あらすじ
著者は、世界の宗教史でただ一人あげよ、といわれたら法然をあげるという。なぜか。一言でいえば、「凡夫」のための宗教は、法然を持ってはじめて世に出現したからである。「凡夫」とは、「自己中心性」から逃れられない人間のことである。自己のためにはすべての欲望が総動員される。神仏を祈願するといっても、内容は、是が非でも自己の欲望を遂げようという脅迫であることも少なくない。「凡夫」に救いはあるのか。あるとすればいかなる教えなのか。この世の一切の営みを超えた宗教的価値の絶対性をはじめて明確に主張した法然の革命的意義を新たな視角から解き明かす。
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Posted by ブクログ
阿満利麿が書いた法然の専修念仏・浄土教についての論考は全編に気迫がみなぎり、わかりやすく読みやすい文章で要領よくまとめた傑作である。
「法然・親鸞を一体とみた日本精神史のなかでの専修念仏の異端性、そして倫理道徳、政治、死者祭祀、神祇崇拝などから超越した宗教的価値の絶対性を主張した点と救済原理がすべての人々に開かれた普遍性を持っているということで、法然をもっとも革命的なラディカルな人物とみる」と「はじめに」でいう。
先ず、日本の仏教伝来から紐解く。
538年か552年、百済国の聖明王から「釈迦仏」の仏像等を送られた欽明天皇は自ら祀ることの可否を臣下に問う。多くが「国つ神」を恐れて反対、蘇我大臣稲目だけが賛成したので天皇は彼に祭らせる。仏教が天皇家に正式に受け入れられるのは100年後、推古の次、舒明天皇になってからである。欽明が早速に受け入れず傍観者、中立の立場をとり舒明まで歴代曖昧な態度をとったことで「神仏習合」を生む。
仏教は祖霊信仰や祖先崇拝の一翼に組み込まれ、従来の祭祀にはない威力を発揮するものとうけとられた。一方、今までの神々にはない高い神性を持つものとも意識された。身近で親しみのある特殊な神と普遍的な神仏の二重構造で成り立ち、「人々は仏に直接祈願するよりも、神を通して仏に接しようとし、仏もまた衆生に直接示現するよりは神を通してその慈悲を垂れようとする」、平安中期には本知垂迹論が生まれる。
この二重構造を破り、仏教が普遍に直結することを教えたのが法然の専修念仏であった。
今生きている自分の究極的な安心を解き、この解脱には特別の修行や積善や能力は問わない(苦行主義との決別)という。法然はすべての人に開かれた易行の専修念仏とその念仏の背後にある阿弥陀仏の本願という救済原理を明らかにした。
彼は中国の善導に傾倒して阿弥陀仏の誓いを信じて念仏をする教えを開く。本願念仏ではじめて道徳、倫理など世俗の一切の価値を超越した「宗教」を手にすることになった。<宗教的価値の絶対化>であり、法然の革命的意義である。
悪を犯さずには生きられない人、我執の欲望が渦巻く煩悩の人、自己に執着し快楽を求めて生きる人などの凡夫を救済するのが主眼である。「法華経」読誦の人は「善人」であり、凡夫の自覚が足りず自己本位の悪に気づくのはよほどの自己凝視がないと不可能である。知識人や政治家、努力家のような自負心の大きな人も凡夫の自覚を持ちにくく、自己認識の甘さが作善を許し専修念仏を妨げる。作善主義との決別である。
阿弥陀仏の本願に順じた念仏だけが凡夫の往生を保証する。臨終の時は阿弥陀仏が観音をはじめもろもろの菩薩を引き連れて来迎するので「おおいなる喜び」が生じる。法然浄土教は呪的人師「人神」を原理的に克服した日本におけるはじめての宗教である。
呪術的思考は人間の欲望の直接的な投影であり限りない不安を生み続け不自由で暗い。阿弥陀仏の本願には人間の欲望が関与できる余地は初めからまったくなく、人間がそれを信じるか信じないだけである。
取引の余地などなく超越的なのだ。
道徳的抑圧からの解放、そもそも阿弥陀仏の本願の無条件絶対性に道徳的条件をつけるのが間違い。
親鸞の「自然法爾じねんほうに」の法語について。
自然は「おのずからしからしむ」、念仏者の往生は阿弥陀仏の誓願によるもので、人間の力ではない。
法爾は「名号の徳がしからしむ」、南無阿弥陀仏という名号の力で凡夫が往生するさまをいう。
阿弥陀仏は凡夫が「無上仏」という根本原理にいたる手段である。
これは仏教真理の二重性で、人間が宗教的要求に応じる形象をもっていることと人間の認識の及ばない超越性のあり方で、大乗仏教の典型的な思考法である。
仏教の教える根本真理のありようが「自然」で人間の分別を超えている。つまり人間の思惟、認識が及ぶことができないという意味で「超越的」ということである。「自然」のはたらきは仏の知恵をもってのみ理解できる性質のものであり、凡夫にとってはどこまでも「不思議」(思議することができない)といわねばならない。
阿弥陀仏の誓願を信じわが身の往生を確信し、なにものにもさえぎられない精神の自由を手にしたものが、現実社会でどのように生きていくかということこそがそもそもの問題なのである。
「神祇不拝」、阿弥陀仏以外の仏や神々を拝むことは否定する。日本人は法然の出現によってはじめて伝来の神およびそれと習合した仏教のあり方を原理的に否定することになる。
法然の専修念仏は鎮魂慰霊の念仏と決定的に異なる。しかし死者祭祀を否定したのではなく死者との新しい関係を見出した。死後自分を弔う人がいたとしてもその人間の供養をあてにしなくてもよい。自分のための念仏に精をだすことで自分のなかにすべての人を自在に救いたいという願いがあることに気づくのである。
両親のために念仏を唱えない、自力の念仏の無効性こそ従来の鎮魂慰霊の念仏を否定する根拠である。
法然浄土教の思想と哲学的考察が克明に解説されている。関連の本を少し読んでいたこともあり、法然と浄土宗の理解が大きく進む論考であった。
読むほどに、浄土教教義の論理的で精巧な全体系に
他力の絶対基準で組み立てられた壮大な建築物を見上げる気分になる。その前でそびえる天蓋に目が眩む
自己存在の卑小さも痛感させられる。
わかることと信じること、哲学や思想と宗教について、人生にとっての意味を考えさせる作品である。