【感想・ネタバレ】モンテーニュ 旅日記(下)のレビュー

あらすじ

トスカーナのデッラ・ヴィッラ温泉での長逗留を経て,ローマを再訪したモンテーニュは,市長職が待ち受ける故郷へと帰路につく.異なる土地に惹かれ,日々の現実から逃れるかのような旅は,一七か月に及んだ.訳注と解説では『エセー』をふんだんに参照.家のできごとを書きつけた「家事日録」を付録として収載する.(全二冊)

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Posted by ブクログ

凡ゆる場面、まるで現代旅行者のようにモンテーニュ殿は気儘な旅をしている。(下)はローマから仏ボルドーまで、半年かけて帰ったその記録だ。

モンテーニュ殿(以下「殿」と呼称する)が秘書の手を借りずに自ら書き記した旅日記を時系列に載せて、私の感想を←として残す。便宜上、秘書に任せず殿自ら日記を書き始めた上巻224pから。

(1581年)2月16日、教会への参詣から戻ろうとすると、小さな礼拝堂で、法衣を身にまとった司祭が、「悪魔に憑かれた男」を治そうとして奮闘しているのを見かけた。それは憂鬱そうで、まるで死んだような男だった。祭壇の前でひざまずいて、なにやら布を首に巻いていたが、そうやって男をつかまえているのだ。司祭は男の前で、悪魔祓いのことばをむにゃむにゃ唱えて、悪魔に「この身体より出でよ」と命じながら、聖務日課書の析禱文を読み上げていた。
←以下延々と非常に貴重な16世紀末の「エクソシスト儀式」の一部始終を記録していた。殿は、この悪魔祓いを信じているのか否かを明らかにしない。客観描写に徹していた。好奇心旺盛な知識人。

2月17日。ローマは、フランスに比べると魚が少ない。カワカマスなども全然ありがたがられず、庶民の食べ物になっている。シタビラメやマスは珍重され、バーベル(似鯉)はとても美味で、ボルドーあたりのものよりもずっと大きいけれど、値段も高い。(略)一年を通じて、新鮮なブドウが食べられるし、今でも、とても美味しそうなのが棚にぶらさがっていたりする。ヒツジの肉は価値なしで、ほとんど評価されない。
←この文章だけ見ていると、現代の旅日記と言われても信じる人が多数なのではないか。翻訳のせいだけではない。視線と考察が現代的なのである。

4月21日。テルニ。町の下の方には、谷間に肥沃な平地が広がり、その向こうには、しっかりと耕作された丘の斜面が続き、人家も多い。とりわけオリーヴの木がたくさんあるから、これ以上はない美しさである。しかも、こうした丘陵のあいだに、ときおりかなり高い山があったりして、そこがまた山頂まで耕されて、あらゆる種類の果実がたわわになっているのだ。
←一般的な観光としての「景勝地」ではないが、殿はこのようにして「景色を愛で」ていた。思うに、実に近代的な考え。しかも、その眼は日本の様な田舎の美しさを最も評価していた。

4月25日。ロレート。「小さな家」(聖母マリアの家、つまりキリスト生誕の家、聖地。移築されて此処に来た。煉瓦造りの細長いみすぼらしい小屋だが、その周りを頑丈で美しい建物で覆っている)について、長々と述べる。殿は家族を描いた奉納画を納めた。記録はあるが、現在は紛失しているらしい。
←旅の目的のひとつだったろう。

5月5日。ルッカ。自由都市。城壁内の守りの構造などを詳しく描写している。例えば「土手の樹木は日陰だけでなく、有事の際には防衛用の粗朶に使われる」「300人の外国人部隊が守りを固めている」「都市部以外にも12万人の臣民を擁する」等々。
←スパイ防止法姦しい昨今から見れば、なんとも開けっぴろげと思ってしまう。ルッカはいっときフレンツェの支配下に入ったりしたが、基本的には共和国として長く自治を守ったらしい。

5月7日。デッラ・ヴィッラ温泉。殿が2度に渡り、延べ75日も滞留した温泉地である。この頃は前半の12名という大隊を伴っての旅ではなく、おそらく従者とロバ引と3-4名の旅だったろうと訳者は言う。この地での殿の日記記述は詳細を極め、特に温泉治療の詳細は人の助言を気にしながら独自のものを編み出して、慎重に砂や小石を出して腎臓結石治療に勤しんでいる。
←村の説明は、ほとんど現代旅雑誌のライターの文章が如し。「宿屋の主人はパウリーニ隊長という」(おそらく村の民兵組織隊長だろうと訳者)とまで書いている。

・温泉滞在中、一度生涯の友にして故人、ラ・ボエシーのことを思い出して「大変辛かった」と書く。訳者は「エセー」から彼のことを綴った部分を訳注に表記する。即ち以下。
「ラ・ボエシーが死去したのは1563年8月18日であった。なお、「旅日記」に莫逆の友ラ・ボエシーのことが出てくるのは、この個所のみ。ct「だが、こうした人生でもあえて全生涯をといわせてもらうけれどー、それを、あの人との甘美なる交わりや付き合いを享受すべく与えられた、あの四年間と比較するならば、それはもう、はかない煙にすぎず、暗くて、やりきれない夜でしかないのだ。彼を失った日から後は、(中略)わたしは、力もなくわが身を引きずっているにすぎない。わたしに差し出される楽しみにしても、わたしを慰めるどころか、彼を失った未練を倍加させるだけなのだ。われわれは、すべてを半々に分けていたのだから、今は、なんだか彼の分け前を奪っているような気がする」(『エセー』1・27/28「友情について」)
←「すべてを半々に分けていた」という言葉は、その後あらゆるBL文学で援用されていたかもしれないが、おそらくこれがその初出のような気がする。しかし殿は結婚もし、子供も何人ももうけているのだから、ボエシーと肉体関係があったとは思えないのである。

・温泉滞在中、日記は「純粋なトスカーナ語地域にいるのに、その言葉を記さないのはおかしい」と言ってイタリア語表記になる。殿は仏語伊語ラテン語のバイリンガルなのである。村のダンス大会に参加して一緒に踊ったり、観兵式に招待されたりしている(この後ダンス大会を主催したりまでしている)。肉をたくさん食べる習慣がなく、子ウサギを格安で売ってくれ料理している。
←最初の滞在は44日であったにも関わらず、昔からいた有力者の如く振る舞えているのは、元々そういうお国柄なのだろう。他の日曜日では、ボローニャの貴族が別のダンス大会を開いたと日記に書く。村の女たちは、そうやって娯楽と景品を手にするのだろう。自治都市として民兵までいるのに、この自由さは、日本の戦国時代と比べると雲泥の差という気がする。いや、戦国時代農民が一向宗門徒として100年間治めたという「越前加賀」ならば、このようなことが日常的に行われていてもおかしくはない。しかし、そういう文章はない。例えば、戦国時代が盆踊りの起源だと言われているけど、他所からきた貴族や武士が、そこに参加して楽しんだ、という記述が、何処にも無いというのは何故なのか。

7月3日。有名なピサに行き、斜塔も見てはいるが、心は全然動かず、隣の建物のことを詳述していたりする。26日までピサに留まる。健康か優れなかった。朝ひとつ小さな石、黒く濁った尿、もうひとつ小さな石が出て痛みが治まる。
←殿の結石は、なかなか厳しいもののようだ。

下巻には「解説」がある。かなり詳しかった。
訳者の宮下さんは、殿の旅日記について、少し突っ込んだことを書いている。前半は秘書が殿から聞き書きして日記を書いていたことは既に述べた。いやそうじゃない。殿の指示ではなくて「秘書が勝手に書いていたとしたら、どうだろう」。殿は秘書と別れた後にそれを初めて読み、刺激されて続きを書き始めたとしたら‥‥。と、宮下さんは書いてみる。確かに殿はひとつのことにかなり拘って長文を書いているし、数日何も書かなかったこともある。秘書の書き方は とはかなり違う。途中で日記の「スタイル」を変えたのは、おかしいと私も思う。ただ、本当のところは不明である。

宮下さんも旅の目的に、「温泉治療」のほかに、「旅を楽しむ」「憧れのローマを訪ねる」ことがあったろうと書く。日本中世神官が伊勢に行くようなものか。でも日本に旅日記はない。他にはやはりというか、仏国内ではアンリ3世から「秘密の使命」を帯びていたのでは?という憶測があるらしい(殿のスパイ説)。宮下さんは憶測の域を出ないと述べている。小説にするにはいい材料。

自由精神による旅レポートの起源はモンテーニュなのだろうか。思うに、日本の本格的な「自由な旅レポート」は、18世紀末の菅江真澄まで待たなくてはならないと思う。実は、西欧では14世紀に有名なダンテのイタリア旅レポートがある。果たしてどうなのか、いつか紐解きたい。

この本によって、西欧と日本の中世史について少し詳しくなり、そして旅日記について考察することが出来た。読書の悦びの一端を体験出来た。以上、長々と読んでくださりありがとう御座いました♪

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2026年05月26日

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