あらすじ
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怒りや憎しみでは、問題を解決することはできません。
それらを解決できるのは、思いやりと真の優しさによる癒しだけなのです。
世界平和を持続するための手段は「思いやりによるゆるし」しかない――そう私は思うのです。
1980年代からチベットに入り、チベットの風景とそこで暮らす人々を見つめ、撮影してきた写真家、野町和嘉氏による写真もあわせて掲載。
海外でも写真集を出版するなど、写真家として国際的な評価も高く、数々の賞を受賞している野町氏と、ダライ・ラマ14世による初のコラボレーション。
「ゆるすとは何か?」「生きるとは?」という
永遠不変のテーマから「チベット問題」まで――
ダライ・ラマ14世の名言を厳選して収録。
強くて優しいダライ・ラマの言葉。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
尊敬する方からいただきました。
『ゆるしの気持ちを身につければ
その記憶にまつわる負の感情だけを
心から手放すことができるのです。
ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく
「自分を自由にする手段」です。』(本文より)
毎晩祈りを捧げ、懺悔していても、過去の出来事に知らず知らずに拘っています。
言葉の一つ一つが心に沁みます。
チベットに行ってみたくなりました。
Posted by ブクログ
ダライ・ラマ14世の名言集で、「ゆるし」をテーマにしている。書かれている事は、とてもシンプルで、どこかで聞いた事のあるものばかりだが、彼の言葉として聞くと、一言一言に納得してしまう。
ゆるしとは「相手を無罪方面にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。
この一文が特に重かった。ほんと「ゆるし」とは、永遠不変のテーマだと思わされる。
またこの本のもう一つの目玉は、野町和嘉氏による写真が沢山使われている事。写真には、チベットの風景とそこで暮らす人々が収められている。
Posted by ブクログ
ゆるしの気持ちを身につければ、
その記憶にまつわる負の感情だけを
心から手放すことができるのです。
ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
「自分を自由にする手段」です。 (P6)
愛、ゆるし、思いやりにより、
私たちはさらなる希望と決意を手にし、
より明るい未来に向かって進むことができます。
怒りや憎しみに負けてしまえば、道に迷い、
苦痛に満ちた人生を送ることになってしまいます。 (P8)
Posted by ブクログ
東日本大震災がおこる前から読み始めていたが、震災後また読み返した。ダライ・ラマ法王の言葉が、よりいっそう胸に響いた。
他人を思いやることが大切。当たり前のことだけど、ときどき忘れてしまいそうになる。つらいときこそ、もっと恵まれない境遇の人々のことを考えられる人間でありたい。
Posted by ブクログ
読みながらずっと涙が止まりませんでした。
戒律のため朝昼しか食事をとらないけど時々お腹がすいてビスケットなどを食べてしまうそうで、
大変失礼ながら萌えてしまいました。
Posted by ブクログ
うえつじといえば、テンジン・ギャツォが大好きであることで、日本ではつとに有名ですが、今回はそんなダライ・ラマ14世のお言葉を紹介します。
・怒りや憎しみでは、問題を解決することはできません。それらを解決できるのは、思いやりと真の優しさによる癒しだけなのです。世界平和を持続するための手段は、「思いやりによるゆるし」しかない。私はそう思うのです。
・人類、さらにはすべての生きとし生けるもの--人間も動物も--には、幸福を求め平和に暮らす権利があります。これとは反対に、他人に痛みや苦しみを与える権利を持つ者など一人もいません。
・ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」なのです。
・愛、ゆるし、思いやりにより、私たちはさらなる希望と決意を手にし、より明るい未来に向かって進むことができます。怒りや憎しみに負けてしまえば、道に迷い、苦痛に満ちた人生を送ることになってしまいます。
・利己的な考え方は他者を害するだけでなく、まさに自分が望んでいる幸福を阻害します。
・本当の意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど不可能なことだからです。
・私たちは知らず知らずのうちに、愛や思いやり、協力、いたわりといった人間になくてはならない最も基本的なものを育むことを忘れるほどに、物質的進歩に夢中になってしまったのです。
・今の自分の幸福があるのは、すべて他人の勤勉な努力のおかげです。自分の周囲を見回して、住んでいる家も、働いている建物も、使っている道路も、着ている服も、食べている食物も、すべて他人が提供してくれたものであることを認識しなくてはなりません。見知らぬ無数の人々の親切がなかったら、これらのどれ一つとして存在せず、享受することも利用することもできないのです。
・人権は万人共通の関心事です。なぜなら自由と平等、そして尊厳を求めることは人類に本来備わっている性質であり、私たちにはそれを獲得する権利があるからです。
・不幸なことに、最も声をあげられない人々こそが、人権を奪われている人々なのです。したがって、こうした自由を享受している私たちこそが責任を負っているのです。
・どんなにひどいやり方で強制しようと、暴力は人間が根源的に求める自由への願望を押さえつけることは決してできません。
・政治それ自体はなんら汚いものではありません。人が政治をそうしているのです。
・経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。利益を求めてビジネスの世界で関係を築いていくときにも、大義を見失わないことが肝心です。
・怒りと憎しみこそが、私たちの本当の敵なのです。これこそ私たちが全面的に立ち向かい克服すべき相手なのであり、人生に時として現れる一時的な「敵」は真の敵とはいえないのです。
・普段、あなたの怒りが10分間続くのなら、8分に減らしてみてください。次の週は5分に、次の月は2分に減らしてください。そうして怒りをゼロの状態まで持っていってください。そうやって、心を鍛えてください。
・宗教の目的は、美しい教会や寺院を建てることではなく、寛容、高潔、愛といった肯定的な人間の資質を培うことにあります。
・裕福であれ貧しくあれ、教育を受けていてもいなくても、どの国家に、どの宗教に属していようと、どのイデオロギーを信じていようと、最終的に私たちひとりひとりは、他の誰とも変わらないひとりの人類にすぎないのです。私たちすべては幸福を望み、そして苦しみを望みません。
・たとえ過去に深く傷ついたとしても、怒りや憤りを手放すことができます。我慢強さと寛大さでそのときの状況を冷静に分析すれば、「過去は過去だ。だから怒りや憎しみを抱え続けていても意味がない」ということに気付くことができます。
・心の内なる平和と社会的調和を同時に体験するには、物質的進歩に精神的進歩が伴わなければなりません。心の内なる平和なくしては、心のやすらぎが欠けていては、平和を保ち続けるのは不可能です。
・精神的な幸福は、五感で味わう快楽よりはるかに大切なのです。快楽が続くのは短い間ですが、本当の幸福とは長期にわたって続くものです。
・古くからの友人は去ってしまいましたが、新しい友人がやって来ます。毎日の生活と同じことです。古い一日が過ぎていき、新しい一日がやって来る。重要なのは、それを意味のあるものにするということです。つまり大切な友人、あるいは有意義な一日にするということなのです。
・自分の欠点にひとつでも気付くことは、他人の百個の欠点に気付くことより、ずっと有益なことです。
・自信を喪失してはいけません。人間には皆、同じ能力が備わっています。「私は、価値のない人間だ」と考えるのは、間違っています。全くの誤りです。自己を欺いているのです。自信を失い、「私のような者に一体何ができるのか」と思うなら、成功への道は閉ざされてしまいます。
・世界は美しく平和だ、ととらえることは間違っています。この世に苦しみがあり、この世に悲劇があるかぎり、私たちはそれを自分の体験として感じていかなければならないのです。飢えている人がいるのに、自分だけが飽食してはいけないのです。心が痛む現実や、他の人が苦しんでいる状況をしっかりと見据えて、ひとりひとりが考えていくべきです。
・宗教を信じようと信じまいと、思いやりの心は私たちが生きていくのに役に立つものです。なぜなら、身体に調和をもたらしてくれるからです。思いやりの心を育めば心身ともに健やかになれます。
ダライ・ラマ14世も今年でもう75歳。なんとかならんものかしら。中国次第なんだけどね…。う~ん…(-""-;)
Posted by ブクログ
「ゆるす」言葉という題名と著者が「ダライ・ラマ」であるので、読み始めました。
チベットをチベットの人のものとしてあげたいものです。
私が毎日拝んでいる言葉「生きとし生けるものが全て幸せになりますように」は、ダライ・ラマの言葉だったような気がします。
この言葉を唱えるようにしてから、人生が良い方向に動き出した気がします。
Posted by ブクログ
言葉にすると嘘臭く陳腐に感じ、言葉の限界を思い知らされます。それでも目に見える物にすがろうとする自分が嫌になりました。
ゆるす、とはとらわれない事だとも思いました。