あらすじ
ムバーラクの三〇年にわたる独裁は、二〇一一年、民衆による「一月二五日革命」で幕を閉じた。しかし、その後の民主化プロセスの中で、軍とムスリム同胞団が熾烈な権力闘争を展開し、革命の立役者である若者たちは疎外されていく――。エジプトの民主主義は、どこで道を誤ったのか。アラブの盟主エジプトが迷走した、二年半におよぶ歴史上の劃期を、軍・宗教勢力・革命を起こした青年たちの三者の視点から追う。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
アラブの春以降、同胞団政権が転覆されるまで、2011年1月25日から2013年6月30日の間にエジプト国内で何が起きたのか、現地での生活を通じた生の実体験をベースに解説した新書。ムバラク失墜までエジプトに根付いてきた負の遺産も簡潔に説明されており、同国の現状を理解するには非常に良書となっている。
アラブの春以降、エジプトで主に活動していたのは3つのアクターであり、それは軍部、同胞団、青年勢力であった。1月25日の革命を主導したのは青年勢力であったが、それを完成させたのは軍部であり、この大衆中産革命とクーデターという二つの側面を有していることが、その後のプロセスを複雑にしたと、筆者はいう。
実際に、3者はそれぞれデモクラシーの実現を掲げながらも、その意味するところはそれぞれに異なっていた。そして、一旦は身を引いたと思われた軍部が、したたかに同胞団の政権担当能力不足を目立たせ、そこに反発する青年勢力を味方につけて、最終的に6月30日のクーデターにつながったのである。
一年という短命に終わった同胞団の統治には、当然彼らの責めに帰するものとそうでないものがある。大幅の賃上げや負債の解消などのポピュリスト的政策は国内経済を著しく混乱させたが、ムバラク時代から受け継いだ慢性的問題は1年で解決できるものでは到底ない。そのような問題以上に、同胞団の急激な勢力拡大が社会の反発を産んだこと、そして軍に対する手綱を締め続けることができなかったことが、彼らの統治に終止符を打ったのである。
しかし、著者は最後にこのように警告している。
「多数決によって物事を決定する民主主義の欠点を克服するために、軍部によるクーデターという民主的手続きを踏まない手段を選んだことは、今後大きな「つけ」となって彼らの上に重くのしかかるに違いない。エジプトの未来を担う若者は、これからも様々な矛盾と葛藤しながらも、自分たちの民主主義を模索していくことだろう。」
後者は「エジプト型の民主主義はなにか」を探していくという、ある種ポジティブな締めくくりだが、前者の警告は傾聴に値する。慢性的な苦しみを避け、短期的な解決策を選んだことは、同国の将来において大きな変化が生まれる際に弊害となって人々の記憶に蘇ることだろう。
Posted by ブクログ
【帯】
エジプトの盟主エジプトが迷走した、二年半におよぶ歴史上の劃期を、軍・宗教勢力・革命を起こした青年たちの三者の視点から追う。
《第1章 革命のうねり》
<1. 政権崩壊までの18日間>
<2. 革命の2つの顔>
【大衆中産革命】p21
海外の研究者の中には、エジプトの1月25日革命の本質を、革命のレボリューションとクーデターを合わせて、クーボルーションと評する者もいる。
【軍部によるクーデター】p26
すなわち、体制の維持を目論む軍部、政権の獲得を目指すムスリム同胞団、そして命を賭してムバーラク政権を崩壊させたと自負する青年勢力という三者の思惑が、民主化の名のもとで真正面から衝突したのである。
《第2章 将校たちの共和国》
<1. エジプトの真の支配者>
<2. 軍事共和制の成立>
【ナセルが築き上げたもの】p26
ナセルは、帝国主義と戦いアラブ民族主義をアラブ地域に広めた英雄という評価がある一方、国内では反体制派を徹底弾圧し、抑圧的な体制を作った毀誉褒貶相半ばする人物であった。
<3. サダトによる脱ナセル化政策>
<4. 体制転換を試みたムバーラク>
<5. ムバーラクから離れた軍最高評議会>
《第3章 自由の謳歌》
<1. 取り戻した大国としての自信>
【二つのナショナリズム】P67
自信の復活とともにエジプト国民が併せ持つ二つのナショナリズムも昂揚した。
①エジプトという領域に限定されたエジプト・ナショナリズム(ワタニーヤ)
②アラブ地域を領域としたアラブ民族主義(カウミーヤ)
〈2. 筋書きのない民主化プロセス〉
《第4章 ポスト・ムバーラク体制の土台作り》
〈1. 新体制への地ならし〉