あらすじ
現代思想界の旗手が、社会システム論、死生観、人生観を通じて、自分の内なる「他者性」と「未知」と向き合い、時空間での自己マッピング力を身につけることの重要性を説く。生きづらさに悩む人に贈る出色エッセイ。
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Posted by ブクログ
コリン・ウィルソン著、福田恆在(つねあり)訳、『アウトサイダー』。
私の小さな勉強部屋で払暁にこの本を読み終える頃には、バイロンやシャトーブリオンやオスカー・ワイルドがどれほど偉大な作家であり、フロイトやフッサールやヘーゲルが思想史上に占める位置の重要さについての入門的な知識をほぼ習得し終えていた。
人間は必ずその人が必要とするときに必要とする本と出会う、というのは、このときに私が体得した確信である。(P130-P131)
内田樹さんが、『アウトサイダー』に出会ったように、私も内田樹さんの『先生はえらい』に出会った。そして、内田樹さんの著書たちは、私にとって、必要とするときに出会った必要とする本たちになったのです。
Posted by ブクログ
「目からウロコ」という言葉がある。内田樹を読んでいると、文字通り目からウロコが落ちる。しかも、その頻度が高い。試みに下の文章を読んでみてほしい。
「合理的な人」は結婚に向いていない。/それは、「合理的な人」が人間関係を「等価交換」のルールで律しようとするからである。/「私はこれだけ君に財貨およびサービスを提供した。その対価として、しかるべき財貨およびサービスのリターンを求める」という考え方を社会関係に当てはめる人は、残念ながら結婚生活には向いていない(そして、ビジネスにも向いていない)。/というのは、人間の社会は一人一人が「対価以上のことをしてしまう」ことによって成り立っているからである。/すべてのサラリーマンが自分の給料は不当に安いと思っているが、それは彼らが稼いだ「上前」をはねることで株主配当や設備投資が行われている以上当然のことである。/結婚も全く同じである。/「夫婦」は企業と同じく、配偶者それぞれが「夫婦」という集合体に投資することで成立する。配偶者がそこに十分な投資を行い、状況の変化に相応できるフレキシブルなビジネスモデルを組み立てるならば、「夫婦」は生き延びることができる。/反対に、自分が投資したもの(金、時間、労力、気づかい、忍耐などなど)に対して相手から「等価」のリターンを求めると、「夫婦」は潰れる。それは営業マンが彼の努力で成約した取引から得られた利益の全額を「オレの業績だ」と言って要求することを許せば、会社が潰れるのと全く同じ原理なのである。/そのことに気づいている人はまことに少ない。(一部省略)
新書版見開きで余白が出る短い文章だが、言われていることは、結婚生活に関する深い洞察に溢れているではないか。多くの人が、会社相手にははじめからあきらめても、配偶者には自分の投資に対する「等価交換」を求めてしまうのではではないだろうか。それは相手にしたって同じことだから、要求が正当なものであっても、いや、正当であるからこそ、会話は対決姿勢に終始し、やがて破綻することになる。
経験から、結婚に「等価交換」は不向きだということをうすうす実感してはいても、それがビジネスモデルを譬えにして説明されることで、実に明快に理解できることに驚く。もしかしたら、巧く騙されているだけかもしれないが、それならそれでいい。とにかく人間は生きていくための「物語」を必要とする動物だから(因みに著者は離婚を経験している)。
単行本化されていない、どこに書いたかすら覚えていないような筐底に残された雑多な文章を拾い集め、「知ること」というテーマの下に六つの章に並べ直したのは、編集者の手柄かもしれない。しかし、「落ち穂拾い」(この手の本を評者はそう呼んでいる)にしては、最近の収穫である。一つは、これらが、注文原稿であったからではないだろうか。最近の内田の本は、ブログをもとにしたものが多い。ブログは字数も何も気儘なものである。枚数が限られていることで、かえって首尾結構を意識し、簡潔にして明瞭な文章を生んだのかもしれない。
Posted by ブクログ
このところ結構ヘビーローテーションで読んでいる内田教授のエッセイ(というのだろうか?)集。
ブログや、あちこちの雑誌などからのオファーに応えて書いた文章、書評などを一冊の書籍にしたもの。全体にテーマらしきものは、見当たらず、あえて言えば「内田樹の書いた様々なもの」というまとまり。
それでも売りものになってしまうのだから、「内田樹」に相当の価値がある、という他ない感じです。ある種アイドルと同じ扱いですね。ニッポン現代思想界のアイドル、ってw。
それはさておき、内田先生の文章は、集中力を高めて読まないと頭に入ってきません。それでも、集中力を切らさずに読み解けば、そこに表現されている内容は、とても共感がもてる考え方だったり、思想だったりするので、知らず知らず読み進めてしまいます。脳みその筋トレをしているような感じ。不思議な感じです。
本書は、特定のテーマがあるわけではないので、その分、頭を切り替える回数が増え、疲れる読書でしたw。
たくさんの気付きをもらったのですが、いくつかのポイントを超乱暴にまとめてみると、下のようになります。
・「今」を意味づけるのは、「過去」と「これから」という文脈によってなされる。「音」を音楽として感じるのも、「文字」を「文書」として感じることが出来るのも、その前後の流れの中に、今を置くことによってでしかない。
・芝居の台詞や、私たちが嘘を話すとき、あるいは確信が持てない話をするときに、普段と違う話し方になってしまうのは、“身体が欠けている”から。我々が、言語による意味の表現をコントロール可能なものに限定し、コントロールできないものをそぎ落としているから発生する感覚である
・現代は、とかく多重人格とかうつとかDVとかの心の分裂が話題になるが、思春期に、しっかりと“心が割れる”ような自分のコントロール不能な感情と向き合わない若者が増えているから、そういうことが発生しているんじゃないか。
・アメリカは急激に老化してきていて、かつての大国(イギリス、スペイン、ポルトガル、はたまたムガール帝国、オスマントルコ・・・・)が漏れなくそうであったように、かつての栄光を傘に着て、相手に言うことをきかせようとするような、「もうろくじじい」のごとき外交を仕掛けてくる。そうした、自国の政府のご乱心に、ストップをかける健全な若者文化のようなサブカルチャーも影を潜めてしまっている。
・靖国神社参拝問題のような、死者の弔い方を巡る賛否の議論につ
いて、生きている我々にその是非を結論づける権利はない。こっちが正しい、そっちが間違っているという対立は、その意味で無意味であり、誰も正しいやり方など知らないのだ、という謙虚さこそが、問題を根本から解決する、本当の出口なのではなかろうか。
お腹一杯です。ごちそうさまでした。