【感想・ネタバレ】親鸞のレビュー

あらすじ

人はだれしも存在の不条理や不安を抱えながら生きざるをえない。だからこそ、その人生を心底納得して死んでゆくための物語=宗教が必要とされる。親鸞とは、何よりも、「末法」という大転換期にあって、その時代に生きる人々が切に必要とする新しい「物語」を、仏教の中から引き出した人であった。ひたすらに念仏することを説いた法然の教えを伝承し、なぜ念仏すれば仏になることができるのか、人間の真実に照らし、その根拠を明らかにしようと努めたのである。親鸞の手にした「信心」の全貌を、現代に生き生きとよみがえらせる一冊。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

感情タグはまだありません

Posted by ブクログ

宗教学者の阿満利麿が法然や親鸞の浄土仏教についてやさしく解説したものである。とくに法然の南無阿弥陀仏の専修念仏や他力本願(本書でこの言葉は使っていない)の思想を親鸞がどのように引き継ぎ深めたかを分析している。
親鸞の凄まじい生涯を貫いた信仰の形成・実践過程を繙く価値ある一冊であった。

「はじめに」で、人は誰でも普段の考えではどうしようもない手に余る問題を抱えている。その解決に正面から向かう場合には「宗教」という「物語」(新しい説明とか意味付け)が必要になる。死を恐れるのも断末魔への恐怖や肉体的苦痛よりも自己が死ぬという事実を納得する「物語」が見えないからである。死をふくめてさまざまな限界状況に対して「意味づけ」をする、しかも「究極的な意味づけ」をするのが宗教の重要な役割で、「心底」納得できる「意味づけ」、それが「宗教」なのだという。

それまでの仏教は鎮護国家で国家(天皇)に奉仕するものであったが、法然の浄土宗は国家から独立した最初の宗派であった。法然は中国の浄土教思想家善導(道綽の弟子)を研究・傾倒し、遊蓮房円照の臨終に立ち会い専修念仏の真理を悟る。一切の生きとし生けるものが仏になる道を阿弥陀仏の本願に見出した。

親鸞は聖徳太子ゆかりの六角堂で救世観音のお告げにより、妻帯を認める真の菩薩=法然に出会う。
以後「愚禿親鸞=僧にあらず俗にあらず」の在家仏教徒の道を歩む。末法時代の唯一の仏教の道は阿弥陀仏信仰であるとする道綽の思想を体現し、法然の教えを引き継ぎ身をもって発展させた。

深刻な「煩悩」に正対(自覚・考察)し、「煩悩」から逸れられない「凡夫」こそ南無阿弥陀仏を称えて仏になる。正法や像法の時代は修行をして悟りを開く聖道門(従来の仏教、聖人修行者のための仏教)だったが、末法の時代は在俗の愚かな人間こそ阿弥陀仏を称えれば仏になれる浄土門が相応しい。

自分のための「信じ方」、この自己中心性から人を解放するのが仏教である。仏教で強調しめざすのは「清浄心」であり、煩悩から解放された心、とりわけ自己中心性をまったくもたない心である。しかし凡夫は自らの意思によっては「清浄心」である「信心(まことのこころ)」を起こすことはできない。それは自分の意思をはたらかして起こす心ではなく、仏から与えられるものであり、あらたに「獲得する」ものである。

煩悩に塗れた自己中心から「仏心」である「信心(まことのこころ)」を得るためには、阿弥陀仏が「我が名を称せよ」と要求している理由を考えること、そのいわれを「聞い」て中身を吟味して心底から「納得」することが重要である。阿弥陀仏の象徴的な物語を貫く道理に頷くという段階が「聞く」ということであり、この過程を経て「疑いのない心」になったとき、それが「信じる」という行為になる。阿弥陀仏の誓願の吟味、心の底からの「納得」が不可欠なのである。

人間は全身をあげて「妄念」のとりこだと自覚したとき、そのような人間にも可能な救済方法として「阿弥陀仏の名を称する」という行があることに思いいたる。

『大無量寿経』四十八願のなかの十八番目の誓い、「わが名を称する者はいかなる存在でも、わが浄土に迎えて仏とならしめる」による。いかなる人間でも、善人・悪人を問わず、老・少、男・女を問わず、「南無阿弥陀仏」と称すれば、阿弥陀仏の浄土に生まれて仏になることができる。

「わが名を聞け」「わが名を称せよ」という方法が普遍的な救済方法となり、阿弥陀仏の人間の心への深い洞察が「南無阿弥陀仏」という称名の仕方を生み出した。

ひとたび「信心(まことのこころ)」に火が灯ると、凡夫といえども、仏に対する絶対帰依の心が生じ、仏道を歩みはじめる。

「南無阿弥陀仏」の「南無」は阿弥陀仏が私をして「帰依せしめる」、あるいは「念仏するように命じる」ということであり、阿弥陀仏の人間の心への深い慈悲心や洞察によるものである。

親鸞は晩年にいたってもなお、「愛欲」と「名利」と「不信」という煩悩に向きあわねばならなかったのは、ひとえに、親鸞において「仏心」である「信心(まことのこころ)」が屹立するようになったからである。
「信心(まことのこころ)」が深まれば深まるほどに、自らの罪業に気づき、深い「懺悔」を繰り返していくのである。親鸞の心はけっして燈明とはいえず、その死相もまた悪相であった。

凡夫の身であっても「信心(まことのこころ)」を得ると、人は関係性のなかにあるという、仏教の根本義である「縁起(あらゆるものは相互に関係しあっているという事実)」に目覚めることができる。それが「ともがら」を支える、もう一つの理念である。
「信心(まことのこころ)」をえたものは、その教えをまだ念仏を知らない人々のために広めたいと思うようになる。

阿満利麿の文章は丁寧でわかりやすい。
親鸞の性欲問題、法然と親鸞の関係、法難の経緯、善鸞の義絶、煩悩に塗れた入寂等々について、
微妙な論点も諸説を意識してバランスよくまとめている。

0
2026年02月23日

Posted by ブクログ

南無阿弥陀仏と称えることにより、人は、浄土に迎えてもらえるというシンプルな教義の浄土教。

親鸞が善き人として教えを請うた法然との出会い、その後の宗教生活を綴った作品である。

作者があとがきに書いているように、親鸞に関する伝記ではない。

親鸞が手にした「信心」(まことのこころ)の世界を、作者も追体験したいと書かれた作品である。

浄土宗、浄土真宗という既成概念にとらわれることなく読める内容と生っている。

「南無阿弥陀仏」に秘められた重みを知らされた作品でありました。

0
2011年09月12日

Posted by ブクログ

人間とは、限界状況に近づくほど意味を求める存在であり、だからこそ人々にはひとつの主観的事実としての宗教が求められると著書に述べられています。日本では無宗教の方がむしろ普通であることのように思われますが、大切な人を亡くし、死後の世界を考えるにつけ、今をどう生きるべきかを深く考えさせられます。それを宗教と呼ぶのか分かりませんが、ひとつの物語=宗教としての親鸞の教えに興味を持ち、本書を手にとってみました。

人の心にある我執や我欲は人間の性であり、煩悩に支配されているもの。親鸞は、そんな自分のダメなところを素直に認めながら、法然との出会いによって念仏の教えに遭い、「信心(まことのこころ)」を説いたそうです。

とはいうものの、親鸞は自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、不明確な事柄が多いなかで、阿満先生(実は自分の大学の学部の教授でした・・)の描いた親鸞像は非常に見事で、特に「信心」についての洞察は、悔いのないように生きていくうえでの原点を気付かせてくれます。

2011年は法然800回忌、親鸞750回忌に合わせての発行なのでしょうか、宗教については詳しくなくても、非常に分かりやすく書かれている点少しでも興味を持たれたら一読に値する良書だと思います。

0
2011年01月29日

Posted by ブクログ

「信心」(まことのこころ)を中心に、親鸞の生涯と思想をわかりやすく解説している本です。

本書では、親鸞の「信心」を唯識思想によって解釈した曾我量深の考えにしたがって解説がおこなわれています。唯識思想では、「迷い」の原因である「識」(心)について精緻な理論が展開されています。そこでは、法界から流れ出る教えを聞くことで「識」が「智慧」に転じる「聞薫習」が説かれます。そして著者は、阿弥陀仏の本願を「聞く」ことがまさに凡夫にとって「信心」を開発することにほかならないというのが、親鸞の教えだったと解しています。

さらに、「信心」を獲得することで、自分の心のなかに生じてくる善悪を引き受けながら阿弥陀仏の事業に参加することが念仏者の生きがいになると述べられ、二種廻向論へのつながりが示されます。そして、必ずしも教団の形をとることのない、「信心」の「ともがら」の間に生まれる「宗教的倫理」の可能性にまで、説きおよんでいます。

そのほか、84歳になって親鸞が直面しなければならなかった善鸞蘭義絶事件や末法観についても、比較的ていねいに解説がされています。

0
2017年12月03日

「学術・語学」ランキング