あらすじ
2014年10月4日で、フランス、バルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーは生誕200年を迎える。 本書は80点以上の図版でミレーの名画の魅力を伝えるミレー展を訪れる人必携のミレー小百科。
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Posted by ブクログ
井出 洋一郎
(いで よういちろう、1949年(昭和24年)5月8日 - 2016年(平成28年)10月19日[1])は、日本の美術評論家。府中市美術館館長、群馬県立近代美術館館長を歴任。1949年群馬県高崎市生まれ。1968年群馬県立高崎高等学校卒業。1972年上智大学外国語学部フランス語学科卒業、1978年早稲田大学大学院文学研究科西洋美術史専攻博士課程満期退学。山梨県立美術館に勤務し、初代「ミレー番」学芸員を務める。1987年退職。上智大学講師、明星大学助教授、東京純心女子大学芸術文化学科教授、2009年府中市美術館館長、2015年群馬県立近代美術館館長。2013年から日本テレビのルーヴル美術館特番の監修を務める。2016年10月19日、胆管がんのため死去。67歳没[1]。
「さて、ミレー家は格式ある農家で、貧しい旅人にも施しをするので一家は村で尊敬されていたようです。祖母の兄弟には著名な化学者がいたり、大叔父には優れた聖職者もいて、母方は地方貴族の子孫です。 そう、優秀な家系だったのですね。農作業で忙しい両親の代わりに敬虔なカトリック信者のお祖母さんに育てられ、洗礼名のフランソワは、アッシジの聖フランチェスコにちなんで祖母が命名したそうです。 ミレーの絵の発する宗教的、道徳的なイメージは、このお祖母さんの教育によるところが大きい。また農家には珍しくたくさんの蔵書があって、ラテン語を地元の神父さんから教わり、少年時代から聖書やヴェルギリウスの古典詩も原書で読めたというのは、ちょっと格別な教育環境ですね。 ミレーは 8人きょうだいの長男。昔だから大家族で農家だし働き手が必要だったのでしょう。少年時代にお父さんの跡継ぎとして農業を経験したのです。でも絵が描きたくなったわけは? もともと感受性の鋭い子だったし、お父さんが音楽好きで、グレヴィルの教会の聖歌隊の指揮者をしていたり、粘土や木で彫刻を作ったりする芸術愛好家だったことも影響している。息子が畑仕事の昼休みにあたりを写生したデッサンを見て、この子の才能は別物だと直感したお父さんは偉いです。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「 20代のミレーの自画像によると、彼は面長で目が鋭く鼻が細く、ロン毛のイケメンです。背も 190センチ以上というからモデル並み、格好いいですね。 そうね、ノルマンディーの人は南のラテン系じゃなくてイギリスに多いノルマン、ケルト系で、ミレーもその典型です。体力もあって、子ども時代は上級生とのケンカにも負けなかったらしい。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「ミレーの性格には常に天上の理想に向かう心と、大地深くに根を生やそうとする心とが拮抗しています。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「でもミレー家のお祖母さんも母親も、カトリーヌとの再婚には大反対だったのですね。自分の家より貧しい家だからですか? まあ昔ですからいろんな差別があったでしょう。結局二人は 1853年にミレーの母が亡くなるまで、子どもが 3人もいながら入籍できなかったのですから、とくに妻の方はつらかったはずです。 でも来客によると、カトリーヌはいつも、快活で、困った様子は何も見せなかったというから大した女性です。私も画家の奥様を何人も知っていますが、だいたい明るくて強くて、電話の声が大きい(笑)。まあ、心配性だとやってられないでしょうからね。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「17世紀前半のパリで共同の工房を持って大活躍したル・ナン兄弟の名作「農民の家族」( 1640 ー 45年頃、ルーヴル美術館)については、拙著『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』( 207ページ)を参照いただきたい。 忘れられていた彼らの絵が再評価されたのは 19世紀中頃の写実主義絵画の勃興期で、クールベの親友シャンフルーリがフランスにおける農民画のパイオニアとしてル・ナン兄弟を紹介し、広めたため、「手押し車」(次ページ)のような農村を主題とした絵画が注目された。 しかし今日の研究では、これらの作品をミレーのような現実的な農民画の起源とするにはかなりの反論がある。つまりこの画家(たち)はパリにいて、ブリューゲルのように実際の農村に取材した形跡は見られないこと、また室内や風景ともに映画のスタジオのようなヴァーチャルな空間性が感じられ、人物の特徴も農民とはかけ離れた上品なゆとりが感じられることなどである。ということはこの種の絵画は都会のパトロンのための「見立て肖像画」、つまり農民コスプレ絵画であった可能性が大きい。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「パリにオルセー美術館が開館したのが 1986年末のこと、翌年春に初めて訪問した私に旧知のキャロリーヌ・マチュー学芸員がミレーの展示室に案内して、こう説明してくれた。「ムッスィユー井出、見てください。これまでルーヴル美術館の狭い壁に閉じ込められたミレーがこんなにゆったりと展示されました。『落穂拾い』( 109ページ〔※こちらを参照〕)は通路へだてて向かいのアングルの『泉』と正反対に見通せるように配置しました。これで当時のアカデミー絵画とミレーがいかに対極にあったかがよくわかります」 当時山梨県立美術館の「ミレー番」学芸員だった私は、故国でのミレーの復権に他人ごとならず喜んだのを懐かしく思い出す。それまでのルーヴルでは、ミレーのような中小の 19世紀の額絵は、ギリシア・ローマの工芸品ケースが並ぶ 2階から、わかりにくい狭い階段を上って 3階の何段掛けにもなっている暗い展示室までたどり着かねばならなかった。初めての日本人ツーリストにはほぼ到達不可能な場所である。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「日本は本物のミレーに接しやすい稀な国なので、できるだけたくさん鑑賞してください。絵画の素晴らしさとともに、人間に対しての特別な思いや、仕事は何であれ、働くことの大切さが伝わってきます。小中学校の美術鑑賞教育に、ミレー作品をぜひ加えて、イジメや誘惑に負けない「生きる力」を涵養することも、デジタル情報万能の世の中に必要なことと思います。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「ミレーは 1840年代後半のパリ時代に、女性ヌード画の専門家と誤解されるほど売り絵を描きまくったのですが、バルビゾンに来てからは神話画の「四季」( 159〔※こちらを参照〕、 163ページ〔※こちらを参照〕)を除けばこれ 1点のみ。モデルは年頃から見て、一番かわいがっていた三女のマルグリット( 1850年生まれ)かもしれません。森の水浴女のテーマはミレーが範としたルネサンスの神話画によくありました。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「こう見てくると、ミレーには花の絵は少ないですね。 数点しかないから例外的です。それでも描きたいのは野に咲く花ですね。この絵も、たんぽぽなんて誰も摘もうとしない雑草ですが、そこにも偉大な美があり、一生がある。花にわざと光を当てていないところに注目してください。 初めはバラバラに見えますが、注意して見ると、小さい蕾から大きくなって花を咲かせ、そして綿帽子をつけて枯れていくという 4段階がわかります。となると四季の春夏秋冬にも通じる時間のサイクルがここにあるわけですね。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「でもね、ミレーが印象派と一線を画するのは、ミレーは生涯に野外にイーゼルを立てて油絵で写生したことは一度もないのです。コローや他のバルビゾンの画家はよくやっているのですが。外では小さな手帳にスケッチする程度、完全にインドア派の巨匠でした。印象派の最長老ピサロよりも 16歳年上だし、まず「印象派」と呼ばれること自体嫌うでしょうね。私は光の印象を描いたのではない、物の本質を描きたかっただけだ、とか言うだろうな。 60歳代の老ミレーをアウトドア派にするのはちょっと無理でしょう。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著
「日本人がいつ本物のミレーを入手したのかは意外に難しい。記録では明治 24年( 1891)、東京上野で開かれた第 2回明治美術会展に参考品として、パリ在住の美術商で蒐集家の林忠正がミレーの「帰群」「晩秋」 2点を出品したとわかるが、「帰群」は複製版画であり、「晩秋」もおそらくそうだと思われる。 明治後半から大正初めまで日本人はミレーの紹介を熱心すぎるほど行うのに、コレクションとなると、めぼしいものはなかったとしかいえない。 結局、大正 12年( 1923)に倉敷で公開された大原孫三郎コレクションの「グレヴィルの断崖」( 187ページ〔※こちらを参照〕)や、第一次世界大戦期を中心にフランスや英国で蒐集した松方幸次郎コレクションに記録では 10点弱のミレー作品があり、戦後にフランスから返還された「春、ダフニスとクロエ」( 159ページ〔※こちらを参照〕)が戦前日本人に蒐集された中での代表作に数えられる。」
—『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか (中経の文庫)』井出 洋一郎著