あらすじ
人間関係が固定的で、個人の責任とは集団の中で与えられた役割を果たすこととみなされる「武士道型」の社会から、グローバル化によって人間関係が流動的な「商人道」型の社会に移行している現代においては、個人の責任は自らの自由な選択に対して課されるようになる。このような時代にフィットすると思われる思想はリバタリアンの自由至上主義であるが、リバタリアンは福祉政策にも景気対策にも公金を使わないことを主張することが多い。これらの政策はいかにして正当化されるのか。また、様々な文化的背景を持つ個々人の「自由」の対立は解決できるのか。かつてマルクスは、文化の相違をもたらす、人間のさまざまな「考え方」による抑圧を批判し、単純労働者による団結・調整により自由は現出すると考えたが、労働の異質化が進んだ現代ではその展望は実現しない。しかし、アマルティア・センの提案が大きなヒントになる――。俊英の理論経済学者が、現代の新たな自由論を構築する。
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Posted by ブクログ
「自由」をめぐる錯綜した問題を解きほぐし、新自由主義と排外主義、リベラリズムとリバタリアニズムとコミュニタリアニズムの相克を乗り越える道を探る試みです。
本書の最後に提示されている「培地/ウイルス」のモデルは、多くの示唆を投げかけているように感じました。私自身は現代の政治哲学ではローティのプラグマティズムにもっとも共感を抱いているので、「培地」の厚生に寄与するウイルスの自由な創意を活かすという考え方そのものは、受け入れやすいように感じています。
ただ、そこに至るまでの議論の道筋が、どうもクリアには見えてこないように感じています。著者は、「ウイルス」を行動原理ないし考え方とする一方、「培地」を「生身の個人」としています。これは、個々の文化における価値観が当該文化において抑圧されているはずの人びとの意識にも入り込んでしまっているというケースがしばしば見られ、文化的価値の相対主義の主張が、そうした抑圧構造の維持にむしろ手を貸すことになってきたということへの反省に基づいています。その上で著者は、マルクスの疎外論を援用しながら「生身の個人」という概念を設定し、この「生身の個人」の厚生を最大化する行動原理を求める自由を確保することをめざしています。しかしこうした著者の議論は、「生身の個人」の幸福をアプリオリな原理とみなしているのではないかという批判を招くのではないかということが気になってしまいます。
他方で著者は、「生身の個人」の幸福をあらかじめ計算によって確定することができるという設計主義的な発想を退けようと、カントの「統制的原理」の概念を持ち出しているのですが、こうなってしまうともはやプラグマティズムの主張とは相容れず、むしろハーバーマスのアプリオリズムに著しく接近してしまっています。それが著者の本当の主張なのか見極め難く、なかなか本書の中核にあるはずの考え方が明瞭な像を結んでくれないもどかしさを覚えます。