【感想・ネタバレ】家庭用安心坑夫/猿の戴冠式のレビュー

あらすじ

【家庭用安心坑夫】
夫との平穏にみえる家庭に漠然とした不安を抱えた専業主婦小波が、ある日、日本橋三越の柱に、幼いころ実家に貼ったはずのシールがあるのを見つけたところから物語は始まる。小波はいまも実在する廃坑テーマパークに置かれた、坑夫姿のマネキン人形があなたの父親だと母に言い聞かされ育つが、やがて東京で結婚した彼女の日常とその生活圏いたるところに、その父ツトムが姿を現すようになって……。

【猿の戴冠式】
いい子のかんむりは/ヒトにもらうものでなく/自分で/自分に/さずけるもの。
ある事件以降、引きこもっていたしふみはテレビ画面のなかに「おねえちゃん」を見つけ動植物園へ行くことになる。言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ”シネノ”と邂逅し、魂をシンクロさせ交歓していく。
――”わたしたちには、わたしたちだけに通じる最強のおまじないがある”。

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Posted by ブクログ

どちらも作品も、「自分とは何なのか」という問いを、現実と幻想、自己と他者の境界を曖昧にしながら描いている作品だと感じた。
 『家庭用安心坑夫』で、まず印象に残るのはやはり「ツトム」という存在。「家庭用」「安心」「坑夫」と分けて考えると、ツトムは単なる父親の代用品ではなく、父親のいない小波の家庭に「父親がいる」という安心を供給するための存在だったのではないかと思う。つまり小波は、自分に欠けているものを想像によって作り、その想像を現実として受け入れることで自分の心の空白を埋めていた。ところが、その幻想が大人になった小波の現実に入り込んだ途端、今度は耐えられないものになる。ここがこの作品の最も生々しく、怖いところだと思った。幻想の中では愛せたものが、現実に持ち込まれると異物になる。自分を守るために必要だったものが、いつの間にか自分を縛るものへと変わってしまう。
 人間は自分の中にある欠落や満たされないものを、記憶や想像、物語によって補いながら生きることがある。この作品では、その「心が作り出したもの」がツトムという具体的な存在になっているように感じる。だから最後に小波がツトムを捨てることは、単に父親を捨てるということではなく、幼い自分を支えるために作った「父親の物語」そのものを手放すことだったのではないかと思った。
 そして、この「自分の内側にあるものを外側の存在に託す」という構造が、形を変えて『猿の戴冠式』にもつながっているように感じた。『猿の戴冠式』のしふみは、競歩選手として、また一人の女性として、社会からさまざまな意味を与えられている。「いい選手」「悪い選手」「いい子」「悪い子」といった評価によって、自分が何者なのかを決められてしまう。一方のシネノも、単なるボノボではなく、人間の言葉を理解する「特別な猿」として、人間から価値や意味を与えられ、その視線の中で生かされている。ここが非常に面白いと思った。シネノは「猿だから閉じ込められている」というだけではない。むしろ「特別な猿」として扱われ、価値を与えられている。それでも、その「特別さ」はシネノ自身が選んだものではなく、人間によって与えられたものでもある。しふみも同じで、評価されないことだけが苦しいのではなく、「あなたはこういう人間だ」と他者によって意味づけされることそのものから逃れられない。だから、しふみがシネノに自分を重ねていく過程は、単なる動物との交流ではなく、「他者を通して自分自身を見る」という心理の描写にも見える。シネノが本当に昔の「おねえちゃん」なのか、二人の間に本当に精神的な交信があったのかを完全には確定させないのも、謎を解くためというより、しふみとシネノ、自分と他者、現実と幻想の境界そのものを曖昧にするためなのではないかと思った。
 そして最後の「冠」が、作品全体をひっくり返す。誰かから「いい子」と認められて冠をもらうのではなく、自分で自分に冠を授ける。つまり、他人から与えられた評価によって自分の価値を決めるのではなく、自分自身に意味を与えるということなのだと思う。「猿の戴冠式」というタイトルも、特別な猿として人間から価値を与えられていたシネノや、社会から評価を与えられていたしふみが、その評価そのものから一歩外へ出ることを象徴しているように感じた。

 こうして2作品を並べてみると、『家庭用安心坑夫』では「自分の欠落を埋めるために自分が作り出したもの」に支配され、『猿の戴冠式』では「他者から与えられた自分」に支配されているように見える。どちらも、人間が自分自身を理解したり支えたりするために作ったものが、いつの間にか「自分そのもの」になってしまう怖さを描いているのではないか。そして、だからこそ小砂川チトさんの作品は、単純に「自分らしく生きよう」という話にはならないのだと思う。むしろ、「自分だと思っているものは、どこまでが自分自身で、どこからが他者や過去や想像によって作られたものなのか」という、もっと不穏な問いを残していく。その問いに明確な答えを与えないまま、読者自身に考えさせるところも、この二作品の魅力なのだと思う。読み終わった直後よりも、しばらく経ってから「あれは、もしかするとこういうことだったのではないか」と考え始めたときに、作品の輪郭が少しずつ変わっていく。そういう、後からじわじわと意味が染み出してくる作品だった。

0
2026年08月31日

Posted by ブクログ

家庭用安心坑夫について。
現実と妄想が入り乱れる主人公の狂気が描かれていく。幼い頃の経験に基づく秋田の鉱山の炭坑夫人形への異常執着。この小説の意図をすべては理解しきれていないように思います。

0
2026年07月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

『家庭用安心坑夫』
ところどころひらがな表記を使用してる。主人公、小波はおそらく受動的な人間。母の死、父の介護を半ば強引に強いられていた過去があり、それを記憶から抹消している。このひらがな使いは、成熟しきれてない小波を表現しているのかな、と感じた。

内容について。
コロナ禍によって仕事がなくなり、無意識下でけろっぴのシール、そしてツトムの幻影を見始め、そこから過去に囚われ、過去に向き合う為に実家に戻るという話運び自体は、既視感が否めない。
だが、そのツトムが廃坑テーマパークのマネキンで、昔、母親から父親だと言われて育ったというエキセントリックな設定が斬新で良い。
前半の少し不穏な空気から、小波がツトムを盗もうとする展開以降は、バカみたいなドタバタ感と不穏さが同居して、面白く読んだ。盗んだ後の謎のおじいとツトムとの鍋での団欒シーンは、バカバカしさすらあって良い。

母が作った虚像に向き合うも、やはりそれは虚像でしかなく、自分自身と向き合ったとはならない。ラストやや後味の悪さを感じ、そこも僕の好みだ。

個人的には、合間に挟まれるツトムの話が、もっと小波の話とあざといぐらいリンクしちゃっても良かったんじゃないかなと感じた。あの塩梅の理由もなんとなく分かるが。

『猿の戴冠式』
好みとしては、『家庭用安心坑夫』より好きだったかもしれない。
読み始め、なんて変な事に挑戦してるんだろう、と驚いた。元実験体とされていたボノボを語り手に据えるなんて、思いついてもなかなか出来ない。いや、そういった小説は存在するのかもしれないが、僕は知らない。この作家さんは、だいぶチャレンジャーさんだなと感じる。

話は言ってしまえば、とある問題を起こした競歩アスリートが、幼少の記憶の片隅にいた、実験台のボノボを自身と重ね、少しだけ前進するだけの話だ。
これを、まずボノボのシネノ目線、そしてしふみ目線にグラデーションしていく話運びも面白く読んだ。双方の語りの中、二人がシームレスに重なり、シネノなのにしふみで、しふみなのにシナノになる所など、集中して読んでないとこんがらがりそうで読むのに多少苦労したけど、僕は素直に凄いなと感嘆した。

ラストの盛り上がり、だいぶ高揚しながら読んだ。二人が並走し、「ありがとう」「どういたしまして」の場面、素直に熱い。勿論これはしふみの妄想の中での話なのだが、ここに至るまでの文章の密度も濃い為、しふみの混沌とした感情の渦の中に入り込みながら読み進められた。
すこーしだけの前進。僕の好みだ。

ただ、小砂川さんの作品はまだこの2作しか知らないが、設定の奇抜さとは裏腹に、物語自体はとてもありふれたものだ。これは別に良い悪いとかではなく、ここにもう一つ真新しい視点が欲しいなぁ、と読者として欲が出てくるのは確か。

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2026年06月19日

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