あらすじ
「アンネは、死んでも私たちの心の中に生き続けているのです。そして、世界の歴史を変える存在になりました」(池上彰『世界を変えた10冊の本』より)
ユダヤ系ドイツ人の少女アンネが、ナチスの「ユダヤ人狩り」から逃れるため家族と共に二年間潜んだアムステルダムの“隠れ家”。彼女はそこで、架空の友人キティーに宛てて日記を綴りました。戦後、残された父オットー・フランクにより編集・公表されたこの「アンネの日記」は各言語に翻訳され、2009年にはユネスコ世界記憶遺産にも登録されました。わが国も同様で、1952年に「光ほのかに」のタイトルで文藝春秋より刊行されて以来、綿々と読み継がれています。
実は、アンネの綴った日記は二種類あります。アンネが自分のためだけに書いたものと、後の公開を期して清書したもの。そのふたつを編集し直した〈完全版〉をもとに、さらに1998年に発見された5ページ分を加えたのが本書〈増補新訂版〉です。尋常ではない環境の中で、13歳から15歳という思春期を過ごした少女の夢と悩みが、より瑞々しく蘇り、私たちの胸を打ちます。平和を愛し、誰かを愛するすべての人に改めて贈る、永遠不滅の一冊です。
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Posted by ブクログ
昔児童書で読んだアンネの日記のアンネ・フランクからは迫害にも、つらい生活にもめげず最期を収容所で迎えた英雄であり聖人みたいな印象を受けた。
それが思春期を逃げ場のない隠れ家で送ることになった普通の女の子だとガラリと変わった。
日記が突然終わり、あとがきになったとき異様に心が重くなったし、アンネ達がいつどこの収容所でどのように死亡したかとかさらに重くなる。
アンネたち姉妹は収容所が解放される1ヶ月前に、ペーターはわずか3日前に死亡とあってやるせない気持ちになる。
Posted by ブクログ
アウシュビッツから生還した心理学者フランクルが収容所での生活とそこから得た見識を書いた「夜と霧」をまず読みました。
フランクルはその人生哲学を主眼に読んで欲しかったようですが、どうしても収容所生活のあまりの苛酷さに目を奪われます。読んでいて眩暈がするほどでした。
そして直後にこの日記を読みました。
あとがきに日記に登場した人の後日がごく簡単に記してありますが、収容所生活の予備知識ができてしまったために想像が膨らんで止まず、嗚咽が止まりませんでした。
Wikipediaによると、隠れ家に保安警察が入り、アンネ達が連行された後、ミープさんとベップさんが散乱したこの日記を拾い集め、保管しました。そして、ただ一人収容所から生還したオットーさんに渡したそうです。
日記を読み、これを世に出そうと決意するまでにどれ程の思いが巡ったか。オットーさんの父として、生存者としての葛藤を想像する中で、ふとフランクルとの交流は無かったか?帰還者同士もしかすると、と思い検索しましたがそういった話は見つかりませんでした。
夜と霧の出版が46年、日記が新聞に掲載され出したのも46年の4月なので、夜と霧の前向きなメッセージが日記の公開に影響を与えたのでは?という妄想もおそらく的外れです。親戚からの勧めやホロコーストに関するものを公にしようという全体的な機運を受けて、そして何よりアンネ自身がそれを望んでいたから、というのが実情に近いようです。
これを調べる中で、ホロコーストに関して日本語には翻訳されていない世界的な書籍が多数あることを知りました。まだこれらを読むだけの語学力がありません。
ホロコーストの規模感や大戦直後の社会が求めていた精神性など、知識が浅いために自分の持ち合わせの情報を安易に結んでしまった。学ぶことをやめなかったアンネに習い、知るべきことを知ろうとする努力をいつまでも続けようと思いました。
わずか15年の生涯を
ヒトラーが自殺したのは1945年の4月30日と言われている。アンネが亡くなったとされるのは同じ1945年の2月から3月の間、収容所でチフスにかかり、わずか15年の生涯を終えた。もう少し隠れ家が見付かるのが遅ければ、彼女は生きていたかもしれない。
日記の内容は、13歳から15歳まで2年間の隠れ家での生活、10代の少女の思春期の心情が赤裸々に書かれている。彼女は日記の他に物語りも書き残している。
日本語訳の「またぞろ」って表現だけ、マジ意味分からんかった☆