あらすじ
仏教宗派のなかでも禅は欧米にも広く伝わり、アップル創業者故・スティーブ・ジョブズも熱心な信徒だったことが知られている。そんな禅の魅力とはなんだろうか。中国唐代の高僧は「生活のすべてが禅である」としている。生きるということは「気づき」の連続、積み重ね。日常に目を凝らし、耳を澄まして生きることができれば、それはそのまま「禅的な生活」となる。本書では禅の歴史から、その教え、滋味あふれる言葉の数々、坐禅の方法までを紹介。
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Posted by ブクログ
【読もうと思った理由】
「禅」について学びたいと思い、最初として分かりやすそうだったので読みました
【感想】
初心者には分かりやすい内容で、禅の歴史や言葉、考え方や捉え方など、広く浅く知ることが出来て良かったです。禅について考えるきっかけとなりました。
【以下、本文で気になった箇所をメモ】
「禅定(ぜんじょう)」という言葉がある。
思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るための修行法。精神を集中し、 悟りの境地に達することだが、これは、仏教の開祖である釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたときからある言葉だ。つまり、釈迦は「禅定」によって悟りを開いたわけである。
この「禅定」に深く着目し、体系化していったのがインドの達磨大師であり、 中国の臨済なのである。
中国における禅の開祖は達磨大師である。達磨は仏教の生誕地インドからやってきた僧で『景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)』などによると、6世紀ごろに中国の梁の国に上陸したということだ。
達磨の前で自らの腕を切り落としてまで「弟子にしてくれ」と頼み込んだ慧可(えか 487年~593年)その次の世代である僧璨(そうさん)さらに次の道信(どうしん)へと禅の教えは伝えられていく。
この時代の禅は「一弟子相伝」の形をとった。つまり、一人の師匠から一人の弟子に手渡しで伝えられていったのだ。
そして、6番目の世代と言われる慧能(えのう 638年~713年)の時代に禅は「禅宗」として確立されるに至る。
中国禅宗五家(臨済、為仰、曹洞、 雲門、法眼)
仏教には「唯識論」という言葉がある。人間を形作っているすべての要素は、 たった8種類の「識」によって成り立っているという大乗仏教の考え方である。
「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」。これで五識。さらに「意識」だ。これで六識。その次に「末那識」と「阿頼耶識」。これで八識である。
六識めの「意識」 はすこし複雑で、仏教では「五倶の意識」と「独頭の意識」の二つに分類する。 五倶の意識とは眼・耳・鼻・舌・体の「五根」、つまり五つの感覚器によって取り込んで起きる心の作用。独頭の意識には「夢中意識」「独散意識」「定中意識 」の三つがある。「夢中意識」とは文字通り睡眠中に起きる心の動き。「独散意識」は 記憶の再現や空想するときのような心の状態を言う。「定中意識」は禅修行中に意識が統一されて起こるものだ
「末那識」とは今でいう潜在意識とだいたい同じようなものであろう。心臓の動きのように、自分ではうまくコントロールできない意識のことだ。
その次にくる「阿頼耶識」は「根本識」ともいわれるもので、語源をたどると梵語の「蔵」の意味にたどり着く。これはDNAの中に記憶された太古の意識を含むすべての経験を貯めこんでおく蔵だ。
「望みを捨てる」ことが禅の目的ではない。一切の妄念から離れること。つまり「無念無想」の境地に達することを究極の目的としている。
人間はいくつもの枷に縛られて生きている。この枷をひとつひとつ丁寧にほどいていくのが禅の修行だ。
中国唐代の名僧・趙州が師匠に「先生、道とはどんなものでしょう」と問うたことがある。師匠は「平常心是道」と答えた。いつもの心こそ道であるというのだ。「無心になれ」という意味である。
沢庵和尚は言っている。
「無心にならなければ道は得られないが、無心になろうとしている間は、やはり道は得られない」
ただひたすらに修行するうちに、ふと無心になるのだ。
心を無にする。心は自分自身の中にある。沢庵和尚の教えを極めた柳生宗矩は、 晩年に次のような言葉を残した。
「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」
禅修行に欠かせない3つの事柄
「無」「空」を目指す禅の世界では、教えを「文字」に残すということをよしとしない傾向がある。また、学ぶ方も「読むより座禅」を尊ぶ傾向がある。とはいえ、やはり宗教の教えに経典はつきものだ。
まず挙げておきたいのが、4世紀の後半から5世紀にかけて生きた鳩摩羅什の存在だ。多くの経典を中国語に訳して紹介した功労者である。 鳩摩羅什の訳したもののうち、禅の経典として有名なのが『坐禅三味経』の三巻だ。
その教えによれば、禅の修行には「声聞道」「縁覚道」「仏道」の3つがあるという
声聞道とは、仏の教えにただひたすら従って、煩悩を遠ざける道。
縁覚道とは、師につかず、自身の中の煩悩を断ち切る道。サンスクリット語の Pratyeka buddhaの訳「縁覚」を目指す道。
仏道とは、自利・利他の菩薩の修行を収めて自らを高めようとする道。
達磨の一番弟子である慧能は坐禅修行によって「無相・無念・無住」になることが肝要だと説いた
無相とは外見にとらわれないこと。
無念とは外界の刺激に惑わされないこと。
無住とはすべてに執着しないこと。
まさにこれが禅的な発想だ。中心にあるのは今の自分である。
座禅の基本は「調身」「調息」「調心」の三つ
禅の瞑想法は「感情と痛みを制御する脳の一部を分厚くさせ、 苦痛を抑制させる」とする研究結果が、アメリカの心理学会機関誌の『Emotion』に発表された。
坐禅を会得するならば、八風がふいても自分を見失うことはないだろうとの思いを得ることはできる。 すいき ほまれ しょう そしるらく八風とは「利」「衰」「毀」「誉」「称」「護」「苦」「楽」の八つ。
利は利益のこと。
衰はおとろえ。
毀は人を非難すること。
誉は逆に褒めること。
称は人前で褒めること。
譏は面と向かってそしること。
苦はままならないこと。
楽はのぞみがかなえられること。
これらの八風を感じないようになるまでに修行によって人間を掘り下げる。それが禅寺での生活なのである。