【感想・ネタバレ】「権力社会」中国と「文化社会」日本のレビュー

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Posted by ブクログ 2009年10月04日

この本あんまり人気無いだろうなぁ。
が、著者による日本の「文化社会」と中国の「権力社会」という用語による分析は、一定の賛意が持てる。日本は文化によって政治を語る傾向(例えば三島由紀夫の文化としての天皇論)があるから、加害者と被害者という感覚が「責任」については阻却し、優先して、戦後の歴史も語られる...続きを読むことが多いのだろう、とも思う。
 ま、この本は、中国の知識人で、また日本に住み、その文化にも慣れ親しんだ王 雲海 によるエッセイとして寛容に読むのが妥当だろう。
 日本と中国の関係の是非を観るために読むには、早計な判断が求められてしまうために理にかなった読み方ではないだろう。しいて言えば、靖国の参拝での知識人的中間層の中国の言い分を知るには丁度いい本ではある。参拝について中国の知識人的中間層の眺め方、言い分にも一理はある。
 中国の権力社会については、その延長上で論理を組み立てると、社会主義的市場主義が、中国を席巻しているが、「市場」万能主義は、行き着くところ政府の権力究極なまでの排除という「幸福追求権」に裏打ちされた「自由」主義、すなわち米国モデルと全く同一の方向を目指している。権力社会に対する自己の主張は、米国の自由モデルと同じような社会を作るのではないのだろうかと思える。以下愛国についての本書からの引用。かなり参考になる。

「愛国」の違う形
 中国と日本の間にある「鮮明さ好き」対「曖昧さ好み」という論理方式上の差は、日中の相互認識や日中関係自体に大きな影響をおよぼしているように思われる。
 二〇〇五年春に中国で発生した大規模な「反日デモ」を見て、それを中国政府が行った愛国主義教育の結果であると批判する日本人の研究者は多かった。また、それをきっかけに、中国人、特に最近の若者の愛国心がとても強くて怖いものであると危惧したり、日本人は愛国心があまりにも弱くて困ると襲いたりする日本の政治家や国民も少なくなかった。
確かにここ数年の中国は、愛国教育に力を入れており、学校などの公共の機関や場所で賑やかな愛国教育行事を催したり、最新のIT技術を取り入れて愛国教育のための教材を作ったりしている。また、マスメディアも愛国の素材をよく取り上げている。しかし、精力的に展開されているこのような愛国教育は、果たして日本で理解・想像されているはど「怖い」動機があって、大きな効果を上げているかというと、まったく別である。
  まず、愛国教育自体が、最近になって新たに始まったのでは決してなく、中華人民共和国が成立して以来ずっと続けられてきていることであって、いわば新しい中国政権の「定番劇」である。その動機としては、「外国向け」というよりむしろ「国内向け」の方が大きくて、「愛国」を訴えること自体が、多くの民族、膨大な人口、広大な国土を有する「大国」を統一、統治し続けるための必要不可欠な手法となっている。
 次に、中国は「権力社会」であるが故に、「中国」という国に最も責任を持ち、一番「我が物」として意識しているのは、ほかならぬ権力である。社会や民衆にとって外在的存在であるこの権力こそが、政治活動の一環として「愛国」を呼びかけて、愛国教育の先頭に立っているのである。そのために、中国でいう「愛国」とはまず政治的概念であり、常に「愛政権」と一緒で、両者が未分離の状態にある。愛国教育も、常に大衆政治のなかで政治的に行われるのである。このような「外在的存在による主導」と「政治活動の一部」という二つの性格を有する
中国での「愛国」は、どうしても鮮明さ・賑やかさを伴わざるを得ず、「愛国」かどうかは、中身よりまずそうした鮮明さ・賑やかさで判断されるのである。
 最後に、鮮明さ・賑やかさを先行させている中国の「愛国」は、多くの場合、個々人にとって建前または表の意義をまず有しており、そのまま自分の本音または真にまですぐには到達しないのである。二〇〇五年の「反日デモ」を報道した番組を見た人は、まだ記憶にあるかもしれないが、日本製品のボイコットをスローガンとしたデモが終わった直後に、参加者の一部に「日本製品はもう買わないか」と聞いたら、「品質がよくて値段が安ければやはり買うよ」と答えていたのである。
一方、日本は、果たして一部の政治家などが嘆いているように、国民は皆愛国心が弱く、「日本」という国をもはや愛していないのであろうか。筆者にはとてもそうは思えない。確かに、中国におけるように、権力が先頭に立って、政治活動として賑やかに愛国教育の行事を催すことも、個々の国民が大声で「愛国」をロにすることもあまりない。しかし、これは、日本において愛国教育が一切行われていないこと、日本人の愛国心が弱いことを、決して意味しな
い。逆に、日本における愛国教育は中国以上に巧妙に展開されており、日本の国民の多くが中国人以上に確実な「愛国心」を持っていると見るべきであるように思われる。なぜなら例えば
次のようなことがあげられるからである。
 まず、もともと「曖昧さ」「ぼんやりさ」を好む日本は、特に戦前の軍国主義という経験があったことによって、「愛国」などを語るにあたって、一層「曖昧さ」「ぼんやりさ」に徹するようになりがちである。しかし、これは、愛国教育を行っていないことや「愛国心」がないこ まず、愛国教育自体が、最近になって新たに始まったのでは決してなく、中華人民共和国が
成立して以来ずっと続けられてきていることであって、いわば新しい中国政権の「定番劇」で
ある。その動機としては、「外国向け」というよりむしろ「国内向け」の方が大きくて、「愛
国」を訴えること自体が、多くの民族、膨大な人口、広大な国土を有する「大中国」を統一、
統治し続けるための必要不可欠な手法となっている。
 次に、中国は「権力社会」であるが故に、「中国」という国に最も責任を持ち、一番「我が
物」として意識しているのは、ほかならぬ権力である。社会や民衆にとって外在的存在である
この権力こそが、政治活動の一環として「愛国」を呼びかけて、愛国教育の先頭に立っている
のである。そのために、中国でいう「愛国」とはまず政治的概念であり、常に「愛政権」と一
緒で、両者が未分離の状態にある。愛国教育も、常に大衆政治のなかで政治的に行われるので
ある。このような「外在的存在による主導」と「政治活動の一部」という二つの性格を有する
中国での「愛国」は、どうしても鮮明さ・賑やかさを伴わざるを得ず、「愛国」かどうかは、
中身よりまずそうした鮮明さ・賑やかさで判断されるのである。
 最後に、鮮明さ・賑やかさを先行させている中国の「愛国」は、多くの場合、個々人にとっ
て建前または表の意義をまず有しており、そのまま自分の本音または真にまですぐには到達し
ないのである。二〇〇五年の「反日デモ」を報道した番組を見た人は、まだ記憶にあるかもし
れないが、日本製品のボイコットをスローガンとしたデモが終わった直後に、参加者の一部に
「日本製品はもう買わないか」と聞いたら、「品質がよくて値段が安ければやはり買うよ」と答
えていたのである。
一方、日本は、果たして一部の政治家などが嘆いているように、国民は皆愛国心が弱く、
「日本」という国をもはや愛していないのであろうか。筆者にはとてもそうは思えない。確か
に、中国におけるように、権力が先頭に立って、政治活動として賑やかに愛国教育の行事を催
すことも、個々の国民が大声で「愛国」をロにすることもあまりない。しかし、これは、日本
において愛国教育が一切行われていないこと、日本人の愛国心が弱いことを、決して意味しな
い。逆に、日本における愛国教育は中国以上に巧妙に展開されており、日本の国民の多くが中
国人以上に確実な「愛国心」を持っていると見るべきであるように思われる。なぜなら例えば
次のようなことがあげられるからである。
 まず、もともと「曖昧さ」「ぼんやりさ」を好む日本は、特に戦前の軍国主義という経験が
あったことによって、「愛国」などを語るにあたって、一層「曖昧さ」「ぼんやりさ」に徹する
ようになりがちである。しかし、これは、愛国教育を行っていないことや「愛国心」がないことであるというより、むしろ、大げさなやり方や表現様式で愛国教育をやらない、愛国心を示
そうとはしないこととして理解すべきである。スポーツの試合の湯で相手国の国旗にものを投
げたり、国歌の演奏にプーイングを鳴らしたりするような、中国の一部の若者がかつてとった
無教養なやり方を日本の若者がしないことは、日本の若者に「愛国心」がないことを決して意
味しない。
 次に、日本は「文化社会」であるが故に、「日本」という国から「日本人としての正統性」
を最も多く求め、我が身をそれに合わせようと絶えず努力する必要があるのは、性かでもない
文化とその担い手である民間である。内在的存在である民間こそが、目の前の慣習、慣行、常
識(いわば「文化」)として愛国教育を遂行しているのである。小さいところでは、個々の幼稚
園や保育園や小学校などでの教育活動と行事活動は、事実上愛国教育に通じている。大きいと
ころでは、民間の新開やテレビ、雑籠などの出版・報道活動は、事実上愛国教育の内容を多く
含んでおり、そのような機能を大いに発揮している。しかも、近年、一部のメディアではその
ような傾向がますます強くなってきている。いってみれば、日本での愛国教育は、「愛国」と
いう明白な政治的な形こそとらないものの、民間主導で静かにしかも確実に行われているので
ある。
 そのため、日本でいう「愛国」とはまず文化的概念であって、それは「政治上、特定の政権
を愛する」ことと完全に無関係ではないが、やはり特定の政治態度そのものではない。むしろ、
日本でいう「愛国」は、「愛自己」「愛家族」「愛保育園」「愛学校」「愛会社」などの「愛」と
同質のものであって、それらの「愛」の延長線上にあっての、「政治的でもあれば、政治的で
もない」「公的でもあれば、私的でもある」ような文化姿勢の一種になっている。そのために、
日本でいう「愛国」は、「曖昧さ」「ぼんやりさ」を好むという日本文化の一般的特徴に常に同
調しており、人々はいくら「愛国的」であっても、それをそのまま表に出して、大げさにする
ことをしないのである。
 最後に、文化的な姿勢としての日本の「愛国」は、常に個人と社会、民間と国家の混合牲・
一体性を反映しており、また、個々人の姿勢の表と真の一致性をも表している。そのために、
個々人の「愛国心」は、内面的でありながらも、人々の慣習、慣行、常識に潜んでいる長期的
な姿勢として、安定して存在し続けているのである。


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Posted by ブクログ 2014年10月26日

[ 内容 ]
日本と中国の政治的関係は、なぜ悪化しているのだろうか。
これまで歴史認識の違い、靖国神社参拝問題等々多くの理由が挙げられ、またさまざまな論が出されている。
しかし、そこでは重要な点が見落とされてきたように思われる。
それは日本と中国の社会特質の差である。
日中の社会特質はかなり異なって...続きを読むおり、そこに誤解の根本要因があると思われるのだ。
この新しい視点から、冷却した日中関係を読み解き、さらに共存への未来を探る。

[ 目次 ]
壁は「社会体制」だけではない
壁の原点は「社会特質」にある
「権力社会」対「文化社会」
「政治的外交」対「文化的外交」
「戦略型友好」対「情緒型友好」
歴史問題は本当に重要なのか
南京大虐殺の有無がなぜ議論されるのか
より「愛国的」なのは中国人か日本人か
ODA、円借款は感謝すべきか
脅威になるのは中国か日本か
皆が同じ被害者か
A級戦犯だけが許されないのか
壁を乗り越えるために

[ POP ]


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[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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Posted by ブクログ 2009年10月04日

中国と日本の違いについて。
特に服の色とか小さいころの夢とかがわかりやすくてよかった。中国の人は服の色は派手な色、小さいころの夢は大きな夢、日本はその逆らしい。(大きな夢を持っている人も一部はいるらしいけど)

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