あらすじ
時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。自分なりの道徳とはつまり、「自分がどう生きるか」という原則だ。今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするのと同じことだと思う。
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Posted by ブクログ
新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか (幻冬舎文庫)2018/1/23
自分の頭で考え、自分の心で判断できる子供を育てる
2018年1月22日記述
北野武氏による作品。
2015年9月10日第1刷発行。
たいていこういった作品はビートたけし名で出すのだけれど北野武となっているあたりは何か意味があるのだろうか。
深い意味はなさそう。
小学校などで道徳の授業時間は自分の時にもあった。
しかし教科書は無く割と自由な時間の使い方をしていた記憶がある。
昨今はきちんと教科書も整備され授業が行われているとの事。
北野武氏はその内容から道徳の持つ問題点を指摘する。
ページをめくったすぐの箇所にエピグラフとして
芥川龍之介氏、侏儒の言葉よりが一部掲載されている。
突き詰めると武氏の言いたい事はここの凝縮されている。
道徳は便宜の異名である。
「左側通行」と似たものである。
道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。
道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。
良心は道徳を造るかも知れぬ。
しかし道徳は未だ嘗て
良心の良の字も造ったことはない。
本書の印象に残った点を列挙してみたい。
道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない。
道徳なんて、ほんの少し時間が過ぎただけで、あっさり変わるものだ。
そんなあっさり変わるものを、簡単に「これが道徳だ」なんて決めつけていいわけがない。
だいたい、いつ誰がどうやって決めたのかもよくわからない。
映画監督の黒澤明さんが「あなたの最高傑作は?」と質問されて、「次の作品だ」と答えたっていう有名な話があるけれど、昔を振り返って過去の栄光にひたるのは、要するに年寄りの発想なのだ。
誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある。
大人が心にもないことを言っている限り、子供にも伝わらない。
道徳っていうのは、そういうものだと思う。
他の教科のように、理屈で教えられるものではない。
道徳の時間は、本音で話さなければ、教える教師にとっても、子供にとっても退屈で無駄な時間でしかない。
道徳が役に立つのは、むしろ不道徳な人間だ。
上っ面だけいい人間のふりをしたければ、道徳の教科書に書いてあるようなことばかりやっていればいい。
道徳を教えるのと、良心を育てるのは別のことなのだ。
道徳を云々するなら、まずは自分が道徳を守らなくてはいけない。
それができないなら、道徳を語ってはいけないのだ。
夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。
今の世の中じゃ、ウサギは途中で昼寝なんかしない。
他のウサギと競争中で、カメにかまってる暇はない。
誰もがインターネットを使うようになって、世の中が昔より不寛容になった気がする。
→これは気のせいではないのか。むしろネットによって不寛容な人間、異分子を叩く人間が見える化したのだと思う。ネットだけで急に世の中の人間が不寛容になるはずがない。
ただ一部の過激な人間(叩く人間)に付和雷同している人間は増えたかもしれない。
謙虚になってはじめて、人間は何かを学ぶことが出来る。
どんなに歳をとっても、偉くなっても、自分が何も知らないってことを忘れちゃいけない。
ひとつの知識を本物の知識にするためには、何冊も本を読まなくてはいけない。
それは今も昔も変わらない。
インターネットで手軽に知識を得ることは出来ても、手軽に得られるのは手軽な知識でしかない。
ハリボテの知識だ。
知ったかぶりが増えただけのことだろう。
インターネットでおかげで増えたのは、人類全体の知識の量ではなく、自分が世界中のことをなんでも知っていると勘違いして、自分は絶対に正しいと思い込む人の数だ。
道徳っていうものは、そもそも社会秩序を守るために作られた決まり事なのだ。
道徳は社会の秩序を守るためのもの・・・と言えば聞こえはいいけれど、
それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものなんだと思う。
牧場主が自分の都合で牧場の柵を作るように、権力者は自分の都合で道徳を作る。
都合が変われば、道徳もコロコロ変わる。
コロコロ変わるのが道徳の宿命なのだから。
学校で教わった道徳を、絶対だと信じるからおかしなことになる。
道徳なんてものは、権力者の都合でいくらでも変わる。
少なくとも、いつの時代も、どんな人間にとっても通用する、絶対的な道徳はないっていうことは間違いない。
それだけは頭に入れておいた方がいい。
道徳は人間関係を円滑にするための技術だ。
道徳を身につけるのは、人生を生きやすくするためなのだ。
勤労が道徳なのは、権力者が楽をするための決め事なのだ。
いろんな理屈をつけてはいるが、要するに自分は働かずに人を働かせるために、勤労は道徳だってことにしたわけだ。
いつの時代も、権力者は人を働かせたがる。
今もそれは変わらない。
→「豊かになるためには働く必要がある」と野口悠紀雄氏は指摘している。
大切なのは楽をし働かない(経営判断を進めない)権力者はやめて貰うことであろう。
ファーブルはこういった。
「自由は秩序を作り、強制は無秩序を生む」
「ほんとうの意味で、傷つけたいと思っている人は一人もいない。だから、自分が傷つきたくないなら、他の人を傷つけるのはやめよう」
教室の子どもたち全員に教えていい道徳は、これくらいしかないんじゃないか。
よくリタイアしてから趣味を見つければいいなんて言ってる奴がいるけれど、そんなものが見つかるわけがない。
一番やらなきゃいけない時にやってないんだから。
なんでもそうだが、習い始めてから本格的にそれを楽しめるようになるまではには、それなりに時間と労力がかかる。
年寄りにはそんな時間も体力も残されていない。
若い時に始めなければ、趣味がほんとうに面白いレベルに達するのは難しいのだ。
自分の人生は自分で楽しくしなきゃいけない。
人生の目的があるなら、それを追求すればいい。
だけどそれがないなら、無理して人生の目的を探すことなんてない。
中途半端な会社人間になるのがオチだ。
そんなことより、若いうちから自分が生涯打ち込める趣味を見つけておいた方がいい。
人生の目的を探すんじゃなくて、自分が一生夢中になれるものを見つけるのだ。
それがあれば、歳をとってからわけのわからない犯罪を犯す確立だってかなり減るんじゃないか。
最低限の事しか教えないのは、どんなに厳しく道徳を躾けたところで、子供が自分からそう思わなきゃ意味はないからだ。
結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。
どんな道徳を身につけるかは、人によって違うだろうけど。
不思議なもので、成功する芸人は例外なく、あいさつをきちんとするし、それなりの礼儀もわきまえているものだ。
人当たりもいいし、ADに横柄な態度を取ることもない。
人間社会で、上に行こうとする奴は、放っておいても道徳的になる。
そうでないと、上にはいけない。
道徳は本来、人ぞれぞれで微妙に違うものだ。
人それぞれなんだから、道徳は自分で作るに限る。
誰かに押し付けられた道徳に、唯々諾々と従う必要はない。
時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。
新しい世界を作るということは、新しい道徳を作ることだ。
道徳を作るなら、まずは自分がいつか必ず死ぬってことについてよく考えてみることだ。
自分の死をしっかり腹におさめておけば、人生でそう大きく道を誤ることはないはずだ。
道徳教育を徹底しないと、子供がおかしくなってしまうなんていうのは年寄りの錯覚でしか無い。
錯覚でしかないけれど、彼らはそれを「いいこと」だと思い込んでいる。
だから、それを子供たちに教え込もうとする。
いいことをすると気持ちいいから。
そんな年寄りの戯言(たわごと)に耳を貸す必要はない。
古臭い道徳を子供に押し付けたって、世の中は良くなんかならない。
そんなことより、自分の頭で考え、自分の心で判断できる子供を育てる方が大切だろう。
そのためには、まず大人が自分の頭で考えることだ。
道徳を他人まかせにしちゃいけない。
Posted by ブクログ
ちょっと前の「話題の本」。
文庫化されてたので、買ってみた。
「はじめに」にて筆者自らが述べているように、他人の考えを鵜呑みにする人は読まない方が良さそう。
そういう人が読んでは、第1章での、屁理屈こねまわしのような、現行制度の上げ足取りの連続のような文章に感化され、わかったような気で批判を持つだけになってしまうだろう。
かなり辛口な「道徳」教科書の批判から始まる本作だが、そこには北野さんの、現代日本への痛烈な皮肉と日本の将来を担う子供達への深い愛情が感じられた。
豚肉の例に例えて語られた…
「『考える習慣』をつけてやること以上の道徳教育はない」
結論として述べられた…
「いちばん大切なのは、本音で話すこと」
・・・マナーはマナー、技術は技術でしかない。でも、生きていく上で必要だから伝えなければならない。ならば、道徳とかいう建前は一度置き、本音でそれを伝えてみよう、と。
そして…
「まず大人が自分の頭で考えること」
この3つが、心に残った。
★3つ、7ポイント。
2018.01.24.新。