あらすじ
女子高生の時に夢中になった落語と法華経。その衝撃の出会いが、私の人生を決めました。プロの噺家としてお客さんに笑いを届け、尼さんとして仏教の魅力を伝える。職業・落語家、生き方・尼さん――。そのためには辛く厳しい修行もなんのその。お釈迦様はいつも私の応援団です。青春を捧げた内弟子修行、クリスチャンとの異宗教婚、天台宗キャンペーンガール就任など、日本初「尼な落語家」の半生記。いよいよ開演!
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Posted by ブクログ
尼さん落語家の自伝。さすがに面白い。宗教を持つのが難しいこの国で宗教を持って生きることはそれはそれで大変だから。夫婦の宗旨がちがって仲良くやるのはとても日本的かもしれない。それと、どちらも割と老成した宗旨だからか。いいなあ。
Posted by ブクログ
信仰について否定的な人や、仏教以外のあつく信仰している宗教がある人にはあわない。そもそも、そういう人は手に取らないと思うので問題はないかと思うけど。
テーマという点でももちろん人を選ぶ本なのだが、著者の語り口がけっこうぐいぐい来るので、そういう意味でもちょっと押しつけがましいのが苦手な人には向かない。学生時代、「先生、それっておかしいと思います!」と堂々と正義を貫く姿勢を持っていた生徒に、あなたが感じることを、この本を読むと感じると思う。
衝撃だった一言が、「理屈をこねる人にろくな人はいない。理屈をこねる前に信じる」という信仰心の説明。
そもそも、著者が感じた死への恐怖は、理屈では説明のつかない感覚的なことだろうから、信仰との相性がよかったのではないだろうか。
しかし、親を信じるのにも友達を信じるのにも、確かに私たちは理屈をこねない。なので理屈をこねるな理論にも一定の理屈は通っている。
信じてから理屈をこねるのか、理屈をこねてから信じるのか。これはどちらが正しいとかではなく、その人の信仰が尊重されるのと同様に、あらゆる人の信仰心の強弱もやはり尊重されるべきであるから、信仰が違う人同士だけでなく、信仰心が違う人同士でも議論し続けるべき課題のように思う。(どちらかが正しい、説き伏せる、などではなく)
思うに、テストで答えがさっぱりわからない四択があったとして、それを、鉛筆を転がして答えるか、あくまでも問題と向き合って少しでも理屈をつけて答えるか、その違いに近い気がする。人生の答えは誰にもわからない。