あらすじ
比較憲法学の第一人者が、国民国家批判に抗して、憲法構造がなおもつべき意味を擁護、近代知の復権を唱えた諸篇が、いま改憲論かまびすしいなか、決定的なアクチュアリティをもって迫る。
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Posted by ブクログ
樋口陽一氏と言えば戦後憲法学のスターだが、今や保守派からは「ガラパゴス化」と揶揄され、左翼陣営からさえアナクロニズムとも非現実的との評が囁かれる。それでもなお頑なに近代の普遍的価値、とりわけ個人の尊重という理念にこだわり続けてきた。評者自身も氏に対して、いまだにフランス革命への郷愁を捨てきれない西欧かぶれの頑固親父、或いは永遠の少年というイメージしか持っていなかったのだが、じっくり読んでみると、この人はやはりただものではない。
法律家として当然とも言えるが、左翼にしてはめずらしく二元的思考ができる人だ。物事を多面的に観る眼を持っている。氏は「連環と緊張」というフレーズを好んで用いるが、国家は時に人権を侵害するが、人権を守るためになくてはならない存在でもある。国家と個人の抑圧と依存という矛盾を孕んだきわどい関係を樋口氏ほど突き詰めて考え抜いた人は少ない。氏の立憲主義を権力を縛るものとの水理解するのは一面的だ。むしろ権力の適切な行使を監視する、つまり縛りもするがケツを叩きもするものと捉えるべきだ。
安保法制による解釈改憲への反対運動など、氏の表層的な主張は過激にも見えるが、それを支える思考は極めてシャープな論理と優れたバランス感覚を保持している。それでいて安易な妥協や折衷を許さない。近代が見出した個人は実在ではなくフィクションだと氏は言い切るが、その両義性と危うさを直視しつつ、近代の「虚妄」に「敢えて」かけるということだろう。どこまでもストイックな知的ダンディズムだ。
だが逆にこうも言えるだろう。氏がフィクションとしての近代や個人を守ろうとするように、フィクションとしての伝統や共同体を守るという立場もあり得る。評者は今、西部邁のことを思っている。水と油のようでもあるが、二元論に耐えつつ敢えて片方に肩入れするスタイルは案外似ている。二人とも80年代に保守派の言論人として活躍した山崎正和の「柔らかい個人主義」を痛烈に批判していた。樋口氏は東北、西部氏は北海道出身だが、比類なき硬質の知性を持ちながら、野武士的なトゲを失わない両人にとって、融通無碍のヌルッとした京都人の感性は肌に合わないと見える。