【感想・ネタバレ】日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正すのレビュー

あらすじ

「文法」が日本語を迫害している。「主語がよく省略される」から「非論理的」まで、100年にわたり「日本語」に貼られてきたレッテルを一刀両断する! 「愛らしい」「赤ん坊だ」「泣いた」――日本語の基本文はこの3種で必要十分である。英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を完璧に論破する、すべての日本語話者、必携の書。(講談社選書メチエ)※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、タブレットサイズの端末での閲読を推奨します。

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Posted by ブクログ

日本語では主語を省略する方が自然だと思っていた。「わたしはうれしい」じゃなくて、「うれしい」。けど、これは省略ではなかった。

p77
日本語では、主語の省略というのは不適当で、実は『主語なしの表現』をするのである。
(1)お暖かになりましたね。
(2)ほんとうですね。
こんな場合われわれは何かが省かれたとは感じない。こういう表現をめざしているのである。

p87
日本語にとっての「主語」は、ある日突然、明治維新と並行する形で導入される。まさしく脱亜入欧の時代精神が導入させたと言うべきだろう。「主語」を日本に天下りさせた人物は、あの国民的国語辞典『言海』を作った大槻文彦である。

文彦は江戸時代の蘭学者、大槻玄沢の孫! 「オランダ正月」という太陽暦での新年を祝うような家風に育った文彦が西洋文法を研究し、その「大槻文法」が明治政府の文部省により「学校文法」として採択された。

そしてフランスはモントリオールにて日本語を教える著者は、教える際この文法がからきし役に立たないと怒っているのです(そんな本だとは知らなかった)。

p109
多くの文法研究者、そして日本語教師にとっては、「は」と「蛾」の二つがいまだに根強く「主語を表わす主要助詞」という刷り込み(imprinting)がなされているのである。「主語症候群」あるいは「主語病」とでも呼ぶべきものだろう。我々はいまだに明治維新の精神構造から抜けだせていないのである。いかに黒船ショックが日本民族を心理的に震撼させたかを物語って余りある。日本語文法がこういう状態を続けることは、日本語教師を含めた日本人にとっても、日本語学習者にとっても不幸なことだが、実質的に被害を受けるのは後者の方である。

p129
「東京は面積が広い」、「象は鼻が長い」、「花子は頭がいい」などの文を、大槻文彦は二重主語文であると言い、それに反対した草野清民は、「は」の付いたものを「総主」、「が」のついたものを「主語」と呼んだ。橋本進吉は文を2段に分け、例えばここに挙げた最初の文をこう分析した。「東京は」が「面積が広い」の主語であり、下位レベルでは「面積が」が「広い」の主語である、と。

これらはすべて間違っている。正しいのは、名著『象は鼻が長い』における三上章の説明をおいてない。

象は、鼻が長い。

二重主語どころか、この文には主語が一つもない。(略)「象は」は主題(題目)であり、「こんにちは」のように文がここで切れている。「象について話しますよ」と聞き手の注意を引いておき、それに続く話し手のコメントが「鼻は長い」だ。これは単に、主格補語「鼻が」を伴った基本形容詞文「長い」にすぎない。

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このクリームは、肌にやさしい。

も同じ。
・主題がある
・形容詞文である
・形容詞文が格助詞付きの補語を一つ持っている

p137
大槻文彦、そして橋本進吉の2代にわたる学校文法は、スーパー助詞「は」の本来の姿を著しくゆがめてしまった。「は」に関してブラウンやチェンバレンと同じような考察が日本人の中から出てくるまでには長い道程があり、その「文を切る」機能を明確に主張し、日本語における主語の概念が否定されるには1960年の三上章という個性の登場を待たねばならなかったのである。

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2025年05月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

日本語の主語述語という概念が、欧米語をむりやり日本語に持ってきたという説明である。他動詞、自動詞というのも同様である。これで日本語の文法体系が抜本的に変わるかどうかはわからないが、少なくとも英語の文法に準拠して日本語を無理やり適用して文法にするという考えは少なくなっていくであろう。

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2025年04月20日

Posted by ブクログ

ネタバレ

昔、学校で国語の文法問題を解くのに日本語を英訳して答えを書いていたのを思い出した。こうすると、よくわからないものが簡単に解けるので、やはり日本語には文法と言うものはなく、英語の力を借りないとだめなのかと考えていた(ような気がする)。
さて、ひょんなことから知ることになった、国語文法:学校で習う国語の文法がとんでもないという金谷氏の主張の興味深さから、この本を手にとってみた。

まず、冒頭の『日本語に人称代名詞という品詞はいらない』に驚き、(かれ、それという言葉があるのに何で?)読み進むうちにその明快にして、深い切り口に納得。その後の『日本語に主語という概念はいらない』から本題に入っていく。 主語はいらないと言ったって、現に○○は××したと いう文があるではないか。○○が主語でないのか?と疑問に思いながら読んでいくと、次第に驚きの事実が判明していく。
結論を言ってしまうと、日本語に主語が無いのではなく、英語文法でいう主語という概念に相当するものが日本語には無いということであった(必然的に「日本語では主語が省略されることが多い」ではなく、省略しようにももともと主語が無い)。なぜ、日本語に主語の概念が無いのかについて、わかりやすく説明したのが5章の『日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解』である。ここから先は実際に読んでみてください。まさに、目からうろこです。なぜ英訳すると日本語の文法がよくわかったのかというと、学校で習っていた国語文法が英語の文法を元に作られていたからだった(当たり前でした。英語と国語の授業で二重に同じ文法を習っていたんだ)。

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2018年10月24日

Posted by ブクログ

「すべての日本語話者、必携の書」という惹句がすごい。労作である。力があって引き込まれた。「英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を完璧に論破する」という内容だ。

言語学者の論文といえるものを一般読者にも読めるようにしているところがよい。読み初めからそう感心していたが、終章「モントリオールから訴える」に「一部の専門家の目だけに触れる形では出版しないことにした。……文法的にかなり突っこんだ内容でも、可能な限り平易な普通の言葉で、誰にでも理解しやすい表現を心掛けたのはそのためである。」とある。正直言って、第五章「日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解」はさらっと読んだだけではむずかしかった。だが、前半は楽しく読めた。

ユーモアがちりばめてあるのもよい。「オッカムのかみそりというユーモラスで有益な言葉をご紹介したい。……説明原理はできるだけ切りつめるべきである、という原理である」。この尊敬するオッカム先生のかみそりが随所に登場して、不必要に重たくされた日本語文法の「髭」を剃る。かみそりの切れ味は良く、見事にすっきり剃りあげて、痛快なほどだ。「日本語には日本語の論理があるのだから、非論理的だなどという誹謗中傷は止めてもらいたい。これははっきり言って冤罪である。日本語は無実だ」というのもわかりやすい。英文法を基にして日本語を分析することの非を説くのに「英語セントリック」という言葉を使うが、「この「英語セントリック」という言葉は言うまでもなく《Egocentric》(自己中心的)の洒落であ」って、角田太作という学者の造語だ。「三上の「ピリオド越え」は義経の「鵯(ひよどり)越え」のパロディかも知れない」もおもしろい。著者も含めて言語学者だけあって、さすがというべきだろう。

建築家の黒川紀章は「明治が間違っていて、江戸が正しかった。もう一度、江戸に戻れ」と言ったそうだが、英文法の影響がなかった時代には、国学者たちが日本語そのものを見て日本語文法を説いていたそうだ。著者は本居宣長の息子の春庭の業績を賞賛している。もっと古くは「時は12世紀の平安末期、「右衛門督家歌合(うえもんのかみけうたあわせ)」という和歌の手引書に」日本語の自/他動詞研究の問題の正しい理解があるという。

著者がカナダの仏語圏であるケベック州で日本語教師をしているということが、本書に大きく貢献している。助詞の「は」と「が」を比べる議論があって、日本語を学ぶ外国人に、今の日本語文法を使って違いを説明するのは大変なようだ。だが、ケベック方言のフランス語にある「ラ、ラ」を使えば極めて簡単に済むそうだ。人に日本語を教えるという立場で書いたというのが、机上の空論でない議論になっていると思う。

日本語は曖昧な言語であるとか、非論理的であるとかは、聞いたことがあるが、実はそうではないということがわかった。森有礼や志賀直哉の日本語廃止論などにもかかわらず、日本語は、特に話し言葉ではその独自性を保ちながら、今日も生きている。本書のおかげでネイティブスピーカーとして誇りを感じさせてもらった。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

ネタバレ

人称代名詞はいらない。名詞と構文的な振る舞いが同じ。日本語の人称代名詞は修飾が可能。これは名詞と同じ。英語の場合はIを修飾することはない。
英語を世界の言葉の標準としてはならない。
欧米の言葉は名詞を代名詞で置換すると、語順が代わる。

日本語は主語を省略しているのではなく、大事なのが述語だから。述語だけで文章になる。
単語で答えると文になっていないと感じるが、です、をつけると文になっている。いくつですか?に10才、なら単語だが、10才です、は文章。日本語は述語があれば文章となる。

伊丹十三の翻訳の実験。「パパ・ユーアークレイジー」の後書きで、人称代名詞を省略しないというルールを設定した。しかし訳のわからない文章になった。
「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」→「ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った」

日本語には主語の概念は不要。述語だけで基本文になる。

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2025年01月20日

Posted by ブクログ

一気に読んだ。
最初はカナダかぶれの方かと思って読み始めたが、目から鱗の数々。日本語の文法は間違っている、主語など無い、とはかなり刺激的。
だが、全く腑に落ちる。スーパー助詞の「は」といい、使役と自動の対比といい、その通りと得心する。
その根源が明治時代の脱亜入欧にある、と言われると卒然とする。言葉を取り戻すことは精神性を取り戻すことに等しいのだ。

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2015年02月08日

Posted by ブクログ

 モントリオールで日本語の教育に携わっている著者が提唱するユニークな日本語文法論。
 そのユニークさを味わうために、まずは学校で習った文法を思い出してみよう。日本語には主語と述語があると習ったはずだ。でも、主語はよく省略されるとも。日本語は主語をあまり主張しない、あいまいな言語だ……なんてことも習った。
 でも、「そういう文法」では、外国人に日本語を教える役に立たなかったのだと著者は憤慨する。例えば「I love you」は日本語でなんというか? 「私はあなたを愛しています」か? 違う、そんなことふつーの日本人は言わない。それではいつまでたっても「外国人のバタ臭い日本語」にしかならない。ふつーの日本人は「私」も「あなた」も言わない。ただ「好きよ」って言っているのだ。
 間違いのおおもとは何か? 主語を省略しなきゃとか、自明の目的語も省略されるとか、そういうことではないのだ。「主語」という概念そのものを、日本語文法からなくさないといけないのだ。

 そもそも主語という概念は、どこで日本語に導入されたか。江戸時代に優れた日本語研究を行った本居宣長だって、「主語」なんて概念を扱うことはなかった。もともと洋学の家系に生まれた大槻文彦(日本最初の近代的な辞書『言海』で有名)が、明治の初期に英語に即して日本語文法を体系づけてしまったことが間違いのもとだった。どっかで改めればよかったものを、学校文法はこの明治の偉人がおかした過ちを、そのまま100年以上引きずってしまっているのだ。

 英語の構文についてはS+VだとかS+V+Oだとか習ったことがある。共通するのは、すべての構文に「S」つまり主語があるということだ。では、「主語を持たぬ」日本語はどういう構造を持った言葉であるか? 著者は、日本語の基本文型は3つしかないとする。
「愛らしい」(形容詞文)
「赤ん坊だ」(名詞文)
「泣いた」(動詞文)
 日本語では、これらはみな立派な「文」である。日本語は言うならば、主語不要の「述語一本立て」なんである。

 主語という概念をなくすと、何がいいか。
 まず「が」と「は」の違いなんてことに頭を悩ます必要がなくなる。「人称代名詞」なんて区別は必要なくなり「私」も「彼」もただの名詞というシンプルなことになる。「私はうなぎだ」みたいな文章で、「主語は“うなぎ”?」なんて間抜けなことを言わないで済む。「こんにゃくは太らない」なんて文章だって説明がつく。なんてすばらすぃ。

 これだけではなく、「は」のスーパー助詞としての働き、人称代名詞の日英仏比較、日本語における自動詞/他動詞など、この本ではいろいろな発見がある。金谷氏は先人・三上章の日本語論に傾倒し、さまざまな影響を受けていることを明言しているが、「海外で日本語を教える」という自分自身の経験から三上文法をよりブラッシュアップしている印象を受ける。
 とりあえず、へーとかほーとかうなずきながら興味深く読める「日本語文法論」であり、かつ「そーいうものなんだ」じゃなくて「そうだったのくゎ!」という読後感を持つという点では、画期的なんではないのかと。いかに学校文法というのが、実態に即してないものだったかということがよくわかるぞ。あんな役立たずな文法を教えている学校の先生ってば、何を考えておるのくゎ。いますぐ学校の国語文法から「主語」というのをなくすべきどゎ、と強く思ってしまうほど、説得力の高い「日本語文法論」だった。いわゆる「こなれた日本語」というものを書くためにも、知っておくと役に立つ知識が、いっぱい入っていると思う。

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2014年03月30日

Posted by ブクログ

AIの松尾教授の読んだ本にあるのを見て読んでみる。AIにどう役に立たせるのか不明。松尾氏の説明を知りたい。
「日本語に主語はいらない」と言うのは、「日本語には主語がない文が基本であり、それは省略されたと考えるべきモノではない」と言うことのようだ。確かにそれは分かる。しかしそれでどうなのか。著者は外国で外国人に日本語を教える日本人。そういう場面では役にたつのだろうか。
著者の熱い気持ちは伝わる。

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2024年11月24日

Posted by ブクログ

どういうものを「論理的な言葉」とするのかという定義自体が、確かに英仏の言葉にひきづられているものだとハッとする。
Iがひとつではないと言った日本語ならではの細やかさをもっと楽しもうと思う

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2020年09月09日

Posted by ブクログ

「日本語に主語、入らない」じゃないですょ・・・^^;。

かねて、「イギリス語の“I”一種類に対して、日本語には“僕”“わたし”“オレ”“それがし”など無数の言い方がある。日本語って、なんて細やかなんだべ!!」と思っていたんだけど、どうもこれ、そうカンタンにはいかない問題だったらしい。

そもそも“I”と“わたし”では、文法的な機能がまるで違うものである。
(どう違うかは、面白いから本書をお読みください^^;)

日本語文法に「主語」という概念を導入する必要はまったくないし、イギリス語の法則から日本語を考えても意味はない。それは、明治維新以来のイギリス語偏重主義の弊害であり、現在の学校文法は間違いである。

と著者はいう。

明治の頃、初代文部大臣の森有礼という人は「日本語やめてイギリス語を国語にしちまえ」という暴論を吐いた。前島密は「かな漢字をやめてローマ字を使うようにしちまえ」と言ったそうだ。
(言葉を捨て去ることは、そのまま文化、ひいては民族アイデンティティーの放棄である)
で、大槻文彦という人がその後の「日本語文法100年の誤謬」を決定づけた。・・・

また明治かよ、ですな。

そんな中で、イギリス語やフランス語の話者に日本語を教えて来た著者(モントリオール大学の言語学教授)のアンチテーゼには非常に説得力がある。

後半の自動詞と他動詞の問題あたりになると、かなり難しくて一読では噛みきれなかったんだけど、「は」「が」論争の不毛さも含めて、いかに日本語文法は誤った路地裏にさまよい込んでいた(いる)のか、ということがよくわかる本である。

あとがきにも、日本語教育に携わる方はぜひご一読を、と書いてあるが、日本語のためにオレからもぜひ、とお薦めしたい内容である。

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2019年06月10日

Posted by ブクログ

一応、一通り目を通しました。
途中、難しくって、何が書いてあるのか良く分からない所も多かったです(汗)。

タイトルにもなっている「日本語に主語はいらない」という考え方は、それを取り入れることで、なんだか(日本語を話す・書くのが)ラクになった気がしました。

また、頭が賢くなったら、もう一度、読み返してみようかな…(苦笑)

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2010年05月08日

Posted by ブクログ

英語文法に引きずられた日本語文法の常識を打ち壊す一冊。西洋の言語学・文法がそのまま日本語に適応されたことによって、どのようなひずみが生まれたのかがよく分かります。

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2009年10月04日

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