あらすじ
名著『ヨーロッパの個人主義』待望の復刊! 世界に凛と立つ日本人の「個」とは。グローバリゼーションが進む現代もなお、日本人は西洋の価値観に囚われてはいないだろうか。〈個人〉や〈自由〉といった周知の概念が、そもそもは「輸入品」である。本書では、日本特有の個と社会のあり方を、諸外国の文化との比較により考察する。いまも強い訴求力をもって読者に迫る、人間の懐疑と決断を真摯にみつめる思想家の原点。1969年の発刊以来、50版近くを重ねた名著がよみがえる。新たに三十ページを加筆した完全版。 「私はこの追加章を、2007年4月、71歳の年齢で書いている。前章までの記述は、33歳の頃であった。しかし、前章までに修正の必要を感じないのは、私が生涯いいつづけてきた個と社会との関係における個人の生き方、人間の懐疑と決断がテーマであったからで、文明や社会の観察はあくまでそれを補強する判断材料にとどまっているからである」(本文より)
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Posted by ブクログ
日本の個人と社会の関係について論じた文化論。この本は1969年に出版された『ヨーロッパの個人主義』という本に加筆修正がなされたもの。西洋が個人主義を旨としながらも集団レベルになると一致団結できる一方で、日本は集団が一見まとまっていながらも同床異夢、呉越同舟である場合が多いが、それはなぜか。
明治維新以降、日本は「自由」、「平等」といった西洋から輸入した概念を用いて近代化=西欧化に邁進してきた。しかし、著者はいわゆる近代知識人が「進歩」、「自由」、「平等」を絶対化し、古い価値観を帰るべきだという態度を頑なに取り続けてきたことを採り挙げ、これを「ヨーロッパを鏡として常に自国を見てきた」と説明する。
彼らは何でもかんでも、日本国内の問題を「進歩」、「自由」、「平等」の徹底で解決しようとし、自国が到達した文明の段階を率直に見るということをしなかった。
日本の一部では他人に迷惑をかけることもまた自由で、教師にタメ口を聞いたり運動会の徒競走で手をつないでゴールしたりすることが平等とみなされる風潮がある。なぜこのような現象が起こるのか。
日本の小集団においては、人間相互の倫理基盤が集団内部の情緒的紐帯(一体感)に依存している場合が多くなる。だから、価値観のすれ違いがあれば、政党から学生運動にいたるまで小集団の分立、抗争(ゲヴァルト)が繰り広げられる。
こうなっては集団内の個人は埋没し、集団の外枠への想像力や構想力が働くことはない。丸山真男の言葉を借りるなら、「タコツボ(自分の所属集団)の外には我関せず」ということか。
さらに、自分の属する小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界に主観的に押し付けるという傾向もある。だから、過去の成功例(日本国レベルで考えるなら、日本海海戦や高度経済成長)にしがみつき、それが通用しなくなればパニック(日本国レベルなら太平洋戦争、平成不況)に陥る。
個人レベルなら「俺はこんなに苦労したんだから、お前が苦労しないのはおかしい!」という奴隷根性を押し付けるようなメンタリティだと説明できると思う。
著者は「新しい歴史教科書をつくる会」のボスでバリバリの右派、タカ派で、基本的に考え方は合わないが、この本の内容には大いに評価できる。