あらすじ
女性の視点から語られる開高健の姿──釣り師であり、食の大家であり、きわめて行動的なジャーナリストともいわれる作家開高健。その担当編集者として、あるいは私設秘書として身近に見てきた著者が描く、女性の視点からの作家の姿。
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Posted by ブクログ
本名は福子。師匠の開高から「3文字のほうがうまくいくちゅうジンクスがあるらしい。わたくしがピタリとくる漢字を見つけてあげます」と言われ、つけられた筆名が「布久子」。数年後、ほかの人が布久はフグのことだと教えてくれた。時々ふくれるから、フグ(口絵の写真は、闊歩する開高と、隣に笑う丸顔の布久子)。お茶目な師匠と、師匠の言うことを真に受ける弟子、そういう関係。
1947年生まれ。学生運動にくたびれて関西大学を卒業。卒業年次に開高の『夏の闇』と『輝ける闇』と出会う。就職のあてもないままに上京、たまたま新聞で雑誌「面白半分」の求人広告を見かけ、編集部を訪ねる。数週間後に仮採用、発行人の佐藤嘉尚に付いて開高邸に通う。開高に気に入られ、1985年に渡仏するまで、私設秘書のような役回りをした。
もう時効だからと、開高健の謎の女性問題にも触れている。私設秘書として、預金通帳を預かって、ある女性のところに毎月振り込んでいたことや、別の女性の居場所と電話番号を調べて教えたことも書いている。しかし、彼女たちがだれなのかは詮索していない。唯一、『輝ける闇』や『夏の闇』に出てくる女性については、菊谷匡祐の本にも書かれているので、かなりはっきり書いている。
パリで貧窮の生活をしていた時、お声がかかって開高のTVロケに同行した。別れ際に、おみやげとして「萬病之薬(但シ少量ズツ服用ノ事)」と表書きされた封筒を手渡される。帰ってから開いたら、100ドル札が10枚。彼女の貧窮状態がわかってのプレゼント。それは使うことなく、お守りとしていまもとってあるという。
フランスでワインの道に進んだのは開高の影響。1997年、雑誌「ブルータス」の仕事で、ロマネ・コンティのオーナーにインタビューした時のこと。オーナーは開高の『ロマネ・コンティ・一九三五年』の仏訳も読んでいた。開高の弟子とわかって、特別にカーヴへ、樽出しのロマネ・コンティを試飲させてくれる。ああ、生まれたばかりの赤ちゃんのロマネ・コンティ。「最高のクリスマスプレゼントです」と言ったら、オーナーいわく「サンタクロースはあなたのセンセイかもしれないね」。
開高が亡くなったのは1989年。師匠のことを書き残さねばと思いながら、なかなか書き出せなかったようだ。没後20年をおいて、しかもフランスの地で在りし日の師匠を思いながら、やっと形としてまとまった。
Posted by ブクログ
うーん、著者の若さや不器用さに辟易しつつも一気に読んでしまった。辟易するのも、著者が自分の若さゆえの無知や躊躇を嘆いているからなだけで、自分もこんな師に巡り会えたら同じ反応なのではないかなとも思えた。羨ましい人生だと思う。
Posted by ブクログ
もと担当編集者による開高健の回想録である。ファンには興味深い内容であるが、作品と乖離した芸術家の私生活を覗き見するようで、少し後ろめたい気がした。あるいは芸術家にとって、私生活も作品として評価される覚悟が必要なのだろうか。
芸術家じゃなくてよかった。
Posted by ブクログ
開高健にはまった高校時代を思い出した。本書の著者にはぼろ負けだが。
夏の闇は、俺の人生にとても長い影をつけている。受験勉強の合間に感化されていたことが懐かしい。
また開高健を読み返すタイミングが来たのかもしれない。
Posted by ブクログ
1989年に亡くなった作家・開高健の私設秘書でもあった著者が長年の沈黙を破って書き記した、きわめてプライヴェートな作家像。著者はパリ在住のワイン・ライターとして活躍中の細川布久子である。
1973年、雑誌「面白半分」のアルバイトとして初めて開高健に接したシーンから、後年パリ在住となった著者が、取材でパリを訪れた開高健と再会を果たすシーンまで、およそ15年に亘る記憶が実に詳細に記されている。
開高健の庇護を離れ、みずからのレゾン・デートルを求めて、著者がパリへ渡ったのが1985年の暮れのこと。それまで手がけていたサントリー関連のワイン記事の仕事がきっかけだった。以来、開高健の死をはさみ、現在までその暮らしが続いている。
細部に至れば至るほど、著者の想いが溢れて思わず戸惑うほどの描写となっている。記憶の中の開高健はあくまで健在、ぶっきらぼうなようでいて、人間味のある存在感にあふれている。いわば、著者の青春メモワールであり、今は亡き師への恋を歌い上げた絶唱のようにも思える。