あらすじ
阪田三吉、大山康晴、升田幸三…関西出身の棋士たちはなぜこれほど強かったのか? 日本将棋連盟会長にして第一線で闘いを続ける著者が明かす勝負力の秘密。
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Posted by ブクログ
谷川浩司十七世名人は11歳で奨励会、13歳で初段、14歳四段、21歳で史上最年少名人となる。この最年少名人記録は、藤井聡太が破るまで不可能と言われていた。
本書は、神戸に居を構える筆者が、関西将棋の歴史を語る。
内容は坂田三吉から始まり、升田と大山時代、タイトル保持者のみならず関西のA級棋士が一人もいなかった停滞時期、谷川浩司の活躍、その後に続く関西将棋界の進撃、という流れ。
以下は個人的備忘録。
・「受けの大山、攻めの升田」が定説だが、同じ木見一門の兄弟弟子で大山入門当初は棋風が逆だった
・王将戦が新設され、升田の念願だった「差し込み制(駒落ち)」が導入されようとした時、猛反対したのは升田本人だった。その理由は、「名人は将棋界最高権威だ。その名人が差し込まれたら秩序が乱れ混乱する」
当の木村名人は「時の第一人者が差し込まれるなんてこたぁ起きねえよ」と余裕。ところが早速、第一期王将戦で升田八段と木村名人の七番勝負が実現。そして升田は4勝1敗で王将位を獲得、木村名人を半香に指し込んだ。そして、陣屋事件という升田の対局拒否が発生。とにかくこれにより、半香対局は升田の不戦敗となる。
・その後、弟弟子の大山は名人5期の保持で永世名人(資格)となる。そして1956年第5期王将戦で、升田八段が大山王将(名人)を半香落ちに差し込みタイトル奪取。その後、差し込み制度が廃止されたため、唯一無二の記録となる
・升田はその勢いのまま、当時の三大タイトル全冠(名人、王将、九段)保持、1957年棋界初の偉業を達成
・将棋界では谷川浩司が山田道美以来の本格的研究会タニケンを発足。メンバーは、谷川浩司、南芳一、脇謙二、西川慶二、井上慶太などの関西棋士(奨励会員含む)
・タニケンに参加した福崎文吾は練習対局中、宇宙戦艦ヤマトの主題歌をずっと歌いながら指すのでその後出入り禁止に(笑)
・その他の研究会で最も有名なのは、島研(島朗、羽生善治、佐藤康光、森内俊之)
・東西棋風の違い
「東京には江戸時代から大橋家、大橋分家、伊藤家の将棋家元があり、将軍家に披露する御城将棋があり、必然的に研究主体のカッコよさが求められた。関西棋士は現実重視の力将棋」by大山康晴
「関東将棋は、軽快で序盤重視。関西将棋、形にこだわらず中盤からの追込み型」by内藤國雄
・1990年までの関東と関西の情報格差は大きく、当時はFAXもコピー機もなく関西棋士が棋譜を見るのは東京より1週間遅れ。その後のパソコンの登場でやっと棋譜データが同時に見れる様になった
・山崎隆之と羽生善治の対局後、山崎が投了後「気持ちが折れた」と発言、羽生はこの言葉を聞き、良い棋譜が残せなかったことを残念がる。当時の谷川浩司将棋連盟会長は、山崎がよく口にする「気持ちが折れた」発言を禁止
・西本馨七段は、プロ入り後徐々に視力を失い常に介助がついて盤面を直していた。1958年にC2から落ち、三段リーグに入り、さらに二級に落ちた。1973年に引退するまで、将棋を指したいと無給で指し続けた(現行制度ではフリークラスに降級し昇級出来なければ10年で引退)
・将棋の師弟関係で、弟子の恩返しとは、「弟子が師匠を負かすことではなく、師匠がひどい目にあった相手を代わりに負かすことだ」とは淡路九段の言葉
PS
校了ミスがありました。
P141の森安正章は正しくは《正幸》です