あらすじ
アルタミラの洞窟画から、モネ、水墨画、良寛・芭蕉、メトロポリタン美術館、ウォーホル、現代美術まで――時空を超えて美の本質をさぐる。二一世紀に生きるための芸術論。
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「という言葉を思い出しました。日常的な素材を利用し、主客直心の交わり、とはまさに私が体験したことだったのではないでしょうか。茶道という美的体験が時空を超えて伝わってきた瞬間でした。 そして夜になると、トウモロコシや豆のようなものを食事に出してくれました。あるときなどは、地鶏を焼いて塩をかけるなどしてくれました。結局、現地の遊牧民が食べているものが最高に美味しかった。私の覚悟とは裏腹に、出されたお茶や作ってくれた食事はどれも驚くほど美味しかったのです。そのことは私にとって驚きであり、感動ですらありました。美味しいものはやはり誰が食べても美味しい、という実体験をしたのです。 それは同時に、このいわば地球の裏側にまで来て、「私とあなたは同じ人間だ」と感じることのできた貴重な体験でもありました。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「 私はアフリカで遊牧民の少年が野に咲く花を摘み、遠来からの旅行者にプレゼントする光景を目撃したことがあります。少年は何の考えも情報もなく、花を美しいと感じ、はるばるどこか遠いところから来た人も、この美しい花をきっと美しいと感じるに違いないと確信して、喜ぶだろうと思い、差し出したわけです。もちろんその旅行者は、「ビューティフル」といって少年の心と花の美しさを感じたわけです。私はその姿を見て、心から感動したのです。美しいものは誰が見ても美しいのです。 したがって、日本人にしかわからないというものも存在しないのです。もし存在するという人がいるとしたら、それは実はその日本人にもわかっていないのです。わかったような気になっているだけなのです。 人間は驚くほど皆同じであり、嬉しければ笑い、悲しければ泣く。美味しいものを食べれば美味しいと感じる。国境や民族、宗教そして思想をも超えて、人間は皆同じなのです。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「そのことを伝えるのが美の役割です。「私たちとあなたたちとは話をしても到底わかり合えない」。この考え方が、現代のさまざまな問題の根にあります。しかし美を共通の体験として人々は、あなたと私は同じ人間なのだ、ということを知ることができるのです。美の前で、人々は絶対的な自分の本心に向かい合うことになるのです。美しいと感じる心を欺くことはできません。 いつしか、「人間は皆同じである」という感覚が人々に欠如しはじめました。その理由には、色々な問題があるでしょう。宗教や政治や思想の違い、合理主義、モダニズム、経済格差の問題などがあげられます。しかし、美はその垣根を取り払い、「人間は皆同じである」という大切なことを教えてくれるのです。美は特にこの時代に、とても大切なメッセージを私たちに送り続けているのです。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「そのことを伝えるのが美の役割です。「私たちとあなたたちとは話をしても到底わかり合えない」。この考え方が、現代のさまざまな問題の根にあります。しかし美を共通の体験として人々は、あなたと私は同じ人間なのだ、ということを知ることができるのです。美の前で、人々は絶対的な自分の本心に向かい合うことになるのです。美しいと感じる心を欺くことはできません。 いつしか、「人間は皆同じである」という感覚が人々に欠如しはじめました。その理由には、色々な問題があるでしょう。宗教や政治や思想の違い、合理主義、モダニズム、経済格差の問題などがあげられます。しかし、美はその垣根を取り払い、「人間は皆同じである」という大切なことを教えてくれるのです。美は特にこの時代に、とても大切なメッセージを私たちに送り続けているのです。 終末論のような芸術が跋扈し、私のように「あなたと私は同じ人間」などと言うと、太平楽と批判される風潮はじつに困ったものです。「同じ人間」だから全てが伝わってゆくのです。「違う人間」という発想のゆきつく先は、戦争です。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「圧倒的な美というものは、あらゆる国境、宗教、民族、思想、哲学のすべてを超えて後世まで伝わっていくものです。例えば、イスラム美術を見るとき、私たちはイスラム教徒ではなくてもイスラム美術をとても素晴らしいと思います。またキリスト教徒ではなくてもキリストの母、聖母マリア像を見て崇高な様子に胸を打たれることがあります。 つまり、美に対する感動というものは宗教さえも超える。同時に何百年という時間をも超える。思想、哲学をも超える。美の計り知れない力、美はすべてを超えていくものだ、ということを自分の体験としてメトロポリタン美術館で私は学びました。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「最も綺麗な色の組み合わせの見本は自然の中にあります。例えば、五種類の緑だけで美しい組み合わせをつくるというような勉強を続けるとします。最も理想的な例は自然の中にあります。山の中を歩いていくと、簡単に五種類の違う色の葉が見つかります。そしてまた、その五種類の緑の中に最も綺麗な赤の点を打ちなさい、という問いへの最高の答えは、そこに咲いている赤い花なのです。このような意味で、神からの啓示が具体的に彼らの目の前に広がっていたと感じたことでしょう。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「アメリカの大自然というのは、実に驚くべきスケール感をともなう風景です。アメリカ大陸を旅行された方は実感があると思いますが、どの州にも世界一位というものが存在します。例えば、ある州には世界で一番大きな木があったり、別の州にはナイアガラの滝があったり、そしてまた別の州にはグランドキャニオンがあります。巨大なスケールの神の創造物に溢れているのです。風土的なものが人々の精神に大きく影響を与えたといってもいいでしょう。その体験の度合いが違うのです。 ここで初めて、絵画が巨大である必然性が出てきます。現代のアメリカの美術はとにかく巨大です。縦が二、三メートル、横が一〇メートルというような大きさを持つ作品はざらにあります。桁外れの大きさは、アメリカ美術の一つの特徴であり、ハドソンリバー派の大画面は、後のアメリカ美術の特徴を生み出す一つの歴史的な原点にもなっているといえます。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「死と美は同一である 鎧兜を見ながらいくつか考えたことがあります。ちょうどそのとき私はノーベル文学賞を受けた詩人である T・ S・エリオット(一八八八 ~一九六五)の『フォー・カルテット』(『四つの四重奏』)を読んでいる最中でした。そこには死と美ということに関して色々と述べられています。その詩の最後の一行に次のような言葉があります。 The fire and the rose are one. 直訳すると「ファイヤーとローズは一つのこと」、「ファイヤー」というのは恐ろしい人殺しや殺戮のことを指しています。では、「ローズ」は何を示しているのでしょうか。ローズは薔薇、しかしここではローズはコミュニケーションや愛、ロマンスを表していると思います。つまり「死と美は同じである」というわけです。まるで鎧兜の美について語っているようですね。恐ろしい人殺しのファイヤーと愛が同じである、という意味は一体何なのかと考えてみたくなります。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「 美というものが神の領域であると考えると、エリオットの言っていた意味が、何となくわかってきます。それは絶対的なもの、パーフェクション、完璧なものです。「美」イコール「強さ」であり、その逆もまた真であるという強い意味をもっているのです。 どんなジャンルにおいても強いものは美しい。例えばスポーツなどにおいても、その美しさの基準はあてはまるように思います。美とは強いものであり、そして強いものは美しいのです。これも鎧兜の美しさの一つの理由でしょう。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「 今一度、鎧兜の美に注目します。それが戦いのための防備の武具に過ぎない、と考えると殺伐として何も見えてはこないのですが、死、のみならず生をも象徴してゆくものであったことがわかってきました。一つ踏み込むと、とても奥の深い精神世界が垣間見えます。 歴史は雄弁に大切な何かを語りかけてきます。このような時代に、人一人が死ぬことの意味の大きさ、生きていることの尊さといった、大切なことを教えてくれるものとして、美しい武具の数々は、何よりの存在かもしれません。人の生命が今より重たかった時代があったのです。そのことを鎧兜の美から学ばなくてはならないのです。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「ウォーホルが芸術家としての活動を開始した一九六二年、マリリン・モンローが謎の死を遂げます。ウォーホルはそのニュースを聞き、モンローを描くことを決心したのです。こうしてまさにアメリカの激動とともに、ウォーホルの画業はその幕を切って落とされたのでした。 こうして考えてみますと、ウォーホルの明るい、色感の良い色を使った作品が、単に綺麗なだけの世界ではなく、もっと複雑な暗い表情をたたえていることに気づくのです。鏡のようにその時代を映し出すのが美術の世界です。ウォーホルの作品は実に暗示に満ちているのです。不安感が影のようにつきまとう繁栄のアメリカ帝国。そこにウォーホルが見たものは何だったのでしょう。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「ウォーホルは「マリリン・モンロー・トゥエンティータイムス」(二〇回繰り返されるモンロー)という作品で、曼荼羅のようにマリリンの顔が二〇回並ぶ作品を発表しました。彼にとって「繰り返すこと」が「美」だったのです。神なき時代、大量消費の時代、ウォーホルにとって「美」とは「繰り返すこと」に他ならなかったのです。スープの缶が一〇〇個並ぶ「一〇〇缶」(一九六二年)、一ドル札を一九二回繰り返し描いた「一九二ワンダラービル」(一九六二年)、そして清涼飲料のビンを二一〇個描いた「二一〇コカ・コーラ」(一九六二年)。 彼はエルビス・プレスリー、モナリザ、自由の女神と、メディアにより増幅された「虚像」を手当たり次第繰り返して、シルク・スクリーンで刷り、それを作品としました。メディアに出てくるものなら、何でもよかったのです。彼はとうとう有名になってきた自分自身のポートレイトさえも素材に用い、はては「牛」から「毛沢東」まで手当たり次第、目につくものを片端から作品として発表してゆくのです。そしてついには「誰でも五分間は有名になれる」と言い、それが誰でもよいのだ、とその本質を看破したのです。もはや描かれているものではなく、マスメディア自体がウォーホルにとって「神なるもの」であることは明らかでした。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「さらに、ウォーホルが使用していた絵具は、油絵具ではなく、アクリル絵具でした。これはどこでも誰にでも、すべて同じ物が手に入れられるものです。もともとヨーロッパ芸術に対するコンプレックスから生まれた背景を持つアメリカ美術は、ヨーロッパ的な価値を嘲笑するところがありました。歴史に残す、残るということに重きを置くヨーロッパ文明に反抗したかのように、安い絵具を使ったモネを再び私は思い出すのですが、ウォーホルもまた、時間とともに色褪せて、やがては色によっては消えてしまうようなアクリルという安価な絵具をわざと用い、そのことに価値を置いていない、と声高に示していたようです。そのウォーホルがマリリンの背景に、ヨーロッパ絵画の根幹の色彩である宗教画のための金色を用いたことに、どれほど大きな意味があったのかは考えるまでもありません。彼が現代のイコンを描くという目的のために金色を用いたのは、明らかなことです。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「歴史に残る作品とは一体どういうものなのかと考えてみると、それは、明らかに違う考え方の時代が訪れたときにも、引き続き人々に芸術として機能する、そして美として機能する、さまざまな人間の感情に対応できるものだということがわかりました。モダニズムの時代は、芸術は人工的なものだという考え方が支配していましたが、芸術とは本当は人間的なものだったのです。あらゆる人間の感情に対応できるのは、そのためです。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「歴史を直視し、すべてを超える、これがアートだ、これが美だ、と私は思いました。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「やがて杉本さんの存在が全体を通して巨大に浮かび上がってきました。「アートや美に個性は必要ない。必要なのは切り口の独創性なのだ」と語りかけてきます。「他者を生かして、結果的に自分が生きる」という姿勢。先の森村さんとも共通していた視点ですが、これはあえて言えば、とても日本的な美に対する姿勢です。生け花、陶芸、日本料理、どれをとってもそうでしょう。世界で認められた森村さん、杉本さんは、正しく日本的であったということです。そしてこれが今、世界の流れからぽっかりと抜け落ちてしまっている、今の世界には一番大切なものなのだ、と思いました。 私が、私が、と主張して駆動させてきた世界。どこもかしこもトレードマークのように自分のキャラクターを出すアーティストたちによって振り回されてきた二〇世紀のアートシーン。しかし、もうそれらは少なくとも私には何の魅力もありません。完全に自分を消して、素材を生かす。そのことによってすべてを超えてゆく。物質文明自体に対する大いなる警鐘として、杉本さんの作品は、病み、傷ついたニューヨークの人々に希望や勇気を与えてあまりあるものがあった、と私は感じたのです。振り返って考えてみると、モダニズムとは過去を否定することでした。だからモダニズムというのです。しかしそのつき詰まるところは、神のない真空のような世界でした。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「グラウンド・ゼロに立ってみると、物々しい警備、そして高い壁によって周りを遮断されています。ここには周りとグラウンド・ゼロとの対話の可能性はありません。壁の中で何が行われていたか、外からは全く見えないのです。このコミュニケーションの成立しないグラウンド・ゼロは、まるで世界の対立の図式のようでした。それぞれに信じる神のみを認め、他を認めない。違う意見を封殺し、自分の領土を押し広げてゆく。ここには美の意識もなければイマジネーションもありません。「こんなことをしたらどうなるか」というイマジネーションが欠落したのが、またモダニズムの大いなる特徴だったのです。飛行機で突っこんだらどうなるか、こんな所に爆弾を落としたらどうなるか……。そこにも同じ人間がいるのに……。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
「そして杉本さんの写真が教えてくれること、それは歴史に対する尊敬でした。 私は人類の歴史を掘りおこし、人間存在の尊さに心を配り、忘れてしまった大切な何かを思い出し、イマジネーションの大切さを認識する姿勢の中にこそ二一世紀の活路はあるのではないか、と考えています。美はすべてを超える。一番はじめに花を見て美しいと感じた人類の遠い祖先の心を思い出し、そして野に咲く花を採り、旅人にプレゼントしたアフリカの少年の無垢な心を思い出し、鎧兜の美しさを通して生命の尊さを思い出し、森村さんや杉本さんの作品が語る、人の心や痛みを思いやるイマジネーション豊かな創造の世界を通して、美がすべてを超えて大切なメッセージを発信し続けていることを改めて感じたのです。」
—『美は時を超える~千住博の美術の授業2~ (光文社新書)』千住 博著
Posted by ブクログ
アートは音楽と同じく、普遍的なもの。ベートーベンの例は、ドイツ人でドイツに生まれたベートベンの音楽は、人類すべてのものであって、特定の人しか楽しめない、楽しむに値する物ではない、という風に考える人は本当に悲しい。仕事も同じく、全ての人が同じように戦える。それを、立場や、なんらかのリミテーションをかける意味がどこにあるのか。自分しかできない、そんなものは世の中には存在しない。アートワークも同じで、誰でも感じることができる普遍性を持つ。MOMAで何度も見て、シンガポールのナショナルギャラリーでも何度も見ているモネの睡蓮や一連の風景画。虚無を描こうとしたのではないかという千住さんの考察。燃えるような赤い色で森を描くのは、まさに光は赤い。白内障で消えつつある色を、自身で表現していたに違いない。
水墨画は、黒い色のみを使ったアート。黒と白で宇宙を描く。この空間の美学こそが水墨画。奥行きや空間を感じさせてくれる。
ある意味で、書道も同じだ。字を通じて、世界と宇宙を描いていく。なので、書家に聞いてみると字をうまく書くことはそれなりに練習すればできるけど、その字をどこまで昔の人をリスペクトしつつ、その空間を時の意味や込められた意味とともに作り出せるか。
台北の故宮博物館で、衝撃を受けたそうだ。こういう神秘にも似た体験は場合とときによる。同じように故宮博物館に行ったとて、そういう体験をしないこともある。自分自身もMOMA、故宮博物館には何度も行っているけれど、そういう体験に出会えるときもあれば、そうでもないときもある。自分の気の持ちようだったりする。まさに、水墨画の表現、風景には大きな宇宙、エコシステムを全て包含する神の領域を持っていて、それがモナリザの背景とも似ていると。モナリザの背景があったことすら忘れてしまっていた事にびっくりするけれど、これは天地創造の時を描いたとも言われている。
ニューヨークの認識も、本当に住んでいらっしゃったんだなと思わせてくれる。海外でどう受けるか、を感がているアーティストが多いが、ニューヨークでは、ニューヨークという街自体が世界。人種とか国籍とか、そういうものを超えた何かを見ている。音楽も、このアーティストと5メートルのところにいたのか、と自信もびっくりするような距離感でライブを聞いていたし、エネルギーに満ち溢れていた。アートシーンは、そういう才能を常に探し見出している。
絵画が生み出すものは、普遍的な何か。この対話を楽しめるかどうかは、自分によっている。
Posted by ブクログ
読んでみたら内容に覚えがあって、この本が出版されて買った頃に読んだ再読だと気づいた。読んだ事を忘れていたのです。
当時は911の同時多発テロ後の時期。長い景気低迷の中にいて世界も日本も自分も混乱していた中にいて必死に生きていたと思う。そんな中でアートを心の支えにしていたなぁ、と思いだした。
図らずとも再読した今、コロナ禍の真っ只中にあってアートの力、必要性がまたもや叫ばれる時代の中にいる。テロ後の千住さんの『美』に対する考え、思いは今の時代、今の私にとって同様に響くものだった。
まさに『美は時を超える』のですね。