あらすじ
クマはもう人間を恐れてはいない!?
ツキノワグマの生態を25年以上研究する“クマ博士”が明かす、ニュースやネットでは伝えられない「本当のクマの話」。
なぜ2025年は異常にクマが出没したのか? クマの世界で、いま一体なにが起こっているのか? そして、2026年はどうなるのか?
クマを語るなら、まずは正しい知識から。すべての人に知ってほしい、感情論に流されずに自然との共存を考える1冊。
<知っておきたいクマの真実>
・冬眠しないクマはいない
・驚くべきクマの学習能力と行動範囲
・クマにとって人間は“邪魔な存在”
・クマの一番の死因は“子殺し”
・“鈴は意味ない”は本当?
・奥多摩から都心へ移動する?
・クマは多いのか少ないのか?
・人間とクマが共存するためにやるべき、本当のこと
【著者プロフィール】
小池伸介
1979年、名古屋市生まれ。東京農工大学大学院農学研究院教授。東京農工大学大学院連合農学研究科修了。博士(農学)。専門は生態学。主な研究対象は、森林生態系における生物間相互作用、ツキノワグマの生物学など。現在は、東京都奥多摩、栃木県、群馬県の足尾・日光山地、神奈川県丹沢山地などにおいてツキノワグマの生態や森林での生き物同士の関係を研究している。著書に『クマが樹に登ると』(東海大学出版部)、『わたしのクマ研究』(さ・え・ら書房)、『ツキノワグマのすべて』(文一総合出版)、『ある日、森の中でクマさんのウンコに出会ったら』(辰巳出版)、『タネまく動物』(編著、文一総合出版)など。2024年よりNGO日本クマネットワークの代表も務める。
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Posted by ブクログ
この章をまとめよう。2025年のクマによる人身被害は、統計開始以来最悪の事態となった。東北を中心に236人が被害に遭い、13人が死亡した(12月末まで)。市街地での出没が、夏の時点で7割に達し、複数人でいても襲われ、街中を落ち着いて歩くクマなど、従来の事例では説明できない事態もあった。背景には、ドングリの凶作という短期的要因と、40年から50年かけての分布拡大と生息数の増加、バッファーの喪失、警戒心の低下という長期的要因が複雑に絡み合っている。1999年に始まった20世紀型の管理制度は2世紀には通用せず、2023年にようやくガイドラインの方向転換が始まったが、間に合わなかった。
行政は人材不足と予算不足に苦しむ。そもそも、米国のベア・スペシャリストのような専門家は日本にはおらず、行政の担当者が人事異動で3年で交代するような状況が続いている。一方、メディアはセンセーショナリズムに傾き、世論は「かわいそう」から「絶滅させろ」へと激しく振れた。誰もクマを知らないのに、勝手なイメージだけが独り歩きしている。
また、よく開かれるのは「ヒグマのほうが凶暴か」ということだが、この点については長親に気を付けなければならない。「凶暴」という言葉には、受け取る人によって違う印象が加わり、何をもってして「凶暴」かどうか、定義をはっきりさせなければならない。 同じ意味で、多くの人は「クマは臆病だ」と言うが、これも表現として間違っている。私はいつもクマに関しては「警戒心が強い」という言い方をする。ツキノワグマもヒグマも非常に人間に対する警戒心が強い動物で、基本的には人間と出会いたくはないという願のもとに生活している。そのため、基本的な対策としては鈴などを身につけて音を出し、 人間の存在をクマに知らせることは共通している。クマの性格を一般的に「凶暴」とか 「臆病」などと言ってしまうと、その言葉が持つ人間側の意識として、恐ろしい、弱いといったイメージを予断として持つ人が出てくる。そのため「専門家は臆病と言っていたが実は脈病ではないじゃないか」というような誤解を生んでしまう。クマは凶暴でも瞳利でもなく、ときとして人間を攻撃し、普段は人間を警戒している。
強い好奇心と探索能力
クマを観察していると、動くものを追いかける能力など動体視力が非常に鋭いことがわかる。世界がどのように見えているのかはわからないし、ひょっとすると視覚自体はボンヤリとしていたり、遠くがよく見えていない可能性もあるが、動くものを捉える能力は非常に高いようだ。おそらく嗅覚で捉えた情報を聴覚と視覚で補い、食べ物なり危険なものを探知していると考えられ、この3つの感覚を非常に高度に統合させているのではないかと思われる。
また、クマという生き物は非常に好奇心が強い動物である。同時に、特に食べ物に対し、 とても探索能力の高い動物でもある。これまで、これらの強い好奇心と食べ物への高い探索能力を人の前で出すことは少なかった。なぜなら、人への警戒心がストッパーになっていたからだ。ところが、こうした警戒心が抜けてしまうと、ただ好奇心の強い探索能力の強い動物としてのクマになる。人や人の生活圏に対する好奇心が芽生え、警戒心が弱まったり、警戒の閾値が低くなったりした状態で食べ物があることを察知すれば、そこを徹底的に探索する。
近年になってこのような行動をするクマがあちこちに出てきているということは、どこの地域でも警戒心が薄れたり、すっぽり抜け落ちてしまったクマが出現する状況になっているということでもある。つまり、そうしたクマを作り出す、あるいはそれを助長するような条件が整ってきた地域が、各地にでき上がりつつあるのだろう。例えば、東京でもこうした条件が整えば、高尾山や八王子市内などにクマが出てくることも十分に考えられる。 それは秋田県などで起きた状況と同様のフェーズと言える。クマの行動が変容し、ドングりの国作が重なれば、人身被害に発展するリスクは高まるだろう。
クマの好奇心と探索能力は警戒心の低下によって発揮される。しかし、それだけではない。クマには、経験から学び、記憶し、それを将来の行動に生かすという能力もある。
あそこへ行けば美味しい食べ物がある」と記憶
クマは生クマは非常に賢い動物である。この賢さの意味は、記憶力と学習能力が高いということだ。もちろん、これらは人間の知能とは異なる能力だ。母親から教えられたり、後天的に会得した経験から食べ物を探索し、危険を察知したり避けたりする能力と言っていい。
何がクマを呼び寄せるのか
ここまでクマについて、好奇心旺盛で探索能力に優れ、一方で警戒心が強いということを述べてきた。では、クマはどんなものに好奇心をくすぐられ、引き寄せられ、本来なら強い警戒心のために避けてきた人里へ出てきてしまうのだろうか。よくクマの誘引物として引き合いに出されるのが、防除対策のしていない農作物(果樹、トウモロコシなど)やその放置物、生ゴミや残飯などだ。その他に、ぬか漬けなどの発酵食品もにおいでクマを引き寄せる危険性があり、屋外に放置されたイヌやネコの食べ物も誘引物となる。
また、ガソリンや灯油、ペンキ、シンナーなどの揮発性の物質も嗜好するとされている。 ただ、これらの揮発性物質は、例えばカキやクリ、残飯などの誘引物とは異なったものだと思う。もちろん、クマが揮発性のシンナーなどのにおいを好むのは間違いなさそうで、 国立公園の道路標識などにクレオソートのような防腐剤が塗布されていることがあるが、 クマはよくそうした標識や看板をかじったり、執着した痕跡がうかがわれることも多い。
前述したように、クマは秋の間に1年間のエネルギー摂取量の8割ほどを摂取し、それらから作り出された脂肪を冬眠中だけでなく、実は翌夏まで使い続ける。夏の山は本当に砂漠のように食べ物が少ないため、冬眠から目覚めた後、春から夏までの間も、前の年の秋に溜め込んだ脂肪を消費しつつ過ごす。クマの脂肪には、皮下脂肪、内臓脂肪、骨髄脂肪などがあるが、ダイエットですぐなくなるのは皮下脂肪だ。内臓脂肪はなかなかなくならないし、骨髄脂肪は本当に餓死寸前までいかないと使わないような脂肪である。
ドングリが豊作の年の翌年は、せいぜい次の夏までに皮下脂肪を使い終わり、内臓脂肪に手を付け始めるぐらいで乗り切れる。しかし、凶作の翌年は皮下脂肪、内臓脂肪だけでは足りず、骨髄脂肪にも手を付けないといけないぐらい飢えた状態になる。どんな生物も未来のことはわからない。秋の間に栄養を摂れるならできるだけ摂っておきたいというのが、クマ側の事情なのだ。だから、食べ物がなければ省エネを優先し、早く冬眠してしまう。冬眠して寝てしまうことによって無駄な消費を抑えられるので、凶作の年であっても何とか翌年の夏まで生き延びていけるのではないだろうか。
クマから命を守るには
改めてにはなるが、クマと出遭った際にできることは何もないと考え、クマと出遭わないことが、人身被害を発生させないための基本である。それでもクマに遭ってしまうことはあるため、それぞれの対処法を示す。ただし、クマに出遭ってしまったときの正解はないと考え、落ち着き、柔軟な対応が求められる。
出遭わない(至近距離遭遇を避ける)
・クマによる人身被害は、突然の至近距離での遭遇時に起きやすい。早朝・夕方(薄明薄暮)や見通しの悪い場所は、クマも人も互いを発見しにくい。
・生活圏および出かける先の地元自治体の出没・目撃情報を確認する。特に、例年と異なった場所や時期に出没や目撃がある場合には、予想外の場所でクマに遭遇する可能性がある。
・鈴・ラジオ・声・拍手といった音でクマに人間の存在を知らせる。特に雨の日や沢沿いなど音が消されやすい場所では、複数人で大声を出す、手を叩くといった、より積極的なアピールを組み合わせる。
・単独行動は避ける。クマとの死角となる藪際・沢沿い・林縁を警戒する。
遭遇時の対応(近い・遠い・攻撃の有無などで異なる)
・クマが人間を攻撃する場合、捕食目的よりも驚き(自身の防衛、子連れ防衛、食べ物防衛など)のケースが多く、人間側の行動が攻撃の引き金になりやすい。
・基本は「逃げる・追う・近付く」を避け、状況に応じて落ち着いて距離を取る。
・遠くにいるクマを見つけた場合:まず距離を取り、静かにその場を離れる(刺激しない)。写真撮影や接近はしない(母グマがいたり、近くに確保した食べ物がある可能性)。
・近距離で遭遇してしまった場合:走らない(追跡を誘発する)、大声で威嚇しない/急に近付かない(驚かせない)。クマの様子を見つつ、ゆっくりと後退して距離確保(視界を保ちながら)。子グマが見えたら特に危険で、近くに母グマがいることが多い。 いることが多い。
・人間の生活圏(庭・畑・通学路など)で遭遇した場合:基本的には右記と同じであるが、 近くに家や車があれば中に避難する。
クマを森から出さないために
クマを人間の活動域に寄せ付けない(誘引物管理・環境管理)ことも、人身被害を発生させないための基本である。個人でできることを改めて記す。
・生ゴミ・残飯を屋外に放置しない。回収日までの保管をしっかりと行い、臭い漏れを減らす。
・果樹(カキ、クリなど)は、収穫しつくし、落果を拾う。不要であれば伐採する。
・農地は電気柵で囲う。不良果実などの収穫残渣を、電気柵外でも放置・廃棄しない。これは農地が食べ物の供給場所になり得ることをクマに学習させることとなる。
・農地や集落周辺の藪を刈り払い、クマの隠れ場所を減らす。
・地域ぐるみで誘引物を減らすことで、集落そのものがクマにとって魅力のない場所にすることが重要。
…クマ問題の解決には多層的なアプローチが必要である。第三章で述べたように、個人レベルでは鈴で存在を知らせる、誘引物を管理する、遭遇時に適切に対処するといった日常的な対策が基本となる。重要なのは、クマに対する正しい理解である。クマは「凶暴」でも「臆病」でもなく、学習能力の高い、警戒心の強い動物である。その警戒心を維持し、人間を「怖い存在」として認識させ続けることが、人とクマの適切な距離を保つ上で不可欠なのである。
地域・行政レベルでは、机上と現場で活躍する専門人材の育成、ゾーニング戦略、自治体ごとの個体数推定は当面は継続しつつもユニット管理に基づく相対的な個体数指標の計測とその増減の把握、人間の活動域周辺の超低密度化と間引きによる個体数管理などの施策が求められる。特にゾーニングは、クマの生息域と人間の生活圏を明確に区分し、バッファーで緊張関係を維持することで、長期的な共存を可能にする鍵となる。
これまでのクマ管理で行われてきた、問題を起こす特定の「問題個体の排除」、被害を未然に防ぐ「被害防除対策」、誘引物の除去、侵入ルートの遮断、刈払いなどによる心理的な障壁作りなどの「環境管理」、人への情報発信や教育、普及といった「人の行動管理」 を継続するのは大前提としつつ、地域によってはクマを減らす・分布域を縮める「個体数管理」を選択できるようになるのが、2世紀型のクマ管理と言える。
そして、地域ごとの被害状況と社会的許容度を考慮しながら、適正な個体数管理を行っていく。短期的な対症療法と長期的な構造改革、個人の行動変容と制度設計、科学的知見と実践的経験――これら全てを統合した総合的なアプローチによってのみ、クマとの真の共存が実現できるだろうし、これが科学的根拠に基づきつつも、現実的で持続可能なクマ管理のあり方である。