あらすじ
今こそ見直したい「うさぎ追いし…」の世界。
里山の変容を、唱歌「ふるさと」の歌詞から読み解く。
日本人なら誰もが知っている「ウサギ追いしかの山」で歌われつづけてきたウサギはなぜいなくなってしまったのか?
唱歌「ふるさと」を通して、日本の昔日の故郷(里山)の姿とその変容を生態学の視点から読み解き、現代との比較を通じて、失われた日本の自然と文化を再考します。
1章 「故郷」を読み解く
2章 ウサギ追いし―里山の変化
1ウサギの思い出
2茅場―ウサギのすむ場所
3かつての里山
4変貌した里山
5里山のもうひとつの変化―都市化に呑み込まれる里山
3章 小ブナ釣りし―水の変化
1小ブナ釣りし―故郷の川
2川の変化
3もうひとつの脅威―農薬
4さらなる脅威―外来生物
5水は清き
4章 山は青き―森林の変化
1林業と社会
2林学と林業―四手井氏による
3森林伐採と森林の変化
5章 いかにいます父母―社会の変化
1人々への思い
2社会の変化
3志を果たして
6章 東日本大震災と故郷
1東北の里山を訪ねて
2東北の動物たちに起きたこと
3原発事故から考える日本の里山の将来
7章 「故郷」という歌
8章 「故郷」から考える現代日本社会
1「故郷」と社会
2「故郷」に見る日本人の自然観
著名な生態学者が語る、里山の過去と現在。そしてこれから…
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「 ふるさと」の歌詞の描写に生態学者がガチでレスする感じ。真面目にふざけている感じが大好き。「うさぎ追いし」とは?現代人にはなぜ馴染まないのかを徹底追及。「小鮒釣りし」を徹底追及。子ども時代?なんならメダカだろうという切り返しも秀逸。
Posted by ブクログ
「生態学」という、「生物と環境の関係を解明する学問」(p.18)で、生物をミクロに捉えるのではなく「生物どうし、あるいは生物と環境の関係を総合的にとらえる」(同)学問が専門の著者が、「故郷」の歌詞を読み解きながら、その歌詞に表現されている「里山」とはいかなる場所か、なぜ里山は破壊されたか、という話題を中心に語ったもの。まさに「学際的研究」という言葉が相応しいような、特に後半は社会的、歴史的な構造の変化についての考察がなされている。
「故郷」の歌は、訳があって数年前に合唱をすることがあり、ピアノの伴奏の練習をやったり、いずれこれを英訳して歌う授業ができないかとか、そんなことを考えていて、たまたま古本屋で見つけて、読んでみた。「うさぎ追いし」「小鮒釣りし」「山は青き」「水は清き」とは、それぞれどういう状態か、現在はどうなったのか、なぜ変化したのか、ということを考えると、単純に「環境破壊が進みました〜」ということ以上の、むしろそれによって理解が浅いままになっている部分について知ることができて、思った以上に興味を持って読めた。
以下、特に印象的だったところのメモ。まず重要なのは「里山」とは何か、ということ。言葉は知っていても、それが何なのかを全く知らなかった。むしろ普遍的に昔の日本にあったものなのに、これを何か知らなかったというのは、なんか不思議な感じだった。里山は「全体として人の影響を受けながら植生遷移を阻止する集約的な植生管理がされている環境」(p.50)で、つまり人によって管理維持されている、という部分がポイント。その管理が外されると、「すさまじいとも形容される植物の繁茂と、野生動物の跋扈」(p.175)ということがすぐに起こるのは日本の気候のせい、ということも理解できた。「市街地ー里山ー奥山」という「模式図」がp.45に書いてあって、今ちょっと都心を離れたところでは、断片的に、模式図の中の「社寺林」とか「屋敷林」とか「雑木林」を見ていたのか、ということが分かった。その里山にはいくつか特徴があるが、その中でも「モザイク構造」というのが面白かった。異なる群落が接していて、「それ自体が新たな意味をもち、群落の足し算ではなく、かけ算のように多様性を高める」(p.54)という実態が面白い。明るい、暗い、という場所がモザイク状にある、というのは確かに放っておいてもこうはならないだろう、と分かる。そして、人口減少によるそういった里山の荒廃、宅地化、というストーリーは「平成狸合戦」というジブリの映画を思い出したが、そこで「なぜキツネではなくタヌキなのか」というのも面白い。「キツネはストレスに弱い」(p.69)というのが理由らしい。「戦前まではタヌキとキツネは対のように人里にいる哺乳類とみなされていた」(同)らしい。その荒廃した水田に「せめてもとコスモスを植えて『村おこし』などと言っているが、そんなことで村に本当の意味での活気がとり戻せるだろうか。農村は農作物を産み出す共同体であり、農地はまぎれもない生産の場である。コスモスを見せる一種の観光は生産ではなく、農業とは異質のものである。コスモスが華やいでいればいるほど、その景色は憂いを帯びて見える」(p.65)というコメントが、真実なのだろうけど、割と辛辣な感じがする。同じように「今私たちが目にするのは、人もおらず、魚もカエルもいない寂寞たる空間であり、それは直線的な水路と、平坦で無機質な『田んぼ』という名の米工場である」(p.103)も同じ。あとは日本ではない、オセアニアの話。ヨーロッパ的な、自然を征服するという自然観のもと、「徹底的な破壊と、浅知恵に基づく外国からの動植物の導入」(p.114)により、動物の絶滅の記録はトップらしい。今では「外来生物」が問題であることは常識だが、日本でも、箱根の芦ノ湖にオオクチバスが放流されたのは、「当時は外来生物が問題を起こすという考えはなかったから、有用な魚であれば広まったほうがよいという程度の考えで放流が試みられた」(p.112)ということらしい。確かに今の常識も当時とは違う、ということは念頭に置かないといけない。林業のところで、「林業と『家』」(pp.130-1)のところは印象的だった。確かに木が育つのは人間の何世代分かになる、ということと、家を継ぐ、ということが一致する、という話。「たとえば『我が家は経済的には豊かではないが、周りから信頼されてきたのだから、お前もうちの恥になるようなことはするな』と育てられた。いたずらっ子は悪いことをして叱られても悪態をついて逃げることはあったが、『どこの子だ!』と言われるとシュンとなった。自分が叱られるのはしかたがなくても、家が悪く言われることは耐えられない」(p.131)という、この感覚は確かにいかにも昭和的で、その「家」の感覚と「林業」が一致する、ということ。逆に言えば、今の時代にそんな「家」の感覚はないから、いかに林業は特殊な産業なのか、という感じがする。というよりそういう林業はもうなくなってしまって、戦争の時代には禿山だらけになり、植林が急がれたが、その真実にあたるこの記述も辛辣。「山は今も青い。『故郷』が作られた時代の山も青かった。だが、それは広葉樹を主体とした森林であった。(略)戦後に非常な努力によって植林をして山は緑をとり戻した。だが、その山は針葉樹の人工林で、日本中の森林の四割ほどがこの人工林に変わった。(略)遠目に見る青い様子も違いがないように見えるが、その林に入ると真っ暗で、細い木は立ち枯れたり、倒れたりしたまま放置されている。『山は青き故郷』の『青』の実体は大きく違ってしまった」(p.144)というのは、ちょっとショッキングだった。
後の3分の2くらいは、東日本大震災によってさらに明らかとなる里山の崩壊や人間の身勝手さ、みたいな話の部分は胸を打つものの、「あの時代はよかったと懐古的にいうつもりはない」(p.187)と言いつつ、やっぱり全体的にはノスタルジックな記述が続いていて、ちょっと辟易してしまった。「人はもともと土着的に生きているものであり、そうであるから土地ごとに違う景色と違う価値観があるべきものなのに、自分の価値観と違うものを否定し、ひとつの価値観を押しつけることを『グローバリズム』と呼んで推し進めてきたこと、そのことのまちがいが現代社会の閉塞感とつながっているのではないか」(p.188)という考察が『「里」という思想』という本の著者が言っているらしい。なんか簡単な現代文の問題とかになりそうな文だな、とか思って、理系以外の分野にも踏み込んで考察しようとしていることが分かる。
ということで、「このまま適切な対策がとらなければ、奥山動物と里山にあった『堤防が決壊』する危険がある。それは『ウサギ追いし』に歌われたなつかしい風物が失われたというのどかな話ではなく、伝統的農村社会の崩壊という様相を呈しつつある」(p.77)とあるが、クマに悩まされる2025年、著者はこの状況をどう考察するだろうか、と思った。(26/11/13)