【感想・ネタバレ】中世都市鎌倉を歩く 源頼朝から上杉謙信までのレビュー

あらすじ

源頼朝に始まる鎌倉幕府が滅亡すると、鎌倉は急速に衰退しゴーストタウンとなったと考えられがちだが、実態は違っていた。京都室町に幕府が移った後も、鎌倉は東国を管轄する鎌倉府の所在地として十五世紀半ばまで繁栄を続けた。武家の首都として誕生し、幕府滅亡後はほとんど知られることのない都市鎌倉とはいかなるものだったのか。源氏、北条氏、足利氏、上杉氏の足跡を寺社や史跡に尋ねながら、謎に包まれた鎌倉の中世を歩く。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

『一遍聖絵』や時宗や癩病については五来重『熊野詣』(講談社学術文庫)にも言及されていたのを思い出した。

後北条氏の始祖北条早雲の諱について本書では(伊勢)長氏とされているが、Wikipediaによると長氏はいくつか仮定されている諱のうちの一つらしい。

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桓武平氏

河内清和源氏

豆北条氏

足利氏

上杉氏

後北条氏(小田原北条氏・伊勢氏)・里見氏

【幕府以前】
平安時代、鎌倉は平直方の所領となっていた。平忠常が房総(千葉県)で叛乱を起こすと、平直方はその鎮圧を命ぜられるも手を焼き、源頼信・頼義父子を派遣し、叛乱はようやく平定された。源頼義は弓の腕前を買われて平直方の娘を娶り、源氏はここで始めて鎌倉に拠点となる土地を得たとされる。

* 平直方は平高望の来孫にあたる。平高望は臣籍降下により平朝臣姓を下賜された桓武平氏の始祖の一人。鎌倉幕府の執権北条氏は平直方をその始祖としているが、否定的研究が多いとされる。
* 平忠常は平高望の曾孫にあたる。

源頼義は京都石清水八幡宮を由比が浜に勧請して鶴岡八幡宮を建てたが、後に失火し、鎌倉幕府の創設者源頼朝の時に現在の地に移設され、もとの地には由比若宮(元八幡)が建てられた。この鶴岡八幡宮は源氏および鎌倉幕府の守護神として、さらには鎌倉一帯の守護神として現代に承け継がれる。

* 源頼朝は源頼義と平直方娘との間に生まれた源義家の玄孫。

【鎌倉幕府】
源頼朝の父源義朝は京都と鎌倉を往復する生活を送り、両地を結ぶ交通路に沿って室をおいていたが、その中でも身分の高かった尾張厚田宮司の娘との子源頼朝が嫡子となった。しかし源義朝が平治の乱で平清盛に敗れると、源頼朝は伊豆に配流され、以仁王による平時追討の命令を受けて挙兵し、鎌倉に居を構えて幕府を開いた。

源頼朝から三代目の源実朝は入宋を強行しようとするなど奇行が目立ち、求心力を失って暗殺された。将軍家が断絶すると、摂関九条家から若干二歳の藤原頼経が新将軍として関東に下向したが、源頼朝の妻北条政子とその弟北条義時が事実上の支配者となった。

【北条氏執権】
源実朝暗殺など鎌倉幕府の混乱をみた後鳥羽上皇が北条義時討伐命令を出し、承久の乱が起こると、北条一門は団結して後鳥羽軍を撃退し、関東の一軍事政権であった鎌倉幕府は西国にも影響力をもつにいたり、北条義時の子北条泰時の代になって、将軍御所は大倉から宇都宮辻子へ移転した。北条泰時から執権政治が確立し、公家将軍を傀儡にその背後で北条執権が幕府を動かすという構造が幕府滅亡まで続く。

北条氏は和田氏、三浦氏、安達氏を次々に打倒して関東における最大勢力となり、得宗専制を展開して関東を牛耳ったが、二度の蒙古襲来や蝦夷合戦などが相継ぎ、御家人の奮戦により凌いだものの、与えられる褒賞がなかったことから内部の不満が募った。得宗北条高時が凡庸であったのに対し、政治的才知に長けた後醍醐天皇は足利尊氏、新田義貞らをとりこみ、その叛乱により執権北条氏を滅ぼし、建武の新政が始まった。

* 北条嫡流の家督を得宗と呼び、得宗政治では執権と内管領による評定がすべてを決定した。

【建武の新政】
後醍醐天皇に呼応した足利尊氏と新田義貞は、ともに源義家の子源義国の末裔で、源義国は父源義家から下野国足利(栃木県足利市)の地を譲られ、地名にちなんで足利氏を名告り、源義国の孫足利義兼は源頼朝の幕府開創に協力して北条時政の娘を与えられ、足利氏の地位を確立した。一方、源義国の子源義重は源頼朝挙兵に際して独立勢力を保持しようとしたため、幕府内での地位は低く、足利氏の家格には及ばなかった。

* 徳川家康は源(新田)義重の子孫を自称した。また、『南総里見八犬伝』の里見氏も新田氏の分派とされる。

足利尊氏は鎌倉幕府最後の執権赤橋(北条)守時の妹を娶り、隠岐を脱出した後醍醐天皇を追討すべく伯耆に向かったが、後醍醐天皇に説得されて鎌倉幕府に反旗を翻し、京都の六波羅を攻め落とした。後醍醐天皇の諱から尊の一字を下賜され、これ以降足利高氏あらため尊氏を名告る。

建武の新政開始後、足利尊氏の弟足利直義は後醍醐天皇の皇子成良親王に伴って鎌倉に下向し、兄足利尊氏の代わりに関東を統轄しつつ武士や寺社の掌握を進め、兄足利尊氏に対し、建武の新政で専制政治を目指す後醍醐天皇と袂をわかち、幕府を再興することを勧めた。

【室町幕府と鎌倉府】
最後の得宗(北条高時)の子北条時行が北条氏復興を図って足利直義軍を破り鎌倉を奪還(中先代の乱)すると、足利尊氏は鎌倉に進軍して北条時行の軍勢を駆逐し、そのまま鎌倉幕府の若宮大路御所跡に居を構えて後醍醐天皇に対抗する姿勢をみせた。さらに後醍醐天皇の派遣した新田義貞らの軍を破ると、入京して室町幕府を建てた。

鎌倉には足利尊氏の子足利義詮がのこったが、足利直義の失脚に伴って足利義詮が上洛すると、その弟足利基氏が鎌倉に下向し、鎌倉府が創設された。鎌倉府は室町幕府の出先機関というよりも関東政権と呼ぶべき代物で、その長である鎌倉公方には代々基氏の子孫が就任したが、自らも足利一門である歴代の鎌倉公方は室町将軍の地位をややもすれば覬覦し、五代目鎌倉公方足利成氏が享徳の乱に敗れて古河(茨城県古河市)に逃げた後の鎌倉は、公方の補佐役である関東管領の上杉氏の支配下となった。

【鎌倉府と関東管領】
足利基氏が初代鎌倉公方として京から鎌倉に下向した際、足利尊氏は執事として上杉憲顕と高師冬を従わせた。上杉氏の始祖は、鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向した藤原重房を始祖とし、藤原重房が恩賞として賜与された丹波上杉荘(京都)に因む。足利尊氏と足利直義の兄弟抗争が起こると、尊氏派の高師冬は直義派の上杉憲顕と対立することとなり、敗れて自害した。足利尊氏は直義派の上杉憲顕を除こうとしたが、足利基氏の言を容れて赦し、それ以降の関東管領は代々上杉氏が世襲した。なお、上杉憲顕の叔母は足利尊氏・直義の母にあたるため、両者は従兄弟関係にあった。

やがて、室町将軍の地位を覬覦する鎌倉公方とそれを阻止しようとする関東管領上杉氏とは反目するようになり、二極化が進んだ。公方足利持氏に虐げられた上杉氏憲(禅秀)が足利持氏を襲って返り討ちに遭うと、足利持氏は独裁を強め、室町将軍足利義教との対決に挑むも敗れ、その遺児を匿った結城氏は幕府軍により討伐された。唯一生き延びた遺児足利成氏は成長すると関東管領上杉氏側と対立するようになり、上杉憲忠を殺害、その廉で室町幕府軍の追討を受け、古河(茨城県古河市)に移り、それ以降は代々古河公方と呼ばれた。この争乱で東国は乱れ、戦国時代の幕開けとなった。

【後北条氏】
公方が古河に移ったのちの鎌倉は関東管領上杉氏の支配下となったが、足利成氏の混乱のさなかの上杉氏にも内訌が生じていた。そんななか、京都の伊勢長氏は駿河の今川家にとりいり、伊豆を攻め、上杉氏支配下の小田原城を陥落させた。伊勢長氏はさらに岡崎城を陥落させて鎌倉に入ると、三浦氏を滅亡させて相模を征服し、鎌倉の新主人となった。

伊勢長氏の子伊勢氏綱は、里見氏の侵攻により焼亡した鶴岡八幡宮を解体同然に再興させ、鎌倉の精神的支柱を復興させた。このころに伊勢氏綱は北条氏に改姓し、伊勢氏は後北条氏と呼ばれ区別される。子北条氏康は版図と拡大し関東の大半を領有すると、古河公方足利晴氏に娘芳春院を嫁がせ、縁戚となった。芳春院と足利晴氏との間に生まれた足利義氏は、のちに最後の古河公方となる。

【上杉謙信】
北条氏康に鎌倉を逐われた関東管領上杉憲政は、越後国守護代の地位にあった養子長尾景虎をたよった。養父から上杉家の家督を継いだ長尾景虎は上杉政虎と改名し、後北条氏征討のため関東入りすると、足利義氏の兄足利藤氏を推戴し、鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式が催された。しかし甲斐(山梨県)の武田氏、駿河の今川氏と結んだ後北条氏(伊勢氏)の阻止に遭い、足利藤氏は後北条氏に殺害され、のちに上杉謙信により足利義氏が古河公方として承認された。

鎌倉は古河に移った公方のもとで武将を魅了する土地としてあり続けたが、後北条氏も最終的には豊臣秀吉の侵攻を受けて滅亡した。

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2026年05月23日

Posted by ブクログ

10月に鎌倉市民になったので読みました。
本書は鎌倉を「都市」と見なし、12世紀末から16世紀までを描いた歴史書です。
著者は鎌倉は「鎌倉末期から南北朝期には幕府によって公認された9つの繁華街のみならず山内一帯には建長寺、円覚寺の門前町が、極楽寺一帯には極楽寺の門前町が形成されていたのであり、武士のみならず僧侶や商人・職人ら町衆も多数暮らす複合都市であった」と記述します。興味深いのは各地に小京都があるように、茨城の古河、長野の上田のような小鎌倉が作られたこと。「鎌倉は東国の地方都市のモデルであった。それゆえ都市鎌倉は中世都市を理解するカギとなると考えている」と議論を発展させます。
鎌倉の本といえば、鎌倉時代の鎌倉を扱ったものが多くあります。しかし、新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされた以降の本はほとんどありません。これは鎌倉は急速に衰退し、地方の田舎になったと多くの人が理解しているためです。そういう意味では、鎌倉幕府滅亡以降も都市鎌倉にスポットを与えた本書は画期的です。
著者の松尾剛次さんは「中世都市鎌倉の風景」「仏教入門」のような、鎌倉や仏教についての著書が多数あります。著者は発掘に考古学的成果、北条泰時による御所の移転や和賀江島の築造の意義、鎌倉公方の古河へに移転後の鎌倉の存在意義、建長寺指図と建長寺絵図が見せる中世鎌倉の繁栄ぶり、小田原北条氏の初代伊勢長氏(北条早雲)の改名などを興味深く描きます。
「鎌倉殿の十三人」以降を知るのに絶好の入門書。また、鎌倉の寺の縁起や興隆も描かれ、ちょっと渋いガイドブックとしても役に立つと思います。お勧めです。

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2022年10月24日

Posted by ブクログ

幕府時代だけでなく室町末期まで政治都市として機能していた鎌倉の変遷を紹介。戦火で失われた遺構についての記述が多いので一般的な観光のお供には向かないけれど、空き地を観て「ここに永福寺があったのかぁ」と浸れるような人にはオススメ。トレラン前に読み切れなかったのでもう一度走りに行かねば!

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2014年08月05日

Posted by ブクログ

Lv【初心者】に自信を持ってオススメ!
・鎌倉発祥の○○上杉氏の解りやすい系図と解説
・室町、特に南北朝・鎌倉府・享徳の乱
・ガイドブックと合わせて鎌倉観光に歴史をプラス!

東国の鎌倉・室町時代を鎌倉という都市を通して解説。でもこんなに解りやすいのに、まさかの永享の法難とかまで載っていて、なかなか面白い。
単体でも面白いが、別にカラー写真のガイドブックや、観光マップなんかと突き合わせて読むと、倍、楽しめるぞ!

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2014年04月23日

Posted by ブクログ

中世の鎌倉。

鎌倉は行ったことは全くない。

しかし、中世を語る上で鎌倉は必要不可欠な都市。

その都市を支配者ごとに記述しているのは、非常にわかりやすかった。

城郭や、政治には興味があり、知識をもつことが多かったが、都市についてはもっていなかった。

これから、都市そのものや、都市構造を理解していきたいと思う。

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2021年10月17日

Posted by ブクログ

 頼朝により幕府が開かれた鎌倉。幕府滅亡後の室町時代には鎌倉府が置かれたこと、幕府将軍義教・関東管領上杉氏と持氏との対立により鎌倉府が一旦滅亡したこと、再興後再び争いとなり、鎌倉公方がその本拠地を古河に移した(古河公方)ことで、扇谷上杉氏が押さえたが、その後伊豆から後北条氏が進出したこと、などは一応の知識としては知っていた。

 本書では、源氏、北条氏、鎌倉公方、関東管領という支配者の変遷とともに中世都市鎌倉の歴史を辿っていく。特に、時代時代に建立された寺院について、その発願者や時代による変遷について多くの知識を得ることができた。

 本書を手にしながら、ぜひ鎌倉散策を楽しみたいものだ。

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2021年04月12日

Posted by ブクログ

鎌倉時代の鎌倉のみならず、室町時代まで書かれていて面白かった。

幕府が滅んだからといって、鎌倉という土地の持つ力が失われなかったことがわかります。
鎌倉府つくるくらいだしね。

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2012年07月31日

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