あらすじ
「多様性を尊ぶ自由主義」と「統合を求める民主主義」。この二つの論理がぶつかり合う克服できない対立の中に、現代社会が抱える問題の核心が潜んでいます。
誰もが一度は考えたことがある「なぜ差別はなくならないのか?」という問いに、本書は徹底的に切り込みます。アイデンティティとシティズンシップの緊張関係を丹念にひも解きながら、善悪二分法やスローガンの応酬を超え、SNS・運動現場・メディアでの言葉の衝突を鋭く読み解きます。
本書の特色は、「反発」「反感」を手がかりに差別を生む政治的・経済的・社会的背景を浮かび上がらせる点にあります。ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)やハラスメントの論理を通じて、差別と正義の言説構造を批評的に検証します。
単行本発売後から「単純化を拒む刺激的な問い」を投げかける作品としても高く評価されており、「読む者に覚悟を迫る一冊」などとも言われています。
そんな本書の文庫化にあたり、新章を加筆。哲学者・千葉雅也氏の解説も収録し、アイデンティティ・ポリティクスとシティズンシップの対立構造が、より立体的に読める形で甦ります。
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Posted by ブクログ
今まではなんとなく自分はマジョリティな方かもしれない、というくらいの認識でしたが、自分がいかに普通で普遍的な存在であるかを思い知りました。
元々私は差別について、昔から言われていることなのにどうして無くならないんだろうという疑問があり、こちらの本を手に取りました。
こちらの本を読み、差別は、歴史や道徳、人間の生来的な部分と複雑に絡み合っており、差別の解消は容易なことではなく、長い道のりが必要となることを学びました。(というより無理なのかもしれない)
また、全編を通して、結局人間は自分が一番可愛いんだ、と思いました。このことに少し落胆したと同時にすごく納得しました。実際、自分の現状に余裕が無いと、他の人に目を向けることは難しい。この人間の現実をきちんと理解しておくことが、知らず知らずのうちに相手を差別してしまわないために、まずは大切だと思いました。
Posted by ブクログ
シティズンシップ(自由主義、市民という理念)は空虚である、という主張がめっちゃ出てくる。
だけど、「だが、いかに空虚であれ、市民という理念が失われれば、差別は差別として批判できなくなる。」(p200)
あと、千葉雅也の解説も面白いし分かりやすい。
「シティズンシップの普遍主義には、ある普通さを当然視させる圧力がある。そしてそれは、実は何らかのマジョリティの価値観に他ならないのではないか。」(p312)
以下は、本書を読みながらの雑多なメモです。
◆ヒュームの法則
「である(事実命題)」から「べきである(価値命題)」を導くことはできない。
例:「女性は子どもを産むことができる」としても、「だから女性は子どもを産むべき」と結論づけることはできない。
◆黙説法(もくせつほう)
あえて言葉を省略することで、読者に省略した部分を推測させ、よりふかい印象を残すレトリック。差別的な言説においてよく使われる。
例:「〇〇さんは実はあれなんだ」→「あれ」が「被差別部落」などを指すが、聞き手は話し手の口ぶりからそれを推測し了解する。あえて言い落とすことで差別的な雰囲気を醸し出し、責任を追及された場合は「そんなこと言ってない」と言い逃れできる。
言説の合理性と差別性は関係ない、差別かどうかを決定するのは、市民としての尊厳である。
差別に「差異」は必要ない。差別が当然の行為で合理的であるかのように見せるために、実在的な「差異」が持ち出される。
不平等を不平等と認識させるためには、論理的に、差別者と被差別者が同一カテゴリーであるということを根拠とせざるを得ない。
ある集団がみずからの同質性を保つために、ある特定の人々を排除し、殲滅しようとする。その差異はあらかじめ存在していたのではなく、排除という行為を通じて構築される。
◆功利主義
以下の特徴を持つ。
①行為の正しさは結果によって評価される。
②行為の正しさを評価する際に、人々の幸福に与える影響こそが重要視される。
③個人の幸福でなく、人々の幸福の総和を最大化するように求める。
ポリコレが社会を覆う状況にだれもが息苦しさを覚えるのは、「とんでもない責任のインフレ」を感じるためだ。そのうっとうしさから逃れようと、すべての負債を肩代わりしてくれるスケープゴートを探し出し、魔女狩りのように炎上させ、「自らの行為の責任をやすんじて免除する」ことが繰り返されるのだ。(p221)
ポリコレのうっとうしさから逃れる方法は2つ。
①ポリコレの息苦しさをものともしない強い主体になる。
②一切の責任概念なしで社会制度を構築する。
そして、そのどちらでもなく、「説明する責任」を見直すことがいまこそ必要ではないか。自らの行為を言葉で説明することは、責任のインフレから逃れるための最初の一歩である。(p231)
日本国憲法によって戦後日本はリベラル・デモクラシーを採用した。その結果、天皇制はみずからの存続を図るなかで、多くの国民の支持を得るためにリベラル化せざるを得なかった。(p251)
私たちの戦後民主主義(リベラル・デモクラシー)は、自由主義と民主主義のできちゃった結婚だったのだ。しかし、経済成長が見込めないいま、その結婚は破綻しつつある。(p254)
他の国の国民より自国民を優先するという意味で、福祉国家は「自国民ファースト」である。これが「福祉排外主義」と呼ばれるものだ。福祉国家は外国人や移民を排斥する排外主義と結びつきやすい。(p283)
簡単に言えば、これまでの私たちは「金持ち喧嘩せず」で済んできた、ということだ。しかし「格差社会」が流行語となり、「衣食足りて礼節を知る」時代が終わり、いまや私たちは「貧すれば鈍す」なのである。(p285)
◆グラムシ主義
「陣地戦」という革命戦略のこと。教育、メディア、労働組合、宗教、コミュニティといった市民社会の領域に浸透して、文化的な影響力を高めていき、やがて議会において多数派を形成することを目指す。左派やリベラルの重要な戦略だったが、近年は右派や保守がグラムシの戦略を取り入れ、地方議会に請願したり教育現場に働きかけたりしている。いまの陣地戦の主戦場はインターネットである。(p288)
SNSに最適化した言動をとっているのは、ドナルド・トランプだ。①分かりやすい敵を名指しする。②その敵が諸悪の根源であるかのように汚い言葉で罵る。③自分たちは非のない善良な被害者のように振る舞う。④怒りを煽り、同情を誘い、敵への攻撃をけしかける。
トランプ的な言説に対抗しようとすればするほど、SNSにおける振る舞いはトランプ的になってしまう。
◆インターセクショナリティ
「交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすかについて検討する概念」であり、「とりわけ人種、階級、ジェンダー、エスニシティ、年齢など数々のカテゴリーを、相互に関係し形成し合っているものとして捉える」ための分析ツール。
つまり、階級、人種、性的指向や障害などさまざまな属性が交差することで生じる差別の複雑さを認識するための概念。(p292)
Posted by ブクログ
差別とは何か、今一度捉え直すための一冊です。
本書では「ポリティカル・コレクトネス」は反差別闘争に取り組む「新しい社会運動」(新左翼)が、階級闘争に忠実な古臭い左翼(前衛党)を揶揄するために使い始めた言葉としています。
現状では保守派が“ポリコレ”と全体主義のイメージを結びつけ、リベラルな価値観や教育を攻撃するために流用する道具になりつつあります。
差別主義者と反差別主義者を問わず、いまや 「差別における責任観」=「強い責任理論」が社会的な規準として採用され、「とんでもない責任のインフレ」が起こり、「どこにでも責任があるがゆえにどこにも責任がない、 無責任の体系」が広がってしまったことを本書は伝えています。