あらすじ
超高齢化社会を迎え、死と葬儀が身近なものになりつつある。その一方、伝統的な葬儀が簡略化され、「家族葬」「自由葬」「散骨」など、新しい形も生まれている。新時代の葬儀は、いかにあるべきものなのだろうか?遺族として、またいずれは死を迎える自分自身のこととして、とらえ直してみたい。それぞれの葬儀の流れを示し、諸儀礼と作法、事務手続き、費用、そしてその意味を、丁寧にわかりやすく解説する。
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Posted by ブクログ
真摯な姿勢が心地よい
高度経済成長期に人びとは、死、そして葬式の体験の共有抜きで、形だけの作法を求めた。
墓に家紋を彫ること、葬儀会場の入り口の門に家紋を飾ることも、高度経済成長期に始まった習慣である。「家」というものが強調されるようになったのだ。
医療技術が今ほど発展していなかった昔は、治療法などが限られていたため、人間は病気や事故なども含めて、ある意味自然に死んでいった。ある点を定めて、ここが死と判定はしなかった。ところが、現代はそれが点になってしまっている。しかし、葬儀が相変わらずプロセスを踏んで行われるのは、遺族や故人と親しい人の心理状態にとっては死が点ではないことを示している。
死の瞬間というのはマナーを要請しない出来事なのだ。
この枕経から始まる宗教者、葬儀社との打ち合わせ過程を「前葬儀」という。共感する第三者と遺族が、死者の送り方について、じっくり考える時間を表した非常にいい言葉だ。おそらく今、一番欠けているものは、この前葬儀という時間だろう。
「迷惑をかけたくない」とする人は、一人称の目だけで死をみているのではないだろうか。遺される家族の目で見ているだろうか。家族を喪失すれば、悲しみ、嘆くのは人間として当然のことである。その絆が喪われるからだ。絆があればこそ、悲しみ、嘆き、弔おうとするのである。であるならば、弔いというのは遺された者の「義務」というよりも、「権利」というべきであろう。