【感想・ネタバレ】からごころ - 日本精神の逆説のレビュー

あらすじ

「日本人であること」を探究する第一歩とは……。日本人の内にあり、必然的に我々本来の在り方を見失わせるもの――本居宣長が「からごころ」と呼んだ機構の究明を通し、日本精神を問い直す。戦後世代の大東亜戦争論として、論壇に衝撃を与えた初期論考を含む、鋭く深い思索の軌跡。

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Posted by ブクログ

「からごころ」をはじめ、五編の論考を収録しています。

本居宣長と小林秀雄の議論を読み解く著者は、宣長を「「日本人であること」といふ問題を発見してしまつた人、そしてそのことによつて自らは日本の内からはみ出してしまつた人」と規定します。宣長が見ようとした「やまとごころ」は、「漢意」を玉ねぎの皮のように剥がしていくことで後に残されるようなものではありません。彼が見いだしたのは、意識的な中国崇拝ではなく、善悪是非の判断のような普遍的な原理として、知らず「漢意」を取り入れてしまっている、「漢意」を「漢意」として知ることのない、日本人の盲目ぶりでした。そして著者は、日本人が発明した訓読において、漢文が中国語であることは無視されてしまっており、しかも無視していることさえ意識に上らないほど徹底的に無視しきっていることに注目し、「漢意」と「やまとごころ」がメビウスの輪のように結びついていることが、日本文化の構造なのだと指摘します。

また本書に収められた他の論考では、谷崎潤一郎の『細雪』や井伏鱒二の『黒い雨』について論じ、小説が「客観的描写」であることをやめて、文章に描き出された時間を歩ませるものと、文章それ自体を歩ませるものとがひとつになるような「時」が現われ出てくることを論じています。

本書のサブタイトルは「日本精神の逆説」となっていますが、著者が論じている「日本精神」は、中国や西欧から日本を区別するようなメルクマールなどではありません。「事上げ」されることのない日本精神は、そのような仕方で「論うこと」はできません。それはただ、われわれがそのなかで生き、そのなかで考えることしかできないものです。それゆえ、本書の議論にのっとって「日本精神」と「ヨーロッパ精神」の違いを論うことほど、本書の精神から離れることはないというべきでしょう。森有正は、パリで出会った頑固なまでの強靭さをもつ「ヨーロッパ精神」が、西欧人がそのなかで生き、そのなかで考えるほかないものであると論じていましたが、著者もまた、森とは反対の方向から、おなじテーマにアプローチを試みているように思い得ます。

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2017年11月30日

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