的なものの見方、物事のとらえ方」と並んで、こうした「自己の思考が自らの立場や利害に影響されていることを意識した上で、それによる補正を行いつつ自分の議論を組み立てる能力」も、日本人に弱い部分だと思います。日本文化に特有の「建前と本音」の乖離が、この傾向を助長しています。
表では対面をとりつくろうための「建前」をいい、裏ではむきだしの情緒的な「本音」を語る。そこには、自分の本当の姿を、また、自分の議論がみずからの立場や利害によってどのように影響されているかを厳しく検証し、自分の議論の価値を高めようとする真摯な努力が欠けています。
「1 批評的・構造的に物事をとらえる」に記したように、「批評的・構造的なものの見方、物事のとらえ方」には、自分なりの「定点」が必要ですが、それと同時に、そのような自分のスタンドポイントが、みずからの生育歴、立場、利害関係等によってどのように影響されているのかを見極め、意識しておくことも必要です。そうでないと、議論に客観性や説得力がなくなり、容易に足元をすくわれます。これは、日本では、政治家や官僚はもちろんですが、知的専門職に就いている人々にさえままみられる欠点です。
そのような人々であれば、本来なら当然に、また十分に備えていなければならない「存在被拘束性」の意識が弱く、そのために、善意でがんばっていても、客観的にみれば自己満足的あるいは傲慢尊大であったり、その努力について一般の人々や他の世界の専門家の理解が得にくい、極端な場合には、実は他人を傷つけたりその迷惑になっているにすぎないにもかかわらずそのことに気付けない、そうした事態を招いている場合が、しばしばあると感じます。
ビジネスの世界でも同じことで、たとえば、本当は自分の利益、自分の会社の利益しか考えていないのに、そのことを隠すだけでなく、自分自身で意識すらできていない、そうした仕事や営業のあり方では、相手も不快になり、継続的で安定した信頼関係を築くことはできないでしょう。
『ダーク・ネイチャー』ライアル・ワトソン
生物学者であると同時に神秘主義者でもあって、これまでに述べたような正統派の生物学者たちとは異なり、学者というよりもむしろ思想家といった方がいい人物であるライアル・ワトソン(一九三九~二〇〇八)の『ダーク・ネイチャー――悪の博物誌』(一九九五、筑摩書房)は、生物学の視点から「悪」を論じたものとして興味深い書物です。
ワトソンは、自然の世界が、人間の夢想するような楽園などでは全くなく、弱肉強食の生存競争の世界であり、人間の「目」でみるところのあらゆる「悪」が行われている場所であるといいます。たとえば、ヤセザルの集団における新しいボスは、集団内の幼児、すなわち自分と遺伝子を共通にしていない子どもを片っ端から殺すというマキャヴェリズムを遂行しますし、エンゼルフィッシュの雄は、自分の体をレンズとして集光した太陽光線でライヴァルの網膜を焼きます。
彼の掲げる悪の例は、より豊富でありますが、基本的には、ドーキンスが遺伝子淘汰単位説を解くに際して掲げたものと同質です。すなわち、ワトソンのいうところの「遺伝子の命じる動物行動の三原則」、①身内には親切にせよ、②部外者はやっつけるかあるいは意地悪くせよ、③自分の利益のためには可能な限りどんな手段を取ってもかまわない(可能な限りズルをせよ)の結果としての悪です。そして、それらは、動物にとって自然な行動です。
しかし、人間の場合、右の三原則に従って行動することは明白に「悪」を行うことになります。だから、人間は、自らのそのような本性を知りつつそれを抑制すること、つまり、遺伝子の命令と戦うことを学ばなければならない。
人間の自己正当化能力は驚くべきものであり、そのため、たとえば戦争に関連する残虐行為は本当にひどいものになるだけでなく、行っている当人にも悪の意識すらない状態にしてしまいます。一族の伝統とか集団に対する忠誠心といったものに基づく行動や意見、すなわちナショナリズムをはじめとする各種の集団主義も、国家をはじめとする人間の社会的な諸制度も、往々にして先の三原則をおおい隠し正当化している場合があります。だから、僕たちは、悪を避けるために、できる限り多くの検証された知識の助けを借りながら、きわめて困難なものである「選択の自由」を行使してゆく必要がある。それが彼の主張です。
正統派の生物学者たちが、生物学の視点から「悪」を論じるワトソンのアプローチに疑問を呈する可能性はあるでしょう。しかし、少なくとも、ワトソンのアプローチは、どこへもたどり着かないで堂々めぐりをすることの多かった従来の哲学、倫理学のアプローチよりはずっとましであり、人間の、動物としての「存在被拘束性」を直視し、「悪」を僕たちの内なるものとしてとらえ直すことによってそれを克服しようとする試みとして、評価することができると思います。
『脳は空より広いか――「私」という現象を考える』ジェラルド・M・エーデルマン
脳の営みの興味深い特質の一つとして、それが、「何がなんでも統一された一貫性のある絵を描きたい」というこだわりをもっていることが挙げられます。僕たちが網膜上の盲点の存在に気付かないこと(脳が盲点に相当する部分の映像を補充してしまうからです)、各種の錯覚現象、ラマチャンドランの書物に掲げられているような各種の否認症例は、それを裏付けます。
整合性のある閉じた回路を形成しようとする傾向は、脳の生理学的な構造自体に基づく特質なのではないでしょうか(脳の作話能力の本質性。このような脳の本性は、証人や訴訟当事者が、裁判における尋問で、故意に嘘をつくよりも、自分に都合のよいように構成された「作話」をする例のほうがはるかに多いと思われることと深く関連しているでしょう[瀬木])。
正義、善悪といった社会的価値も、適応性を備えた個体に対する選択圧から生じたものであり、生物学的基盤をもち、また、ここの意識のあり方とも深く関わっています。つまり、社会的価値には生物学的基盤があり、また、それには個体ごとに相対的な部分もあるということです。
思考には二つのモードがあります。論理的思考と選択主義的思考(パターン認識)です。より創造性が高いのは後者であり、それは、言語獲得以前から存在する脳の本質的な構造(異なる複数の構造が同じ出力を生み出すという能力)に基づいた基本的な機能が、パターン認識や隠喩(メタファ)形成能力に関連しているからです。
論理的思考は、こうした選択主義的思考のゆきすぎをいさめるという副次的な役割を担うものと考えられます(創造的思考は直感に深く関わっており、論理的思考は主として検証のためのものである。たとえば、裁判官が抱く最初の心証や事実認定は直感としてやってくることが多いが、評決を書くときの脳の働きは検証的であると思います[瀬木])。
それでは、これまでに挙げてきた自然科学系の書物が明らかにしてくれた人間や世界認識の方法、あり方について、以上の記述を踏まえて、まとめておきましょう。
まず第一に、「人間の動物との連続性」、「動物としての部分」を自覚し、視野に入れておく必要があります。人間は、言葉をもち、認識と思考の力をもった動物にすぎません。しかし、そうした新たな能力によって、自己の有限性、存在被拘束性を知るのみにあらず、非常に短い期間に高度な文明をもつことさえ可能になった、不思議な動物であることもまた間違いありません。
生物学や脳神経科学は、そのような人間のあり方の生物学的基盤を、種々の側面から明らかにしています。フェミニズムやジェンダーの主張には社会的正当性があると思いますが、こうした考え方を含め、社会・人文科学の主張には、えてして、人間の生物学的基盤や動物としての限界をみない「存在」と「当為」の混同、つまり、あるべき人間の姿、理想ばかりをみて現実の人間存在、その限界を考慮に入れない欠点がみられると思います。たとえば、法学や経済学が念頭に置いているのは、「常に物事を客観的にとらえて理性的、合理的にふるまう近代人」だと思いますが、現実の人間はそういうものではない。だから、理性的な人間なら起こすはずのないような種類の法的紛争や犯罪が起こり、経済予測はしばしば外れるわけです。文科系思考のイデオロギー的限界ということですね。
こうした問題については、もちろん社会学等の分析的社会学も気付いてはいたのですが、現代の自然科学は、はるかに正確かつ緻密に、人間存在を想定する諸条件を明らかにしつつあると思います。僕たちがそこから学びうることは多いでしょう。
生物としての拘束のもう一つの側面は、僕たちの存在の個別性です。脳神経学者たちが明らかにしたように、僕たちの他者理解、了解は、クオリア(感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感)という最も基本的なレヴェルにおいてさえ、類推によるものでしかありません。「頭が痛い、おなかが痛い」と誰かが言うとき、その痛みが、僕たちが感じるそれと同じであるかどうか、本当のところはわからないのです。ましてや、人間の考えていること(再帰的な思考)が、そんなに簡単に他者に伝わるわけではありません。個人間にかなりの程度に高度なコミュニケーションが成立しているのは、本来であれば考えられない幸運な事態なのであり、言語を手に入れたことによって人間が偶然にも手に入れた恩寵なのです。
実際、ビジネスの世界におけるそれをも含め、大半の社会的・経済的・政治的紛争は、コミュケーションの成立を容易に想定することから生じます。僕たちは、「他者の存在の知りがたさ、測りがたさ」をもっと身にしみて認識する必要があるのではないでしょうか。
なお、付け加えておくと、僕がプラグマティズム、ことに鶴見俊輔のそれに引き付けられたのは、もともと僕の思考様式や方法にプラグマティズム的な部分が強くあったからだと思います。このように、自分の考え方の基盤になるような方法については、自分との相性を考えることも非常に重要です。自分自身の考え方や思考方法を構築し確立するためには、まさに自分が考えていたことがより明確に、体系的に記されている。そのように感じられる書物や著者を見付け出すことが一番なのです。
一般的にいっても、古典的芸術は、学問以上に発想の根、発想の泉になっている部分があり、それについて知っているか、深く理解しているかが、その人の発想の強さやオリジナリティーを左右することも多いのです。
人間の発想、アイディア、より広く言えば考えなどというものは、根のところでは、第1章の自然科学の部分で論じたような人間の動物としてのあり方や認識、思考のあり方に規定されていますから、大体において似てきます。つまり、誰かがいったこと、表現したことの形を変えての語り直し、やり直し、まとめ直しという側面が強い。「あらゆる意見はすでに語られた事柄の語り直しである」ということです。
そうすると、いかにうまく語り直すか、つまり、いかにうまく新たな情報を加えるか、あるいは語りのフォームを変えるか、といったことが重要になってきます。その際に、過去の蓄積を知らないでいると、大変みっともないことになりやすい。「それは誰それが以前にずっとうまくやっていることではないか?」という厳しい指摘を浴びることになるからです。
Posted by ブクログ
「知は力である」 ―フランシス・ベーコンー
上記の言葉から始まる。私は知というものはリベラルアーツという学問無くしては語れないものだと理解している。ただ、リベラルアーツとはどんなものなのか、どんなことを学べば良いのかが不明だった。
リベラルアーツの起源は、ギリシア・ローマ時代にまで遡る。当時は自由人が学ぶ必要のある自由七科である文法学、修辞学、倫理学、算術、幾何学、天文学、音楽を意味した。現在の大学でいう教養課程ということになる。
この本はそのリベラルアーツの基本的な学び方が記されている。リベラルアーツの中でも音楽、絵画等の芸術鑑賞から学ぶ方法が色濃く紹介されている。読み進めていくと著者の趣味を推し進めるものかと思うほど芸術分野への偏りを感じるが、その重要性も理解が出来てくるものになっていた。
私がリベラルアーツを学ぶには、芸術鑑賞するまでの基礎知識が大幅に欠如しているため、本書で紹介されている参考図書の中から数冊を精読することから始めてみる。
Posted by ブクログ
瀬木比呂志(1954年~)氏は、裁判官を経て、明治大学法科大学院教授。2014年出版の『絶望の裁判所』がベストセラーとなり、2015年の『ニッポンの裁判』により城山三郎賞受賞。
本書は、2015年に発表された作品のエッセンシャル版として2018年に出版されたもの。
著者によれば、「リベラルアーツ」の起源はギリシア・ローマ時代にまで遡り、当時は、自由人(奴隷ではない人)が学ぶ必要のある自由7科(文法学、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽)を意味し、現在の大学で言えば教養課程に属する科目であったが、近年注目されている意味での「リベラルアーツ」とは、大学における基本科目という趣旨よりも、そのもともとの意味、すなわち「人の精神を自由にする幅広い基礎的学問・教養」という趣旨で、とりわけ、その横断的な共通性、つながりを重視する含みを持って用いられる言葉である。そして、リベラルアーツとしての教養とは、飾りやファッションではなく、社会に起こっているさまざまな問題について、世界で交わされているさまざまな論争について、どのような世界観や人生観を選ぶべきかについて、あるいはビジネス上の課題にいかに取り組むかについて、考えてゆくときの基盤となるパースペクティブやヴィジョン、すなわち、各自の「思想」を築くための「思想的道具」なのである。
更に、本書で特徴的なのは、リベラルアーツを提示するのは書物だけではないとして、音楽や映画などの芸術についても積極的に触れ、推奨している点である。
第1部の「なぜ、リベラルアーツを学ぶ必要があるのか?」、第2部の「リベラルアーツを身につけるための基本的な方法と戦略」に続く、第3部の「実践リベラルアーツ~何からどのように学ぶのか?」では、様々な著作、芸術作品が紹介されている。(エッセンシャル版では、この部分の記載が簡略化されている)
類書に比較して、個人的な経験・思考が強く出た記述が多く、やや読み難さは感じるものの、基本的なスタンスは共感できるものであり、リベラルアーツを語った一冊として読む意味はあるものと思う。
(2020年3月了)
Posted by ブクログ
元裁判官という経歴をお持ちの方のリベラルアーツ論。それぞれいろんなことを学んで、それに共通することを取り出す、いろんなパースペクティブを手に入れることが世界を広げる学び、それを手に入れるにはこういう本を読んでこう感じてくださいと書いてある本です。
リベラルアーツが何なのか全く知らない人にはぴったりですが、ある程度知っている人はちょっと物足りないかも…
Posted by ブクログ
この本を読んで、この先読んでみたいと思う本のジャンル、映画、美術作品などが増えたし、どう付き合うかなどを考えさせられた気がした。
教養は単なる知識ではなく、柔軟な思考力や想像力、完成を身につけるためのもの。
教養は世代により変化するものではなく、他の世代、他のコミュニティなどのコミュニケーションを取ることができるようになる。しかし、現代の日本においてはタコツボ化、村社会、同世代とのコミュニケーションばかり。若い世代の常識は上の世代の常識ではないことや、その逆もしかり。教養とはそういつまたギャップを埋めることができる、人としての前提、根底のようなものといったところ。教養があるということは色々な世界で生きていくことができる力といったところか。