あらすじ
ケアからこぼれ落ちる女性たち
著者の臨床心理士としてのキャリアのスタート地点であり、アルコール依存症の男性患者たちを時代の病として活写した『依存症』(文春新書)から四半世紀。令和のいま、依存症の主役は女性たちになった。
若年化するオーバードーズ、自傷、摂食障害、女性のアルコール依存、ホス狂い、DV・ストーカー被害、そして推し活……。
かつて家族のケアを受けられた男性患者と異なり、守られるべき家族から放擲され、社会的経験もステイタスもない。ケアを求めてもケアを奪われ、アディクション(依存症)によって溺れながら生き延びる彼女たちの姿を、下り坂日本の写し鏡として描く。
【目次】
PART1 古くて新しい依存症
第1章 「セックス依存症」の女性は実在するのか?
第2章 なぜ娘は苦しむのか? ACブームを振り返る
第3章 摂食障害というありふれた依存症
第4章 依存症は意志が弱い人がなるのか?
PART2 依存症、トラウマ、ケア
第5章 コロナ禍に加速したOD
第6章 いま伝えたい、PTSDのこと
第7章 セルフケアブームを、依存症から考える
PART3 依存症からアディクションへ
第8章 アディクションの主役は女性になった
第9章 推し活とアディクション
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Posted by ブクログ
信田さん、80歳にして、この冴え!この切れ味の鋭さ!この視野の広さ!
「依存は自前のトラウマケア」という前提で、アディクションを捉える。
苦しみから逃れるために、生きるために必要だったアディクションが、苦しみを生むという逆説的構造。
DVにおける逆転意識。
わかりやすい。なるほど!と膝を打つ人も多いのでは。
「夫からしょっちゅう侮辱され、時には殴られている女性は多い。あまり知られていないが、彼女たちが全員「ああ、これはDVだ。夫から逃げたほうがいい」と考えるわけではない。いっぽう殴った夫も「ああ、これはDVだ。僕はDV加害者だ」と考えるわけではない。では2人はどのように考えているのだろう。
妻は「夫を怒らせたのは私だ」「あんな夫だが、選んだのは私だ」と考えている。夫は、「なぜ僕を怒らせるのか」「怒らせたのは妻だ」と考えている。つまり、DV被害を受けた妻のほうは、「私が悪い、私の責任だ」(加害者は自分だ)と思い、DV行為の主体(加害者)である夫は「自分のほうが被害者だ」「責任は妻にある」と思っている。このように、DVが起きている夫婦においては、行為と意識が逆転している。これを「DVにおける当事者性の不在」と呼んでいる。」
「私はDV被害者(女性)のグループカウンセリングを25年間実施しているが、彼女たちと性被害女性とは酷似している。よくよく考えてみれば、多くのDV被害者は性的DVの被害者でもある。夫に対して緊張と恐怖を抱いている妻は、性行為においてそれから解放されるはずもないだろう。夫の側も妻がどう受け止めているかなど考えたこともなく、一方的な性行為によって妻を満足させていると勘違いしている。妻は夫の反応が怖いので従順に満足しているふりをしなければならない。不同意であることが許されない構造そのものが性的DVだと思う。」
清々しいほどの聡明さと、弱い方の側の立場で物事を見なければ公平にならないという論理に感動。
以前講演会で信田さんの話を聞く機会があった。新聞や雑誌で書かれたものは読んだことがあるくらいで、信田さんの著作は読んだことはなかったので、さほど期待せずに聞いたのだが。
気持ちいいくらいの、歯に衣着せぬ物言い。(これは想定内)
そして、なんだかあったかい(これは驚き)
そして、威張ってない。(好感)
兎角、「気が強い」だの「キツイ」だの言われる日本だが、信田さんのそのさばけた口調は、小気味よく、スッキリしたのが思い出される。
何を臆しているのよ!と励まされるような。
言葉の言い換えの狡さに言及しているところも、さすが。日本で行われがちな意図的で巧妙な婉曲翻訳、ユーフェミゼイションを最近苅谷剛彦さんの話から知ったところだったので、ここでもか!と驚く。
「『性加害』という言葉は、同意のない性行為を広く指す表現として多用されているが、日本特有のグレーな表現だ。英文報道では sexualassault(性的暴行)や sexual abuse(性的虐待)と呼ばれる。assaultとは「暴行、暴力、乱暴」などの激しい意味を持ち、名詞・動詞の両方で使われる。
また、abuse は child abuse(児童虐待)でも知られる単語だ。欧米では、assaultやabuseはいずれも刑法上の犯罪に相当する。これを日本では「加害」と総称したのだ。おそらくそこには男性の性行為の犯罪性を薄めたいという社会の意志が働いているだろう。」
最後の章からがまたよい。
「推し活」の罠。
「自発的選択を半ば強制されるという逆説、その結果責任はすべて自分にあるという装置。
これらはすべて檻ではないだろうか。
やりたいことをやるという呪いに掛けられ、檻に閉じ込められたひとたちは、「推し」をつくることで、かろうじて「やりたいことをやっている私」を見つけることができる。
多くの人たちが、「これが私の推しです」と言ってケイタイの待ち受け画面を誇らしげに見せるのは、どんなに世情が不安定でも、どんなに物価が上がろうが、私はこうやってやりたいことを見つけて(自発的選択)いるんですよ」ということのデモンストレーションのように思える。私はいつもそんな姿を見るたびに、痛々しく思ってしまう。」
こういったアディクションの変化は、グローバル経済による金融資本主義が世界を覆い、今後は人々の認知機能そのものがアディクション化していくと信田さんは言う。
そして、最後に、「中動態」にまで話は及ぶ。
なるほど、意志の力、自己選択、自己責任とアディクションが繋がっているとすれば、そこからの解放は、自分の心から離れることだ。
80歳でもこの知性と瑞々しさと柔軟さ。
なんかうれしくなりました。