あらすじ
技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。エゴイズムや作為を超えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする文豪露伴(一八六七―一九四七)の傑作。 (解説 桶谷秀昭)
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
めちゃ古い文体(「」ないし、句点も全然ない)で読みにくいぞ〜と思ったが、意外とすんなり読めました。露伴恐るべし。難しい語句は飛ばしましたが。
登場人物がどんどん輪郭を帯びてきたみたいな感じがした。
十兵衛がとにかく五重の塔を建てるぞ!という思い?エゴイズム?を軸に周りの登場人物の人間模様が描かれているので、十兵衛周りの登場人物の方が印象強くなりました。
解説にも書いてますが、ここで描かれているエゴイズムは一貫的ではないので、エゴイズムについて書かれているとは言い切りにくいモヤモヤが残りました…
とはいえのめり込めました。よかった。
Posted by ブクログ
人に勧められて随分前に読んだ本。
文語なのではじめは句点の無い一文の長さに断念したくなるけれど、頑張って読んでいるうちに文語のリズムが心地よくなる。
のっそり十兵衛という人付き合いが器用でないが腕はピカイチという大工と、棟梁の話。
名作。
Posted by ブクログ
源太は驕りはあったものの江戸ッ子でいい奴だから中盤からはちょっと不憫だった
十兵衛は頑固すぎる、嘘つかれて台風の日五重塔行くシーン、まじで飛び降りたらどうしようってハラハラした
急に百鬼夜行始まったと思ったら台風シーンで、すごく良かった、圧巻
美しい文章
最初はちょっと読みにくかったけど慣れる
Posted by ブクログ
古本市で2005年発行のものを読みましたが、読みやすかったです。
いや文章芸術がすぎる、読み始めからわかる七五調のリズムにこれが日本文学かとその力に圧倒されました。感情的にではなくもはや物理的にその美しさを証明してくださいましたね。そして何より鍵かっこがなくても人って描けるのかと、そもそも小説自体書けるんだなと思い、このような文章にはもう二度と出会えないだろうなと思います。いやー日本人で良かった、母国語でこれが読める日本人ほんと贅沢でしょ笑
もちろん内容も素晴らしいですよ、個人的にはタイトルの五重塔が人の誇りだったり欲だったり大義名分だったりいろんな解釈で見れるようになり、これから五重塔を見るたびに職人の魂を感じるのでしょう。そんな思い出に残る作品になりました。エゴイズムで解釈するのもあると思いますが個人的には名誉だと思います。いわゆる人からの承認欲求に近いものだと思います、ありますよね、今まで私生活で蔑まれてきた分、あるいはパッとしない自身の名誉を挽回したいと言わんばかりにSNSにいい写真載っけたりすご技動画投稿したりするのと、あの感覚よりかはもっと高いものだと思いますが、おそらく読んでて気持ちわかるなって現代人なるのではと思います。
主人公の十兵衛ってまさに自分の凄みを出せるそんな機会が欲しかったんだという気がします。今ならYouTubeでいくらでも叶えられそうなので、もし現代に十兵衛がいたらYouTubeでの作品投稿でバスってそうですね笑
Posted by ブクログ
とりあえず表向きこう言っておけば丸く収まるという事を全くしない十兵衛。超絶男気の源太親分。
相反する2人の五重塔普請をめぐる葛藤。
聳え立つ五重塔と魔物に喩えた嵐の描写や人々の感情描写に心が高揚しました。
私は十兵衛にも源太にもなりえないな…。
Posted by ブクログ
訳が古く読みづらい。
にも関わらず、引き込まれる文体。
魂の職人。
東洋版スティーヴ・ジョブス。
何よりも良いものを、後世に遺るものをつくる。
その常軌を逸した姿勢にあっぱれ。
Posted by ブクログ
教科書にも載っている文豪による代表作。文語体で記されているが、文庫本で100ページあまりしかないので読みやすい。一読してまず感じたのは、まるで紙芝居のような作品であるということ。起承転結がハッキリした展開といい、個性的なセリフの掛け合いといい、「読む」というよりは「語る」といったほうがしっくりくる文章だし、名高い暴風雨のシーンも、まるで情景が眼に浮かぶようである。内容は、「のつそり」こと大工・十兵衞が、谷中・感應寺に五重塔が建立されると聞き、師・源太と激論の末にその仕事を勝ち取り、その後紆余曲折ありつつも、一心不乱につくりつづけて完成させるという話である。十兵衞の愚直に仕事に取り組む姿勢が、ただただ美しい。いろいろと衝突してしまうのも、すべては仕事に真剣すぎるゆえ。「のつそり」と呼ばれているほどなので、十兵衞はけっして立派な技術をもった職人でもないし、どちらかといえば醜い存在として書かれている。それでもやはり美しい。「美しい」という言葉がもつ真の意味を、十兵衛はただひたすら大工仕事だけをもって示しているのである。
Posted by ブクログ
日本文学史に燦然と輝く名作。
反面、文語文が難しすぎるとの前評判からやや身構えてましたが、鴎外の「舞姫」や「うたかたの記」などで慣れていたためかさほど難しさは感じず。
ただただ露伴の凄み圧倒されるばかりでした。
Posted by ブクログ
何度読んでも完璧な幸田露伴の五重塔書き出し。日本語の結晶。
“木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用いたる岩畳作りの長火鉢に対いて話し敵もなくただ一人、少しは淋しそうに坐り居る三十前後の女、男のように立派な眉をいつ掃いしか剃ったる痕の青々と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとどめて翠の匂いひとしお床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリリと上り、洗い髪をぐるぐると酷く丸めて引裂紙をあしらいに一本簪でぐいと留めを刺した色気なしの様はつくれど、憎いほど烏黒にて艶ある髪の毛の一ト綜二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかかれる趣きは、年増嫌いでも褒めずにはおかれまじき風体、わがものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢が随分頼まれもせぬ詮議を蔭ではすべきに、さりとは外見を捨てて堅義を自慢にした身の装り方、柄の選択こそ野暮ならね高が二子の綿入れに繻子襟かけたを着てどこに紅くさいところもなく、引っ掛けたねんねこばかりは往時何なりしやら疎い縞の糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来た奴なるべし。”
Posted by ブクログ
エゴを超えた職人の鬼気迫る姿が圧巻の作品。
特に「五重塔を汝作れ今直ぐ作れと恐ろしい人に言いつけられ」の部分は一種悪魔の存在を感じずにはいられない。悪魔や悪を美しいとする作品は他にもあるので、それらと比較して人間の自然に対する超人的な所業と悪魔の存在の関係性を今後考察していきたい。
Posted by ブクログ
昔、大学生ぐらいの頃に読んだ時には読みにくくて難しいなと感じ、30代も半ばになった今になって読み返してみたら面白くて仕方なかった。格段に読みやすくなったというわけではないけど、読み進めることが楽しくて、一気に読み切ってしまいました。
文語体で書かれていますが、言葉の運び方の美しさに加え、絶妙な場所に打ってある読点のおかげもあり、非常に気持ちよいテンポでするすると読める文体です。ただこの文体をスムーズに読んでいくためには、落語のような古典的な言葉運びに慣れているか、あるいは時代小説のような現在では死語となっている単語が頻繁に出てくる作品をそれなりに読みこなしている経験がないと難しいかもしれません。その点で、古典的な日本語力が必要とされる作品だとは思います。
序盤、この岩波版では24ページから26ページにわたり、主人公の十兵衛が五重塔建立に対する自らの思いを吐露する場面がありますが、十兵衛の感情の奔流が圧倒的で、打ちのめされてしまいそうになります。この部分を読むだけで、この作品の底力が分かると言ってしまって過言ではないでしょう。
Posted by ブクログ
五重塔
(和書)2011年10月19日 19:34
2001 岩波書店 幸田 露伴
シーゲルこと飯島先生がお勧めしていた本です。多分全集で読んだらちんぷんかんぷんだっただろう。この岩波文庫版は全てにふりがなが振ってある。吃驚したが、手間が省けて良かった。
建築に関しては必読書だというので読んでみました。
建築関係の小説だったら坂口安吾の「夜長姫と耳男」がかなりお気に入りだよ。
Posted by ブクログ
教科書に出てくる幸田露伴『五重塔』
内容は十分知っている、はず
『五重塔』、教科書の場面は
嵐の中、作りかけの五重塔で
大工十兵衛がすっくと立って、夜叉のように守り通す
が強く残っている
いやいやそれはわたしの理解不完全
読み不足、ポイントはそこにない
技術はあるのに小才のきかないのっそり大工十兵衛が
力量世慣れすぐれている親方・師匠の源太を押しのけて
なんとしても五重塔の塔を棟梁になって作る権利を得たかった
義理も人情もへったくれもない、エゴイズムの
そのすさまじい、ごり押しの場面はサディスティックでもあり
願いかなって塔を作り出していく場面はマゾヒスティックでもあるのである
文豪幸田露伴さんの文学性に不謹慎かもしれないけども
Posted by ブクログ
幸田露伴の本は初めて読んだ。
明治に書かれた小説なので、始めは読むのにやや苦労したが、すぐに引き込まれた。
なんて美しい文体なんだろう。これがわずか24歳で書かれたものとは驚愕だ。
ストーリーはwikiればすぐに出てくるので割愛する。
私には、これが主人公のエゴイズムによる執念とは思えない、一種の魔性だ。
Posted by ブクログ
読んでシマッタと思ったのは、これは文語文? 読みにくい。というより、ワカラン。
出だしはこんな文章です。
「木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用いたる岩畳作りの長火鉢に対いて話し敵もなくただ一人、少しは淋しそうに坐り居る三十前後の女、男のように立派な眉をいつ掃いしか剃ったる痕の青々と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとどめて翠の匂いひとしお床しく……引っ掛けたねんねこばかりは往時何なりしやら疎い縞の糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来た奴なるべし。」(p3)
ふりがなを省いたので、さらに分かりくいですが、ふりがながあっても一度読んだだけではなんのことかワカラン。
繰り返し読むと、どうやら女性の描写であるらしい。
先が思いやられるなあ。
でもまあ100ページ足らずだし、英語で読むわけでもないんだし、なんとか意味は通じるからと思って少しずつ先に進むと、あらら不思議、そのうち慣れて読みやすくなってきた。
話の展開もかなり面白い。
作者25-26歳の頃の作品ということで、露伴はデビュー当時から天才といわれたらしいけど、それはそうでしょうねえ。
坪内逍遙が「文章として絶観なり」と讃えた其三十二の嵐の夜の描写は、それはもう、なんなんだこれはというぐらいに凄い。
また結構笑えるところもあって、なかなか楽しい。
これは新聞小説ということだけど、毎日この濃度というのは、読む方も書く方も凄い。
明治24年(1891年)の作品だから、テレビもラジオもなく、活字だけが娯楽であり情報伝達の手段だったろうから、ある意味当然なんでしょう。何度も何度も読み返され、それに耐えられる文章でなければならなかったはずだ。
いまは新聞小説を読む人なんて少ないだろう。そのうち新聞もなくなるのかもしれない。少なくとも私は家では読まなくなった。職場では情報収集用に読むけど。
ということで、文学史に必ず出てくる有名な作品「五重塔」を読むことができて、よかったと思いました。
Posted by ブクログ
筋はあっさり、五重塔を源太が建てるかのっそり十兵衛が建てるか、に半分以上ページを費やす。文体が素晴らしくテンポよく読める。はじめの1ページお吉の描写があまりにも色っぽくて買った。なれないうちは読みにくいが、テンポをつかめば読みやすい。暴風雨を夜叉に例えた描写はしょうしょうやりすぎではないか。浮いている気がする。
とにかく文章がキレイで読んでいて心地よい。
Posted by ブクログ
建築の職人魂が生々しく描かれた小説。その性格から「のっそり」と呼ばれる職人が、命をかけて五重塔建築という百年に一度の仕事に取り組む。2時間ほどで読めてしまう。
Posted by ブクログ
文体は、ある種の謡曲調というか、リズムで読んでいく感じでしょうか。現代人には少し読みにくいかもしれない。
のっそりが何故あそこまで頑固なのか、宗教心からなのか、それはよく分からない。
源太のほうが執着を捨てて仏心に目覚めていくという話のほうが実はメインのストーリーなのかもしれないと思った。
Posted by ブクログ
文語体で読みづらく、内容を理解するのに一苦労。
でも文章のリズムは良く、ちょっとユーモアも感じられました。
「のっそり」は生きるのが下手くそすぎるので、情熱を注いで良い仕事ができる人なのにもったいないなーと思いました。
Posted by ブクログ
横山操が書いた「塔」は、谷中「天王寺」のやけ倒れる五重塔を、勇猛な姿として書いた。
僕はその絵をテレビで見たあと、実際に谷中まで出かけた事がある。
もうそこには五重塔はないなと思いながら、歩いていると、その静かなお寺に黙る大仏様がにょっきりお寺顔を出してびっくりした、
上野の山からも近く、昔は人の行き交う一角だろうと思わせるこの界隈に昔は立派な五重塔が立っていたのかと、十兵衛の心意気まで残るよう。
十兵衛は生真面目じゃなく愚鈍なのがいい。
口だけで世渡りすることは、毛嫌いする割に人間誰しも大小の処世術を持っている。
愚鈍は愚鈍で遅く考える。
遅く考えるということは、早合点しない。
今いる場所に安住し「自分の人生はこれでいいのだ」と早合点しない。
早く効率的に考える現代は折り合いをつけたもの勝ちと思うというのも早合点。
遅く考え、遅く答え待つ。
Posted by ブクログ
読みにくいったらありゃしない
内容は面白い!面白いんだけど、、、本当に文語体苦手すぎて(舞姫とかも読めない笑)
主人公のエゴは何かに取り憑かれた感じがあり、狂気を感じた。
Posted by ブクログ
坪内逍遥や二葉亭四迷を日本近代文学の嚆矢とするならば、次に来るのは明治20年代、紅露時代とも称された尾崎紅葉及び幸田露伴の名前が挙がる。私も近代文学に漠然とした興味があり、坪内逍遥やら二葉亭四迷の小説を読んではいたが、尾崎紅葉も幸田露伴も読んでいなかった。明治時代の小説は読み辛いからだ。大正時代というと谷崎潤一郎や武者小路実篤など、比較的読みやすいイメージがあるのだが、まだまだ文語の抜けきらない明治期の文体は、近代文学の奥深く、容易に立ち入らせてはくれない魔窟の様相を呈する。まして『金色夜叉』『五重塔』という表題からは、四角四面な印象を受け、難しいだろうと避けていた。
それでも何とか読むぞと謎の意気込みで、とりあえず薄いし読めるだろうと買ったのが、この『五重塔』。
読み始めるとストーリーも明快だし登場人物も分かりやすく、文章はもちろん読み辛いが勢いもあり、結構楽しめた。
技術には長けているけど愚鈍に見える大工の十兵衛が、既に能力実績人望アリの完璧人間である源太が建立することが決まっていた五重塔を、自分に造らせてほしいと懇願する。ドラえもんの、のび太と出木杉みたいな感じ。源太(出木杉)は十兵衛(のび太)の熱意もあり、一緒に造ろうというのだが、十兵衛はこれに否という。それならお譲りしますと。十兵衛を主担当とするといっても、それも否。源太は大人の対応で十兵衛一人で造ることを容認し、今まで集めた図面やら何やらを提供してやるという親切心を見せるが、十兵衛はそれすら拒んでしまう。
譲ってもらったくせにその後の善意まで蔑ろにするさまは、私が源太の立場だったら(そもそも自分に十兵衛に譲るだけの心の広さがあるか疑問だが)確実にブチギレだろうと思う。それくらい、まるで何かに取り憑かれているかのような、五重塔に対する十兵衛の執念。職人気質ともちょっと違う。まるで人智を超越した何かに操られるかのようだ。
何をも顧みず一つのものに打ち込む様は、サン=テグジュペリ『夜間飛行』やジブリ映画『風立ちぬ』などで触れた。格好いいと思う気持ち、非情な様に対する複雑な気持ち、自分がそもそもそういった葛藤を抱くことがないという安心あるいは空虚な気持ちを味わった。
だが、この小説を読んで感じたのは、激しい熱意の根源が、自分の外側にあるのではという違和感。何だか霊的なものがどうといったオカルトな話をしたいわけではないのだが。職人として生まれた自分の、世界に対する責務とでも言ったらいいだろうか?
Posted by ブクログ
安藤忠雄さんの本で薦められたので読んでみた。
十兵衛の執念が嵐に乗り移った描写は圧巻。ただ、自分にはこの昔の文体は読みにくさが半端なく、全て理解できないのがかなしい。。
Posted by ブクログ
寡黙で芸術家肌の十兵衛と、義理堅く面倒見がいい源太、2人の大工の五重塔の建立をめぐる物語です。
谷中の寺にて五重塔が建立されることが予定されていた。
世間に鈍と揶揄されるが、丁寧な仕事と高い技術力を持つ大工の十兵衛は、その仕事をやり遂げたいという強い思いに苦しめられることになる。
本来なら、その施工は源太が請け負う予定だった、また、十兵衛は源太に日頃お世話になっていたが、十兵衛は上人に熱意を伝える。
源太は十兵衛に一緒に作ることを提案するが、十兵衛は一人でやり遂げたいと頑として聞かない。
当時の日本はまだノベルの黎明期だったにもかかわらず、戯作文学の名残を感じさせない、現代の小説に近い内容を感じました。
「、」や「。」の使い方が今とは違い、また、文体も難しく、読みづらいと感じるところもありますが、戯作文学のような韻やリズムを持った文章ともなっておらず、著者の意見を全面に出さないため、比較的読みやすい作品でした。
筆者の意見や戯曲のように会話だけですすめる部分も少なく、写実主義作品であることを改めて感じることができました。
また、実直に仕事に打ち込めば素晴らしいものができ、その結果はいがみ合っていたすべてを丸く収める力があるという点、理想主義を理念として掲げた幸田露伴らしさも感じる作品です。
それほど長くなく話もわかりやすい、読みやすい作品だと思いました。
Posted by ブクログ
今月の千年読書会・課題図書、ちょいとタイムオーバーになってしまいました。
ざっというと、谷中感応寺への「五重塔」の建立を司る大工の匠頭候補となった二名の腕利きの大工の、ちょっとしたボタンのかけ違いからくる群像劇、といった感じでしょうか。
一人は十兵衛、大工としての卓越した腕を持っていますが、気難しさ(不器用さ)ゆえに、社会的には不遇で、奥さんにも迷惑をかけているとの自覚もあります。
もう一人は、源太。大工の腕で十兵衛に劣るわけでもなく、人柄もよく、周囲を動かして大規模な建築もこなします。いわゆるマネジメント力も十二分に兼ね備えつつ、イマイチ社会になじめない十兵衛の面倒も見ている、親分肌ないい男。
元々は、感応寺を建立した源太に依頼があった「五重塔」の追加案件、普通であれば源太の差配の元で建立が進められるはずでしたが、、そこに十兵衛が自分の腕を不器用ながらに売り込んでくるところから、物語が動き始めます。
塔の発注者となる上人の慈愛、「二人で納得するように話しあいなさい」との気持ちはよくわかります。恐らくは、不遇をかこっている十兵衛に花道をつけてやってくれとの、源太への期待もあったのでしょう。そんな上人の優しさを両名ともにどことなく感じとっているだけに、二人ともが懊悩します。
十兵衛は、日頃世話になっている源太の顔を立てたいと考えながらも、技術的には己の方が!との矜持から逃れられず。源太も、腕では負けているつもりもなく、感応寺本体を建てたとの矜持も持っています。それでも男気から、最終的には十兵衛に全てを譲ります。
その源太、時に譲られた十兵衛のあまりの融通のきかなさに対し底知れぬ怒りを覚えながらも、それを押し隠し、職人としての自信も棟梁しての矜持も捨てることなく、十兵衛の仕事を見守ります。それが発露するのはクライマックスの、街が大嵐に襲われた日の、二人のふるまいでしょうか。
どちらもが職人としての矜持を持っているのは同じ、その発露の仕方がちょっと違うのかなと。それを知ってか知らずか上人がうまく大団円にするのは、なるほどなぁ、、とも思いました。
なんて思いながら、自分の周辺を眺めてみると、、“技術”さえあれば何をしてもいいとの風潮は、現代でも確かにあるな、と。今仕事をしている業界ならではってのもあるかも知れませんが(ICT業界)、時に結構なクレームにつながることもあります。そういった意味では共感を覚えるのは源太の方だったりも。
ん、技術は大事ですが、技術だけではやっていけないと、そんな風にあらためて感じた一冊でした。
Posted by ブクログ
言葉と音がとても美しく、音読をするのにふさわしい物語だと思う。
紙芝居を聞かせてもらっているような、先が気になるような展開になっていて、シンプルで流れるようなリズムの良さがある。
この小説は、個人という枠を超えて、人はどこまで芸術に殉じることが出来るのだろうかということを問いかけている話しなのだと思った。
十兵衛の、立派な五重塔を自分の手で建てたいという思いの強さは、職人的でもあるけれど、それ以上に、この孤高さはやはり芸術家の精神なのだろうと思う。
芸術家の魂を持つものの常として、中途半端な処世とは相容れることがない。逆にいえば、現実的な処世を考えることがないからこそ、一念を貫いて、余人には真似の出来ない作品を創りだすことが出来るのだという気がする。
時代は違えど、ここで語られている芸術への情熱というのは、現代でもあてはまる普遍的なテーマなのだと思った。
上人これを熟視たまふに、初重より五重までの配合、屋根庇廂の勾配、腰の高さ、樽木の割賦、九輪請花露盤宝珠の体裁まで何処に可厭なるところもなく、水際立つたる細工ぶり、これがあの不器用らしき男の手にて出来たるものかと疑はるるほど巧緻なれば、独り私に嘆じたまひて、かほどの技量を有ちながら空しく埋もれ、名を発せず世を経るものもある事か、傍眼にさへも気の毒なるを当人の身となりては如何に口惜しきことならむ。(p.28)
下げたる頭を徐に上げ円の眼を剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衛心になつても副になつても、厭なりやどうしても出来ませぬ、親方一人で御建てなされ、私は馬鹿で終わりまする、と皆までいはせず源太は怒つて、これほど事を分けていふ我の親切を無にしてもか。(p.54)
十兵衛不興気の眼でぢつと見ながら、ああ構ふてくれずともよい、出ては行かぬは、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするやうな脆いものではござりませねば、十兵衛が出掛けてまゐるにも及びませぬ。(p.109)