あらすじ
柴崎友香の作品に魅了された文学社会学者が読み解く、物語の広がり、記憶や空間の交差、つながるものとつながらないもの。
『きょうのできごと』『寝ても覚めても』『わたしがいなかった街で』『千の扉』の4作品を取り上げ、人物や物語を精緻に読解する。また、作品に描かれた土地を実際に歩き、空間的な視点からテクストの情景を私たちの目の前に浮上させる。
私とあなた、昨日と今日、日常と戦場、現在と過去――。柴崎作品が偶発的なつながりから日常に潜む危うさや生きることの不安定さを描き、私たちに謎や問いをそっと提示する、その巧みな手つきや魅力を明らかにする。
柴崎が描く物語世界で様々なつながりは日常的な振る舞いのなかで生まれ、ときには偶発的に持続し、またときにはあっけなく消失する。そのつながりのもろさのはざまで懸命に生きる私たちの「生」のありようを浮き彫りにする文学評論。
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Posted by ブクログ
『自分が何に惹かれているのかがわからないということだ。そしてもう一つは、その仕掛けを読み解いていくと、一作家の文学的な個性を超えて、私たちが生きている世界、この時代の現実をとらえる新しい視点が得られそうな気がすること』―『序章 時空間をめぐる小説』
ああ、自分と同じような感覚で柴崎友香を読む人が居る。頁を幾らも捲らない内に、そう思う。何に惹かれるのかを言語化できないまま、読み続けている作家。まさかその作家を読み解こうとする学者が居るとは。それが本書を手に取る切っ掛けではあったけれど、自分の中に巣食うもやもやとした印象や思考が言葉に置き換えられている、という錯覚を覚える。著者である社会学者、鈴木智之の論説全てに首肯する訳ではないけれど、著者の主張の土台となるもの、あるいは問題の定義の志向には、自分の中にあるものとの同質性を感じる。それは柴崎友香の文体に顕著に表れる叙景と叙情の取り合わせに注目しているということ。
『これは「寝ても覚めても」に限らないが、柴崎の小説には、世界がその経験の主体の前に現れるさまを描きながら、その世界が人々の主観に包摂されない外部性をもっていることをあらわにしてしまう場面がたびたび登場する。その世界を構成する時間は、人々が生きている物語の内部に生起するのではなく、経験の主体を置き去りにして「勝手に」進んでいく。物語、または語りの担い手としての意識存在は世界の中心にはいない』―『第2章 顔と反復』
著者である鈴木は、「寝ても覚めても」の中で、恐らく作家が意図的に多用している「だった」という表現についての読みを試みている。そしてそこに「主観的世界」と「非・主観的世界」の同時存在を、作家が強く意識していると読む。果たして作家がそのことを意識しているのか、作家にとっての世界の在り方が鈴木が読み解いたような哲学的思考の末にそう受領可能なものになったのかは、定かではないとは思う。どちらにせよ作家に見えている世界の言語化は独特で、柴崎友香をほぼ最初に評価した保坂和志の言によるところの、柴崎友香の「動体視力の良さ」ということと同義のことを、鈴木なりに噛み砕いているということなのかも知れない。一つ言えるとするなら、自分が関与しなくても回って行く自律的な世界との折り合いをどう着けるべきなのかを常に意識しているのがこの作家であるとは思う。
『世界のなりゆきは、その人の生のリズムを超えて自走する。したがって、変化はいつの間にか生じ、起こってから目撃される。そういう酷薄さが基底にある』―『第2章 顔と反復』
確かに柴崎の文章からそのような世界観が立ち上がってきそうではある。ただそうは思うものの、自分はここに「写真」という行為との類似性を作家は見ているだけなのではないか、とも思う。写真を「撮る」行為は撮影者の主体性が在って初めて為る行為だが、撮影者が写そうとするものだけが映像として切り取られる訳ではない。切り取ろうとした対象と、その対象がそこに存在することを「担保」している「背景」も同時に一葉の写真には写り込む。そしてその背景は、見返してみて初めて何故自分がその対象に惹かれたかを教えてくれる。外界の自律性は揺るがし難いけれども、その中に置かれた対象(無機質なものであろうと、生を伴うものであろうと)を通して、間接的に自分が外界の一部であることを否応なく指し示すものとの共鳴。そんなことを柴崎は見ているような気がする。更に言うなら、そこに切り取るという言葉で表現され得るような「自意識の抗い」の要素がないのがこの作家の凄みであるような気がする。自分はあくまでも撮影機であって撮影者ではない、と宣言するような凄みが。
『こうした場面を振り返っていくと、日々の生活のなかに「自分の生活」と呼びうるものが欠けていると「わたし」が語るときには、物語秩序の不在と偶発性の顕在化だけでなく、実在の世界に触れていないという感覚が込められていることがわかる。言い換えれば、彼女がその奇妙な探索行為によって探し求めているのは、日々の現実に「日常」という言葉にふさわしいだけの質感を与えるような接触の経験である』―『第4章 テレビ・戦争・住宅地』
この鈴木の言説こそが、この作家が映像記憶の人であるが故の反動が表れている部分であろうと、ほぼデビュー時から読み続けている読者としては思うところ。前述の写真との類似性で言えば「撮影」行為に対する関与の希薄さとでも言えばよいか。文体としては、その定まらなさが、「何も起こらない」とか「ただただ日常が描かれる」というような評に繋がりがちだと思うのだが、柴崎の本質は「撮影された写真」の意識的な撮影対象だけでなく、映っている全ての物語を読み解こうとするところにあるのだと思う。その意識的な物語の言語化と、背景から読み解いた客観的な物語の言語化が同時に進行するので、単純な物語を希求しがちな読者には受けないこともあるのだろうと想像する。
『一つの体制のもとで追い求められた可能性は、時代の変化とともにしばしば放棄
され、新しい計画が持ち込まれる。そこに断層が生じるのだが、過去の生産物は
きれいに一掃されることなく、古い地層あるいは痕跡として露出する。鈴木が東
京の各所に見いだしているものも、かつそこに生きた者たちの企ての残存物、ときにはついえてしまった夢の痕跡である』―『第6章 歴史の地層、痕跡の露出、生活の履歴』
第6章は、柴崎友香という作家の読解からやや離れて、街を描くということ全般に秘められている人間の思考の読み解きに移ってゆく。様々な哲学者の読解も交えながら、この章は社会学者としての思考の蓋然性を、一部柴崎友香の作品、あるいは作家が無意識に行っているかも知れない描写の中に、求めている章だとも言える。これはそんな論説の本質的な部分ではないのだけれど、引用した文章の中で用いられている地質学用語「断層」は、著者が意図する時間差による「断絶」を表現するのには適切ではないような気がする。この後の文章での用いられ方も視野に入れて、一応地質学を専らとするものとして考察するに、ここは「不整合」という地質学用語を当てる方が良いと思う。余計なお世話ですが。ついでに言うなら「露出」も地質学用語で揃えて表現するなら「露頭として顕れる」みたいな言い回しが思い浮かびます、はい。
『持続的な努力によって傑出した何かを達成するような人物はほとんど現れない。確かな方向性がみえない日々を生きる「普通の人」の日常。その場所にかつてあった、何らかの出来事の痕跡。同時代を生きる、誰かしらとの接近。そうした、文字どおり「小さな」、「目につきにくい」物語を生きていく人々の、どこか楽天的な姿勢。そこから生まれる緩やかな肯定感、さらにいえば幸福感。それが、柴崎友香の世界に基調を与えている。そして、小説の登場人物たちとともに、私たちもまた離接的な世界を生きているのだと思えるのだ』―『終章 この離接的な世界で』
この終章における鈴木智之の柴崎友香の作品解釈には全面的に共感する。一方で作家の思考は、本書で取り上げた作品以降、似てはいるものの、少しずつ変化しているようにも思う。著者自ら「あとがき」の中で告げている、それらの作品の読解にもまた期待したい。