【感想・ネタバレ】トルコのもう一つの顔のレビュー

あらすじ

言語学者である著者はトルコ共和国を一九七〇年に訪れて以来、その地の人々と諸言語の魅力にとりつかれ、十数年にわたり一年の半分をトルコでの野外調査に費す日々が続いた。調査中に見舞われた災難に、進んで救いの手をさしのべ、言葉や歌を教えてくれた村人たち。辺境にあって歳月を越えてひそやかに生き続ける「言葉」とその守り手への愛をこめて綴る、とかく情報不足になりがちなトルコという国での得がたい体験の記録である。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

新書は評論文のようなものが殆どであるが、この本は読んでる途中、2回ほど本を閉じ、表紙を見て、「これ、本当に中公新書なのかな」とかやったほどだ。どう言うジャンルと言って良いのか分からないが、紀行文のような印象を受けた。新書にあるような内容ではない。

著者の小島剛一は、フランス在住の言語学者で、特に偏執的とも言えるほどトルコに入れあげ、トルコの少数民族の言語研究を、十数年とフランスからトルコに通い詰めつつやってきた人だ。この本の出版は1991年とかなり古いが、著者が旅行していた1970年代から1980年代末期に至るまで、トルコ共和国はトルコ人の単一民族国家であり、言語もトルコ語以外は存在しないと言う姿勢を堅持していた。実際にはクルド人を筆頭に、トルコには多数の少数民族を抱えており、各々の言語も存在する。トルコ政府はこのような「諸語」を、「トルコ語の方言」としているが、現在の東トルキスタン周辺をルーツとするアルタイ語系のトルコ語と、現在のアナトリアを中心とした旧帝国領域内の印欧語系の諸語は、系譜からして異なっている。クルド語もイラン語群に含まれる印欧語の一つであり、だからトルコ語とは違う。

このような小島剛一の活動は、本書によると開始から十数年は政府からマークされることもなく、かなり自由にやれていたようだった。バックパッカーのような身なりで、野宿や友達になった人々の家に寝泊まりしながら、トルコ全土を縦横無尽に渡り歩き、フィールドワークを続けてきたのが、「当局」の目にあまり付かなかったのかも知れない。トルコ語どころか少数民族諸語もかなり話せるようになっている。外国語の習得などは、センスも何も無いと思っているが、こういう風に十数・数十の言語を理解する人間は、センスが違うと思う。

上記状況にあったが、トルコからフランスに陸路戻る際、リヨンに駐在するトルコの外交官の車に同乗するに及んで、今までの行動をこの外交官に話し、トルコ政府に知られるところとなったようだった。結果的に、小島剛一はトルコへ「出禁」となっている。

トルコは、オスマン朝時代は諸民族に寛容で、トルコ語の押しつけも無かったのに、第一次大戦に負けてトルコとして独立してから、何度も偏狭な感じになったんだなと思ったりもしたが、私が個人的に強い印象を持ったのは、この著者である小島剛一の生き方である。

小島剛一は、別にトルコを転覆せんがために、このような調査をしている訳では無い。抑圧されているトルコ国内の諸民族のためにやっている側面は、無いわけじゃ無いだろうが、根底に流れているのは、純粋な学術的興味から行動していると言う点だ。

私が大学に入ってすぐ、語学クラスの担任と言う先生が諸々説明してくれた。担任と言っても、大学生活で会ったのはこの一度きりで、以後全く会っていない。理工学部なのにこの先生は確か違う学部の先生で、しかも専攻が、北欧における話者数が3,000人くらいしかいない、聞いたこともないような言語の研究だった。「こんな、世の中の役に立つかどうかも分からんことを研究して、メシを食っている学者がいるのか」と、全くの別世界に来たような印象を持った。

小島剛一は、「好きなことをして生きている」んだな、と思いながら読み進めた。勉強なんてのは「苦行」以外の何ものでも無い、と言う風に思わせる人間を量産する、画一的な教育を受けて来た中でも、たまに「学問がたまらなく好き」と言う人が出てくる。トルコ東部の安宿に泊まっている午前2時、突如憲兵隊に踏み込まれ、平手打ちを食らうような酷い目に遭っても、政府に食い付くようにグリグリとフィールドワークを続けてしまう程、学問にハマってしまっているのである、小島剛一は。

学生時代に読みたい本だった。私が学生時代には、既に出版されていたし、これを読んでいたら、学生時代にトルコに行っただろうなあ。

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2018年01月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

おそらく私たちは、表面のトルコ…
「優しい人が多い」ぐらいしか知らないと思います。

ところがどっこい、そういう面だけではなく
暗黒面があるのです。
以前ニュースでも出ていた「クルド人」に関してです。
そもそも彼らの言語は「ない」のです。

それと異色の宗教(イスラム教徒は違う)も
迫害の対象になっています。
同じ人なのに…
そして…

著者はその研究が広いのもあり
結局国外追放(実質帰国予定でしたが)
となってしまいます。
いずれ隠し通せなくなる日がきていたことでしょう。
いや、隠せなくなりましたね。

新書ではたまにある読むべき本。
トルコへの見方が変わります。

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2015年07月20日

Posted by ブクログ

ネタバレ

トルコは多民族国家で、度々クルド人問題がニュースになる程度は知っていました。
クルド人問題は氷山の一角で、それ以上にもっと民族問題があることを本書から学べました。
トルコ語を話さないと罰せられたり、すべての言語はトルコ語から派生していると学校で教えているという事実には驚きました。

トルコは旅行で訪れたこともあり、好感を持っている国ですが、真実はこうであったとは思いませんでした。続編も読むつもりです。

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2012年04月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

発行された年はちょうど湾岸戦争が起こった年で、トルコ周辺の状況が非常に緊迫した年でもあり、クルド問題もクローズアップされた年でもあった。
この本はクルドの状況を知ることができる数少ない一般書である。
当時のÖzal政権下で若干政策が緩和されトルコの日刊紙にもクルド語の単語が使われたりする一方、作品に”Kurt”とキャプション入れた映画監督が逮捕されたりするというまだまだ不安定な状況。
そんな中で著者はクルド(ザザ)と深くかかわりすぎて国外退去処分になってしまう。
今もまだ続くクルド問題の一端を垣間見るにはいい本だと思う。

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2014年06月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

著者:小島剛一
出版社:中公新書

1 トルコ人ほど親切な人たちも珍しい
2 トルコのもう一つの顔
3 言語と民族の「るつぼ」
5 デルスィム地方
5 Y氏との旅
6 「トルコに移住しませんか」
7 トルコ政府の「許可」を得て

P34 クルド人の独立運動家は「社会主義者」「マルクス・レーニン主義」など自ら定義しているが
実際は超党派の民族主義者と呼んだほうがよさそう。

・経済体制と言語政策に相関がない。
ex:言語自治権のある資本主義国:スイス、スウェーデン、フィンランド
少数民族を認めていない社会主義国:ブルガリア、ルーマニア、ベトナム

・トルコ共和国を成立させたのは、第一次世界大戦後のトルコ解放軍 ムスタファ・ケマル

・トルコ語は、ペルシャ、アラブ、ギリシャ語からの借用

・トルコ語の辞典はクルド人の項をひくとそんざいしないか、
「本来トルコ系であるが、現今では崩れたペルシャ語話す集団」

・イスラーム神学では、聖典の宗教のうちユダヤ教とキリスト教は、最後の宗教イスラームにいたる前の
漸進的な段階だとみなす。

P54
・かつて、セルジュクトルコ帝国は東から遡ってビザンス帝国を脅かし、オスマン・トルク帝国は東から興ってついにビザンス帝国を滅ぼした。
「東の蛮族の脅威」はトラキア人が完全にトルコ化したあとでも集団的な記憶からきえないのである。

P60
・「隠れ民族」と「忘れ民族」(著者造語)
隠れ民族-かつての日本の隠れキリスタンのように自分たちの真の姿をひた隠しに生きている民族
その民族の秘密が漏れたら致命傷である。
忘れ民族-ひた隠しにするあまり自分たちが本当はなんであったのかわからなくなってしまった集団。

P63
離れている県のクルド人が出会ったとしてクルディスタン独立の夢を語り合うときの共通語は
ざんねんながらトルコ語しかない。(クルマンチュ語の標準語が一応は存在するが、、。国外亡命者か、外国人しか習うことができない幻の言語)

P71
チェコ語とスロバキア語の差異は、東京弁と大阪弁のちがいよりはるかに小さい。
言語と方言の本質的なちがいはないと考える(作者)

P72
オスマン・トルコ帝国時代は、ペルシャ語、アラブ語、ギリシャ語の3つで、宮廷ではオスマルン語が公用語となり、トルコ語は田舎の言葉とされていた。
(言語に関しては、オスマンは帝国主義を採ることはしなかった、、、ローマと一緒だね。)
トルコ共和国以後、政治的な後ろ盾を受けるようになって書記言語として成立した。

P149
政策決定の方式としての民主主義と、それが決定する政策とは同じものではない。
その政策が必ずしも「自由」の保障にも「平等」の保障にもならないことは、歴史が示している


[感想]

バルカン半島とよばれる地域は、学校で、世界史をならったことがない
自分からすると心理的に一番遠い地域でかつ歴史に疎い地域である。

言語と民族と国籍がほぼ同一な日本という枠内にいるなかで
、なかなか国籍と民族-言語がいちいちに紐づいているわけではなく、
一方が迫害されている状況にあるようなことは想像しずらい。
ニュースで聞いていたとしても、現実的事実として認知するのが難しい。
(クルド語とザザ語は起源が異なるまったく違う言語であるのに、トルコ政府は同じクルド語として扱い、
クルド語で喋っていると反政府クルド人ゲリラにされてしまう現実
しかし、クルド語とザザ語はお互いが通じない言語なので、
クルド語の人とザザ語の人の共通言語はトルコ語であるとか。)

言語共同体が必ずしも民族と一致しないこともあり、一方では自分たちは
あくまで「トルコ人ではなく○○人」であるという意識だけが際立っていることを認識すれば
なぜゆえに当局(トルク政府や少数民族を弾劾する国々)は、共存という形を目指さないのか
単純に考えると甚だ疑問である。
(まあ、独立して領土を分割するという話になれば嫌がる理由は当然だけど、自治政府として現実存在しているやり方もあるのだから。)
まあ、領土問題を通してみれば、統治欲なんてものはそういう(偉い)立場にならないとわからないだろうけど。

[その他]

今回、読書会の課題ということで普段では絶対に手に取らないような本を
読むことになって、それはそれで新しい興味がうまれた。
しかし、この本を読むには
おそらく、この地域の地理、文化、歴史、宗教がバックボーンとして理解していないと
なかなか読み進めづらいし、その中でも宗教など意見がまとまらないものを含んでいるとなると
読書会の課題図書としてはそぐわない気もしてきた。
(安易な気持ちで臨むと自滅するきもしなくはない。)

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2012年03月18日

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